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前回は一般理論とかグランド・セオリーと呼ばれるものが、なぜこの成熟社会に至って力を失ったのかという理由をお話しました。 もうひとつ、社会学の研究システムが大学内で制度化されることによって、社会的関心と社会学的関心がかい離していく、つまり、社会学を知ることと社会を知ることの間に距離が生まれてこざるをえないという、一般的に、社会科学の研究システムに存在する問題があったという話をいたしました。 一般的なシステム概念の展開 そして理論的な話としては、システムというのが基本的にどういう概念であるのかというのをちょっとお話いたしましたね。前提循環の閉じ、あるいはループが存在するときに、そこにシステムがあるというふうに見なすということであるわけですよね。ところが、実はこのようなループというのは単独で成り立つわけではなく、一定の環境変数に支えられて初めて可能なのであるということ、つまり、A、Bという循環のループは、単独で存在するというよりも、一定の場、あるいは関係の中に置かれてようやく可能になるのだということであるわけです。
このように、あるシステムが、何らかの前提条件によって支えられるということがあるのと同じように、実は、あるシステムの存在が別のものに前提を供給するということがありうるわけです。例えば、A、Bと同じようにC、D、Eという前提循環が存在するとして、その前提循環を前提づける、ないし条件づける、その条件をこのAとBからなるループが与えるという可能性がありうるわけですね。
そういうふうにいたしまして、実はもう一つ、上位に、α、βからなる、こういうループが成り立つということがありうるわけです。
あるいは、同じように、論理的な可能性ですが、ここでA、B、C、Dを一つの実体であるかのように記述いたしましたが、その内訳を見ると、これは、上位に開かれているのと同じように、下位、あるいは下方に対して開かれるようなループであることがありうる。 システムという概念を理解するときにイメージしていただきたいのは、このような交互的な条件づけの上方への展開、下方への展開ということであるわけです。 前回、お話をふっておきましたけれども、このような上方と下方に開かれたループというものを考える場合、一般にこれは生物有機体の構成を表しているわけです。実はこのようなシステム概念というのも、実は生物学、とりわけ神経学、免疫学の中から発展してきたシステムの概念図式を利用したものであるわけです。 有機体的な構成と、ロボットとの違いというのを考えていただきますと、実はここでお話ししたようなシステム概念の意味をよりよく理解していただけるわけであります。 有機体とロボットの違いは、部品ないし部分という概念の違いにあります。ロボットは、分解してまた組み立てれば動きますね。あるいは、ロボットをたたき壊せば部品が散り散りになりますが、一個一個の部品は有用ですから、有用な部品を寄せ集めて、また元のロボットを作ったり、あるいは別の機械を作ったりすることができます。ところが、有機体は、一回分解して組み立てることができません。同じようにたたき壊した後、利用可能な部品を使って、ちょうどフランケン・シュタインを作るように別の有機体を作るということができません。 このような有機体とロボットとの違いがなぜ生じるのかということを考えるのにループ自体が説明する図式になるわけです。 まず、図を見てください。一番外を囲んだものを有機体の中と外を区別するものと考えてくださいね。中のα、βと囲んだものを部品と考えます。この部品(α、β)はそれぞれ前提を供給しあっています。さきほどの言い方にひきつけて言うならば、αはβに前提が供給されており、βはその逆が成り立ち、それによって維持可能なわけですね。ここでもう少し考えてみると、有機体の部品と述べたα、β自身もループであることがわかります。 α=a、bからなるループ、β=c、d、eからなるループと考えればよいわけです。もちろん、a、bなどについてもα、βと同様にaは〇〇からなるループで・・・・・、と言えますよ。 今、有機体について、まず全体(一番外の囲い)からはじめて、その部品、そしてそのまた部品・・・・、と話したわけですが、全体→部品という話の順番が意味しているところは、下位=相対的に部品の方、は上位=相対的に全体の方、があってはじめて維持可能であるということです。 つまり、αというループが成り立っていることが、a、b自体の存在を可能にしているというわけです。そうなると、上位→下位というこの矢印において上位が破壊されてしまえば、下位を可能にしていた環境条件を満たさなくなるわけですから、維持できなくなります。すると上位→下位という関係は相対的なのでどんどんより下位なものの維持可能性が破壊されていくわけです。 このように全体を壊すと、全部壊れてしまうということが起こるわけです。実際問題として、僕なら僕という生理有機体を殺してしまうと、しばらく心臓が、あるいは個々の神経組織が拍動を続けたり、パルスを伝達するわけですけれども、しばらくするとそうした部品の発動が、例えば臓器というレベルで、あるいは神経系や免疫系といったレベルで停止しますね。それが停止すると、今度は個々の臓器の停止ということがあって、今度は臓器が停止すると、今度は個々の細胞の停止というのがあって、ほどなくすべてが停止するということがあるわけですね。全体=さきほどの言葉で言うなら上位ということですが、が部分=下位の維持可能条件になっているという関係がある以上、逆の、つまり部分から全体へ因果関係を元に戻すことができないというシステムを有機体はとっている、これがロボットと有機体の違いであると言えるわけです。 つまりロボットは今述べた有機体とは違う概念化によってようやく記述可能になる別個のシステムであるというふうに考えることができます。 ここで非常に重要なのは、ちょっと書きましたが、概念的に書くとですね、有機体の事象は部分と全体の間にもループが存在しているというふうに考えることができます。ロボットの場合にはこのような概念図式が成り立たないということです。 どういうことかというと、例えばですね、分かりやすい例を挙げますと、細胞膜という部品があります。細胞膜がなければ、細胞の内容物質、細胞質は外に移動して漏れ出てしまいますから、基本的には、細胞膜が細胞の全体を可能にしている、支えていると言うことができます。しかしながら細胞膜というのは、ロボットの走行板のような部品とは違って、細胞の全体組織が活動を続けるということによってようやく実体を持つことができるようなものであります。細胞が死ねば細胞膜も機能しなくなります。細胞膜と呼ばれるものは、一定の、例えば浸透圧を保ったりしなければ、部品としての機能を果たさないわけですが、このような細胞の含水率とか、様々な組成というのは、全体と部品の間のループが円滑に機能していることによってようやく可能になるというふうな全体と部分との循環が存在するということが生物有機体的なものの、ロボットと比べた場合の、非常に大きな差異であるというふうに言うことができるわけです。 2.社会システムについて さて、次にですね、ここまでの話は、社会システムだろうが、社会システムでないシステムであろうが、全てのものに当てはまる説明をしてきたわけです。ところが、これから、その様々に存在しうるシステムの中で、とりわけ社会システムというのは、どのような特徴を持っているのかということをお話ししますね。 今日の話は抽象的なんですね。難解かもしれません。これを拘束する決定のことを縮めて「集合的決定」と呼ぶんですが、集合的決定を算出する機能のことを政治と言います。 この集合的決定の算出が円滑に作動していることによって、全体社会システムというのがうまく動くわけです。全体社会システムの中にはむろん政治以外に、経済も宗教も、あるいは性も家族も教育も、ありとあらゆる様々な部品が集まっているわけですが、政治はその一部ですね、しかしその政治システムが部品としてうまく機能していないと、全体社会は崩壊するわけであります。ところがその政治システムそれ自身は、単独で成り立つのか、そのようなことはありえません。例えば政治システムが戦争が望み、戦争を遂行することによって全体社会がメチャメチャになるけれども、政治システムだけが残存し続けるということはあり得ません。まあ、因果的にはありますよ、日本が焦土となり果てて国会議事堂だけが生きているというイメージは、想定可能ではないわけではありませんが、現実的には不可能でしょう。 そのような極限状況は、生物有機体でもやはり同じように想定可能なんですね。なぜ想定可能なのかという話は、やると長くなるんですけれども、実はこのような生物有機体が出てくるシステムというのはですね、元々はですよ、これは皆さん、ご存じかもしれませんが、原核生物から真核生物に移行するプロセス、つまり生物が進化していくプロセスで、例えば皆さんご存じのように、ミトコンドリアとか葉緑体とか、ああいう細胞内組織というのは全部、細胞外生物だったわけですね。細胞外生物が細胞内に寄生して入り込むことによって、実はシステムの複雑化を遂げているわけですね。ですから、ミトコンドリアはミトコンドリアで、実は単独の生物だったわけです。ですから過渡的な場面においては、バンと全体をぶっ壊すと、ミトコンドリアだけが永久に生き続けるということがありうるわけです。我々の生態物質でも、個別にはそういうことがありうるんですね。 そういう例外的なことを言っているときりがないので話を元に戻しますが、しかしこの政治システムというのは、単独で成り立っているわけではなくて、経済あり、教育あり、宗教ありの全体社会システムが機能していることによって、ようやく実体を保つことができる。 これはですね、部分と全体のループというものを表示しているというふうに言うことができます。いわゆる、この政治システムと書いた部分には、いろんなものを代入して結構ですね。先程も申し上げたように、様々な部分システム、部分システムというのは何かという話をこれからやりますが、例えば経済システムですね、市場と組織の組み合わせから成り立っている経済、あるいは消費と政策から成り立っている経済が円滑に機能していることによって、政治あり、宗教あり、様々なものが集まった全体社会が成り立つわけですが、全体社会が壊れて経済だけが残るということはありえないわけです。 例えば、僕が最近申し上げていることで言えば、近代における学校共同体や会社共同体や家族共同体というのは、近代社会というふうに第2次産業重視型の、そういうステージにおける社会において、都市労働者を支えるシステムとして要求されているわけですね。都市労働者というのは、基本的には工場労働者とサラリーマンであるわけですが、この工場労働者とサラリーマンを支えるシステムとして、学校共同体、会社共同体、家族共同体が要求されるわけであります。 そのような様々な経済システム外の事柄によって支えられてようやく、例えば第2次産業重視型、重化学工業重視型、あるいは生産重視型の経済システムが維持可能であるのでありますが、もちろんそのような学校共同体、家族共同体、会社共同体のようなものは、そのような経済が円滑に機能することによって、様々な資源配分がうまくなされているということを前提に成り立つという構造になっているわけであります。全体社会が壊れて、経済システムだけが部品として実体をあらわすことは論理的にありえないと考えて結構です。 今までの説明で、社会システムというのはどういう実体であるのかというイメージをご理解いただけたのではないかというふうに思います。まあ、大学院レベルの授業であれば、例えばロボットに象徴されるようなシステムと、有機体によって象徴されるようなシステムを形式的に記述するとどういうふうに違ってくるのか、あるいはどのような記述形式がそれぞれの実体にふさわしいものであるのかというふうな議論を示唆したりすることができます。 例えば、機械のうまい作動をするためには、いわゆる連立微分方程式というので記述するのが最もうまくいくことがわかっています。ところが、このようなものになりますと、基本的には非線形という作動形式になると共に、極めて複雑性が上昇するので、微分方程式の連立などによって作動することは極めて困難になってきます。別の図式から必要だとか、まあそういうような話になります。 あるいは、大学院レベルで言えば、ロボットのレベルであれば、定常性という概念を考えなくていいんですが、つまり、均衡、バランスということで考えるんですが、こちら=社会システムは定常性という概念を考えなければうまくいかなくなります。 定常性というのは、簡単に説明すると、ある状態が続くための条件であります。AならAという実体がそのまま続く、BならBという実体がそのまま続いていることそのものを定常性と言います。定常性というのは、単にバランスではありません。バランスというのは、外から何の条件がなくても、例えばやじろべえが、最初、ある一定の初期値からびゅんびゅんと振動して、バランスを取りますよね。そしたらそのバランスは永久に、外の条件、絶えず何かを供給されなくても維持可能でありますけれども、定常性というのはそうではありません。絶えず何らかの物質やエネルギーの移動が、つまり物質やエネルギーの循環が存在して初めて、ある実体が維持可能であります。僕たちの体がそうですよね、絶えずエネルギーと物質が循環している中で、ようやく形を保ちます。流れの中でようやく形を保つという意味では、海流の中の小さな渦のようなものに似ています。 このように記述する化学の枠組みで散逸構造論というのがありますけれどもね、基本的には自由エネルギーの巨大な流れが存在する中で、たまたまエア・ポケットのようにしてできあがる秩序、したがって自由エネルギーの流れが途絶えてしまえば、実体が、つまり渦なら渦巻きが消えてしまうような、そういうようなものとしてこういうイメージを想像なさるといいと思います。 ロボットは動いていようが止まっていようが、置いておけば、ある実体を保つことができますね。バッテリーはいずれ切れるでしょうが、バッテリーを供給すればまた動きます。我々生物有機体はそうではありません。そのまま置いといたら、いずれ朽ち果ててしまいます。つまり死んでしまうわけですね。死んでしまえばなくなってしまいます。我々が形を保つということは、絶えずエネルギーと物質の巨大な流れの中に置かれているということを意味しているということになります。 3.秩序とは何か? ここで、「システムとは何か」という問題について今お答えしたということにいたします。 次にですね、今「システムとは何か」ということについてお話ししましたが、次に「秩序とは何か」という話をいたしたいと思います。 秩序というのは、理科系出身の方がここにいらっしゃればすぐにおわかりになるように、エントロピーの低い状態を意味します。「エントロピーの低い状態」というのを一口で説明するのは極めて難しいのですが、これは、エントロピーというのは元々確率論、総計幾何学の概念であります。より少ないミクロ状態の集合によって記述されるマクロ状態というのがエントロピーの低い状態です。 簡単な意味を説明しましょう。例えばですね、今、白玉が二つあります。で、黒玉が二つある。それを縦横2個づつ枠の中に並べるとしますね。そのときに、例えば、左が黒、右が白という状態、これはつまり、マクロ状態と言いますね。で、そのマクロ状態と、例えば、どう並んでもいいという状態、これも一つのマクロ状態です。いつも左側に黒、右側に白が来ているという、これもまたひとつのマクロ状態ですよね。 ちょっと図を書いてみましょう。(図4−1、4−2参照)どちらが秩序立っているのかということですが、マクロ状態2の方が秩序立っています。つまり、図4−2の方がエントロピーが低いということですね。エントロピーが低いというのはどういうことかというと、例えば、ここに黒玉が二つありますが、これをa、bと区別しますね。そして白玉二つあります、これをc、dと区別します。そうすると、白玉、黒玉全部で4つありますが、4つの玉をどうとでも並べる可能性ということですね、玉の位置を、一個一個の玉のアイデンティティに注目して記述すると、例えばa、b、c、d、とも並べられるし、a、b、c、dとも並べられるしという、要するに4つの玉を並べる順列と同じ可能性があるんですね。まず1番に、つまりこの場所に入れる玉が4通り、残りの3つも同じように並べますから、24通りになるわけですね。
つまり、このどうとでも並んでいいというマクロ状態を、ミクロ状態の区別によって記述すると、24通りのミクロ状態が存在する。つまり、この灰色っていうマクロ状態は、24通りのミクロ状態を含んでいるわけですね。それではもうひとつの方は、どうか。書き出してもわかりますが、4通りしかない。
つまり、左半分に黒がきて、右半分に白がくるというこのマクロ状態を、ミクロ状態の区別によって記述すると、4つのミクロ状態になる。いいですか。で、これとこれを比較していただくとわかるわけですが、ミクロ状態の数がこちらのほうが少ないわけです。つまり、取りうる状態の数、取りうるミクロ状態の数がより少ないものを、統計力学ではエントロピーが小さいというふうに表現いたします。 したがってこの場合、24通りのミクロ状態を含むマクロ状態1よりも、4通りのミクロ状態しか含まないマクロ状態2の方が、エントロピーが低く、従って秩序がある、秩序立っていると表現することができるわけであります。 秩序というのはこういうことなのであります。 で、さっき前提循環ということで記述しましたよね。前提循環が存在する。例えば、まあ、ここにαとβというふうにさっき変数を記述しましたけど、例えば、αは元々α1、α2…αnという値を取りうるとしますね。で、βという実態も元々β1,β2…βmという値を取りうるとします。 ところが、このような前提循環のループが存在するときに、例えばループが存在するせいでこのαがα1とα2という値しかとらない。βも、β1,β2しか取らないというふうになるということが前提循環が存在するということの意味であるわけです。 そうすると、例えば、これはどういうことかっていうと、ミクロ状態の区別で定義すると、ここ(α)は元々n通りの値が取りえて、こちら(β)も本当はm通りの値が取れるわけですから、秩序がない状態です。秩序がない状態では、n×mのミクロ状態が存在することになるわけですが、例えばこの前提循環の結果、α1,α2,β1,β2,というような値しか取り得ないとすると、α1に対してβ1,β2,α2に対してβ1,β2ですから、4通りですね。 例えば、こちらが10で、こちらが20であれば200になりますが、無秩序の場合には200通りのミクロ状態が含まれるが、秩序のある場合には、つまり前提循環が存在する場合には4通りのミクロ状態しか存在しないというふうに記述できるわけです。 つまり、実はシステムが前提循環ないし交互的な条件づけのループを構成しているということは、そのループによって、より少ないミクロ状態を維持している、その意味で秩序を維持しているというふうに言うことができるわけです。 さらにこのことをパラフレーズすれば、こういうことでありますね。さきほど、元々はシステムを交互的な条件づけ、あるいは前提循環ということによって記述をいたしましたけれども、別の言い方をすればですね、内部的なメカニズムの作動によって、秩序を維持するメカニズム、これがシステムである、と言っても構いません。このことをシステム理論ではこういうふうに言います。内部的なメカニズムの作動によって、秩序の低い状態を維持している、つまり、さっき言ったようにこの循環が存在しなければ、すぐにまた元に戻っちゃう、循環が存在し続けることによってようやくある少ない状態というのを維持しているということですね。つまり「内外差異」と言います。内というのはシステムですね。外というのはシステムの外です。差異というのは、ミクロ状態の、あるいは秩序の差異です。システムというのは、自らの作動によって、内外の差異を維持するシステムであるというふうにシステム理論の言葉では言います。自らの作動によって内外の差異を維持しているもののことをシステムと呼ぶということですね。 自らの作動によらないでたまたま、例えばある部品、ロボットならロボット、メカニズムならメカニズムで、外側からの作動によっていつも黒玉が左側、白玉が右側に来るようになっているという場合には、それはシステムというふうには言いません。自らの作動によって、つまりこの前提循環によって少ないミクロ状態を維持している場合がシステムであります。あるいはここで言う有機体的なシステムであるということになります。 あと更に、システム理論の中で非常に重要な概念は「境界」です。 「秩序」と「境界」というのは、表裏一体の概念です。秩序が存在するというのは、秩序と非秩序の間の、あるいは秩序と無秩序の間に境界、境目が存在するということです。より少ないミクロ状態を持つマクロ状態とそうでないマクロ状態との間の差異が存在するわけですが、その差異を維持しなければなりません。つまり、システムというのは、また別の言い方をすると、「その境界を自らの作動によって維持するような何物かである」というふうに言うことができます。さらに、マクロ状態の中に含まれるミクロ状態の数、これを社会システム理論では「複雑性」と呼んでいます。その一個のマクロ状態に、どれだけのミクロ状態が含まれるのかということを「複雑性」と言います。そうすると、システムというのは、複雑性の低い状態を、自分の力によって維持する何物かであります。複雑性の低い状態を維持する、あるいは、別の言い方をすると、システムとシステムの外、つまり環境との間には複雑性の違いがあります。 さっき書きましたけど、どう並んでもいい無秩序の状態というのは、例えば24通りのミクロ状態を含みます。複雑性が高い。その「複雑性」という使い方は、僕たちの日常的な語感とちょっと違いますので、混同しやすいですね。ランダムな方(マクロ状態1)が複雑性が低くて、こうやって秩序が見える場合が複雑性が高いと言う方が日常的な語感にフィットするように感じるかもしれませんが、学術用語では、一個のマクロ状態が含むミクロ状態の数のことを「複雑性」というふうに呼びまして、したがって秩序が高ければ高いほど複雑性が低いということです、したがってエントロピーという概念の用法に類似する状態なんですね。秩序が高ければ高いほど、エントロピーは低い。複雑性は低い。 したがってそういうふうな概念を前提にすると、境界というのは複雑性の差異です。システムの課題は、その境界を維持すること、言い換えれば複雑性の差異を維持することということになります。 非常に抽象的な事を言っているように感じるかもしれませんけれども、今の最も先端のシステム理論の中の基礎概念中の基礎概念を説明しているわけです。これをご理解いただければ、基本的には『社会システム理論』ぐらいのレベルの文章は読めるはずであります。 一般に秩序と言われているものとか複雑性とか言われているもの、あるいは差異と言われているもの、境界の維持とか、そういうのがいっぱい出てきますけれども、それも、今述べた概念を全てご理解いただければすべてわかるはずであります。 今、秩序という概念に絡めて、差異とか境界というサブ概念も説明いたしました。例えば、このような概念を元に、具体的にどのようなものを我々は記述するのかという例をいくつか挙げてみたいというふうに思います。 これはこないだも申し上げましたけれども、わたしがよく「自己システムのループ」と呼んでいるシステムがあります。これはこないだ言いましたね。僕たちがどのような振る舞いに踏み出せるのかということは、自分についてどのようなイメージを持っているのかということによって条件づけられます。自分がリーダーシップを取れると思っている人間は積極的な行動に出やすいとか、そういうことですね。しかし積極的な行動に出て、成功したり失敗したりするということがあります。それが自己イメージにフィードバックされます。 このような体験を自己イメージにフィードバックするやり方に、論理的には5つのやり方がある、その5つのやり方によって、いわゆる人格システムと私が呼んでいるものを分類できるという話をしたことがあるかもしれませんが、今日はその話はやりません。 4.自己イメージシステムと偶発性 ここでは、ちょっとこういうことを言ってみたいと思います。例えば、「自己イメージの維持」というふうに申しましたが、いろんなものが絡んできますね。例えば、ナンパする、失敗する。リーダーシップを取ろうとする、失敗する。失敗したら自己イメージがいつもネガティブにフィードバックされるのかといったら、そうとは限らない。いろんな条件が絡みます。もちろん環境条件があるわけですね。あるいは、その行為をすることでいつも望みの体験が得られるとは限らない、そこにも、いろんな社会的な条件が絡んでくるわけであります。 とりわけ重視しなければいけないのは、行為と体験の間が、偶発性、つまりこのシステム自身によってはどうしようもない何物かによって隔てられているということであります。リーダーシップを取ろうとして積極的な行動を取ったからといってそれで皆に承認されるとは限らない。自分はモテる男だと思ってナンパする、その結果いつも望みの結果を得られるとは限らない。絶えず偶発性というものがそこに介在して、その結果得られた偶発的な体験が自己イメージにポジティブ、ないしネガティブにフィードバックされるということであります。 例えばですね、偶発性というふうに単純に言いましたが、実は社会学において重要なのは、偶発性に2種類のものがあるということであります。 これはですね、単一の偶発性、二重の偶発性というふうに分類することができるわけであります。どういう違いがあるのかというと、いわゆる社会性ということを考えるときの非常に重要なポイントになります。 例えば、単一の偶発性というのはこういうことです。弓を射るのが非常に上手な男がいて、そのことを自己イメージ、つまり自尊心の糧にしている、そういうケースを考えてみましょう。矢が的に当たれば当たるほど、彼の尊厳ないし自尊心は、ポジティブに強化されますね。このような、いわば的に当たるか当たらないのかといったような偶発性を、ここで単一の偶発性というふうに言っています。なぜ「単一の」と言うかというと、実はこれから申し上げる二重の偶発性との絡みで申し上げることができるわけです。 例えば、今の場合、いつも的に矢がバスッと当たることを自尊心の糧にするという自尊心の持ち方、自己イメージの持ち方以外に、矢を的に当てるとみんながほめてくれるということを自尊心の糧にする場合、こちらが実は二重の偶発性になります。いいですか。 これはどういうことかと言いますと、例えば、自分が矢を的に当てるということが他者の称賛を引き起こすかどうかということが実は偶発的なわけです。つまりここに、ある種の社会性の契機が入っていることがわかるんですね。実際には、単一の偶発性に対処するには、習練に習練を重ねて、単に物理的に真ん中に当たるようにすればいいのでありますが、二重の偶発性に対処するには、そのような物理的な習練では足りません。つまり、他者が何を期待しているのか、これは社会学で「予期」というんですが、他者の予期を自らが予期しなければなりません。あるいは他者の期待を察知しなければなりません。例えば、矢を的に当てれば、他者が賞賛してくれると「思って」矢を射るわけでありますけれども、それが他者の賞賛を呼ぶかどうかは、実はわからないわけです。それにもかかわらずこうすれば賞賛されるだろう」と思うのは、他者の期待を先取りするからであります。 皆さんに分かりやすい言葉で言うと、「他者の期待を予期する」ということですね。 このことを社会学では「役割取得」と言います。G・H・ミードという人の概念です。他者の期待を期待して行動するわけです。 実は、皆が他者に期待を期待して行動するとすると、大きな複雑性、非常にややこしい事態が生じてくることになります。 僕も相手の期待を期待して行動する、その僕の期待をまた相手も期待して行動するということになります。二重の偶発性でいう二重っていうのは実はそういうことなんですね。 例えば、詳細な例だと分かりにくいかもしれませんが、ひとつ例を挙げてみますと、例えば僕なら僕は、他者がこうすれば賞賛してくれるだろうという、つまり他者が「弓を当てることは素晴らしい」「こいつに弓を当ててほしい」とか期待しているというふうに思って行動するわけですね。ところが他者は他者で、「この男を称賛してあげればこの男はこうするだろう」と予期するわけです。その背景には、この男、僕なら僕が何を期待して、何をしようとしているのかという役割取得をして初めて可能になるわけであります。 実は、自己イメージにかかわる偶発性、とりわけその中のなかんずく二重の偶発性というのは、複雑な事態を意味しているということになるわけであります。 この点についてもう少しだけ例を展開いたしますと、一般にですね、自らの自尊心、尊厳をどのように組み立て、維持するのかという時に、単一の偶発性に対してより比重をかけるありかたと、二重の偶発的により比重をかけるやり方があります。 すでにもうお解りのように、単一の偶発性を維持する、つまり単一の偶発性に抗して自己イメージ、ないし尊厳、自尊心を維持するためには、コミュニケーションが必要ではありません。あるいは他者の存在も必要ではありません。ひたすら自らと物理的な外界との間の関係に意識を集中していれば、単一の偶発性に抗した自尊心の維持は可能です。そのようなものとしては、いわゆる運動能力のようなものがあるでしょうし、あるいは、他者とは無関係な、つまり達成といったものを尊厳の糧にするやり方というのがありますね。そのようなタイプの自尊心の持ち方があるのに対して、他者の賞賛、あるいは他者の承認を当てにし、自尊心を組み立て、維持していこうという戦略、あるいはそっちのほうを重要視する選択がありえます。 人間はどちらに軸足を置いても生きることができるわけです。ただ、社会システム理論の立場から言うと、二重の偶発性を、つまり行為と体験の間を隔てる偶発性として、二重の偶発性を重視する人達が一定数存在しないと、社会は成り立ちません。基本的に、他者の期待に応じるという行動が生じなくなってきます。そういう意味で、実は単一の偶発性よりもより敷居が高い二重の偶発性に対処しつつ自尊心を維持するというふうな、そういうふうな伝統的な在り方を実は社会システム全体は必要としていると言っても構いません。 『社会学の基礎』という教科書ではですね、単一の偶発性に軸足を寄せる在り方のことを「ナルチシズム」というふうに表現しておきましたが、実は皆さんもうおわかりのように、最近私が「脱社会性」と呼んでいるものというのはここに当たります。自分の世界の中だけで自分が回るということですね。自尊心、尊厳を構築するときに、他者との社会的交流を必要としない状態にあたります。これは極めて危険である。まあ、こういう人間が若干いることは仕方ないですけれども、これが広がれば広がるほど、危険は上昇してくると言わなければなりません。 5.社会性の区分について 二重の偶発性に抗して自己イメージを維持する、他者の社会的交流を通じて自尊心を維持する、それが「広義の社会性」と言いますね。まあ、「広義の」という意味は、この中にも狭義の社会性があります。これは、日常的な用語の範囲ですからね、簡単に言えば「反社会性」。後で「社会システムのループ」というものを記述するときにより厳密に定義できるわけですが、酒鬼薔薇聖斗の声明文みたいにですね、「自分の学校が気にくわないから打ち壊してやる」というような態度が反社会性です。しかしこの反社会性は広義の社会性の中に入りますね。2つの社会性がここにあります。 「こんな学校は許せねえからぶち壊してやる」と言う時には、もう一つの「ありうべき学校」について構想し、ありうべき学校についての承認可能性を前提にした行動がありますので、それは「二重の偶発性を当てにしている」という意味で社会的であります。 もう一つは、そのような声明文を発表したり行動したりすることで、共感を呼ぶことを当て込んでいるわけですね。つまり、「反社会性」という水準での承認、共感、そのようなものを当てにしているという意味でも、二重の偶発性を通じた、他者の期待を期待することを通じた自尊心の維持であるわけです。 したがってそのような2つの意味で反社会性は広い意味での社会性に相当します。 あるいは、別の言い方をするとこういう言い方をすることができます。例えば、エスタブリッシュメント(社会の体制)という言い方がありますが、社会の通常の体制の中では、あまり承認を得られない弱者がいるとしますね。エスタブリッシュメントの中で比較的抑圧された弱者がいるとします。この弱者はエスタブリッシュメントの外側に出ることで自らを保とうとする、でもそれは宗教に入るとか、サブカルチャー集団に所属する、あるいはある種の政治党派に所属するということです。 これは、別の本で私が書きましたけれども、オルタナティブな承認チャンスを、エスタブリッシュメントの外側に探しているということになりますね。したがってそれは、エスタブリッシュメントから見ると、つまり狭義の社会性から見ると反社会性ですけれども、この人間たちはもう一つの承認を当て込んでいるわけです。その一つの承認をサブカルチャー、あるいは宗教という概念で正当化していく、あるいは、居場所を探していると考えることができます。したがって、エスタブリッシュメントから見た反エスタブリッシュメントは、まさしく他人の承認を追求し続ける社会性をモロに表しているという言い方で表現すると、分かりやすいかも知れません。 この中にいろんな例がありますね。私の例で言いますと、東大の大学院にいたときにですね、主任教官というのは、名前は言えませんけれども、元共産党の非合法暴力活動にかかわっていた男なんですけれども、非常に権威主義的な男なんですね。で、私は彼と大学院の入試の面接の前日に大ゲンカをしたことがあります。その人間は私のことをエリート主義というふうに言ったので、僕は「お前こそエリート主義だ」と言い返しました。「あんたは結局エスタブリッシュメントの中で権力を獲得したかったんだろうけど、それが無理だとわかって、結局は共産党の中でもう一つの承認を獲得しようとしたが、それも果たせず、学生などを相手に研究室でチマチマ学生いじめをやって自らのチンケな尊厳を保っている凡庸なエリート主義者だ」と言ったら激怒いたしまして(笑)、私に殴りかかってまいりました。私も、これで大学院落ちたと思いましたが、どういう風の吹き回しか、大学院に受かりましたので、今があるわけですね(笑)。 要するに、反社会性というのは、そのような意味で広い意味での社会性、あるいは個人的実存の観点からすると、オルタナティブな承認チャンスを探す場所として反社会的な集団や反社会的なコミュニケーション、反社会的なサブカルチャーというのは非常に重要な機能を果たすというふうに考えていいだろうと思います。 これが自己システムのループと社会性との関係です。 6.相互行為システムのループとポジティブ・フィードバック 今度は相互行為システムのループということを考えることができます。 例えば、AさんとBさんが今、対面してコミュニケーションしているとしますね。Aさんの行為とBさんの行為がどういうふうな関係にあるのかと考えたときに、Aさんは、「Bさんはこういう人だろう」というふうに、さっきの話で言うと役割を取得して、Bさんの期待を期待して行動しているわけです。相手Bのイメージ、あるいは取得された役割、相手Bがどんなことを思っている、こいつはどんな人間だということを期待してAは行為しているわけですね。同じくBも、相手はこんな奴なんだということを前提にして行為しているわけです。 実はそのようなBの行為が、Aにとっての相手Bのイメージの前提を与えておりますし、その相手Bのイメージを前提にしたAの行為選択が、実はBにとっての相手Aのイメージを前提づけているというような構造になっています。 これも、ある出発点から出発すると同じ場所に戻って来るという意味で、一見複雑に見えますが、ループです。このようなもののなかでありとあらゆる行為可能性、イメージの可能性の中から、特定のものが選ばれて維持されるということがありえます。つまり、これも実は、より複雑性の小さな状態を維持する一つのシステムであるというふうに考えることができるわけですね。 この中で、いろんなことが記述可能であるわけですけれども、ここでは分かりやすい、ポジティブ・フィードバックの例を挙げてみたいと思います。 ポジティブ・フィードバックというのは、ある状態、あるいはある関係がより強化される方向で進行するようなフィードバックが存在する場合ですね。例えば、Aくん(男)とBさん(女)がいたとします。Aは、Bがもしかすると自分に好意を持っているのかもしれないと思うとすると、それを元に、よりBに対して、好意を表示する方向で行為する、行動するわけですね。そうするとBさんは「ああ、Aさんが自分に好意を示してくれた」と思って、より自分の好意を示す方向で行為する、そうするとますます、「ああそうかやっぱり僕の思った通り、自分に愛情表現してくれているんだ」ということで、自分の愛情表現行為を強めるという形で、愛情が深まりゆく関係というものを、こういうループの中で記述することができますね。 同じように、崩壊していく関係というのも記述できるわけです。例えば、Aくんが「Bさん、おれのこと嫌っとんのやろうなー」と思ったので、それを前提に、それまでよりもより好意を表示しない、嫌悪を表示する方向で行動するんですけれども、Bさんは「やっぱりヤな奴だ」と思って、ますますAに対して好ましくない行動をするというような方向で展開しますね。そうすると、どんどん嫌いになっていく関係というのも記述できます。 トモフスキーの歌にですね、「嫌いな奴には嫌われる」というタイトルがありますけれども(笑)、社会システム理論的ですね、非常に(宮台歌う)。好きな人には好かれて、嫌いな人にはなぜか嫌われる、なぜだろう。社会システム理論家から言うと「ハイ、こういうメカニズムです」というふうに記述できるというわけであります。 この深まりいく関係も、崩壊する関係も、両方ともいわゆるポジティブ・フィードバックですね。既に存在する方向性がより強化されることでありますね。 このような、例えば好意が好意を呼び、嫌悪が嫌悪を呼ぶというようなポジティブなフィードバックですが、これは同質的なものが強化し合っていると言える訳です。Aの好意と、Bの好意、Aの嫌悪とBの嫌悪がともに強化し合うという意味で、同質的なものの相互強化というポジティブ・フィードバックと言えますね。 それとは別に、異質なものの相互強化という関係もあります。例えば、よくあるアルコール中毒の夫婦関係であるような「共依存」と言われるものがそうですね。例えば、男が女の保護を当てにして依存します。そうすると、女のほうはそれを前提にしてその男が自分に依存してくれることを期待して、ますます保護します。依存と保護の相互強化ということが起こります。この依存と保護の相互強化ということを精神医学では「共依存」というふうに言うことはもう皆さんご存じの通りであります。 こういう二者関係、相互行為の中では、同質的なものの相互強化もありうるし、異質なものの相互強化もありえます。両方ともポジティブ・フィードバックですね。 これも一つのシステムという概念の中で記述できます。まあ、実はベイトソンという人が相互行為の展開の仕方について、累計学を展開しています。異質なものの相互強化、同質的なものの相互強化、その中に更にこういうパターンがあるんだということをいろいろ書いていますので、ベイトソンにはいくつか邦訳が出ていますので、興味のある方その辺をお読みになればいいのではないかと思います。本の名前は忘れましたが、彼が最も初期に書いた、文化人類学のフィールドにおける本ですね。 これが先程の自己システムのループに対して、これは相互行為システムのループというふうに言うことができます。 それとは別に、このようなループを考えることもできます。これは『権力の予期理論』で繰り返し書いている例なので、見た人は分かるかも知れませんが、例えば、「どのような社会イメージを我々は抱くのか」ということが、我々の個々人の行為に前提を与える。例えば、株がますますこれから上がっていくだろうと思えば、投資しますね。つまり個々人の投資活動に前提を与えます。ところが、個々人がそうやって株式投資にお金を使えば、つまりお金を株式投資に回せば、株は上がっていって、ますますこれから好景気になるんだというイメージが強化されます。そのイメージが人々の投資活動を刺激し、それがますます「これからますます社会は明るい状態になっていく」という社会イメージを強化する。このような水準でのループを考えることもできます。 これは、社会システムレベルにおけるループというふうに言うことができますね。ポジティブなフィードバック、ネガティブなフィードバック、いろいろ考えることができます。一番分かりやすいのは投資活動の例でありますが、我々にとって身近でなおかつ重要なのは、例えば、政治的な行動、要するに投票行動において、これは極めて重要であるわけです。これに書いてある例で言いますと、89年の衆議院選挙と90年の参議院選挙というのが、数カ月の間を置いて連続するわけですが、衆議院選挙において野党が大勝する、そのことが実は翌年の参議院選挙において、ネガティブにフィードバックされたわけですね。野党勢力の上昇が、つまり「人々が野党に投票する」という行動が社会イメージに変化を与えて、そのことが次の選挙における人々の行動にネガティブにフィードバックされたわけです。 同じような例はいくらでもありえますね。例えば、それは選挙予測と現実の投票行動の関係においても見られることであります。政治学において繰り返し実証データを元に議論されていて、日本におきましても、投票予測をどこまで表していいのかということに関して、比較的抑制的になってきています。しかしこれがなかなか難しいのは、例えば、選挙予測で、人々が野党支持に回るだろうというイメージが強化された場合に、どうするのか。野党支持をやめるのか、あるいはますます野党が政権をとる可能性に勇気づけられて野党に投票するのか。実はその選挙結果に関する予測がポジティブにフィードバックされるのか、ネガティブにフィードバックされるのかということは、実は自明ではありません。いろんな環境変数によって変わってきます。 例えば、共産党のような、エスタブリッシュメントの外側であると信じられている党に人々が投票行動をする場合には、共産党なら共産党の支持率が上昇して、ある程度の粋値を越えてしまうと、つまり政権をとる可能性が現実的になれば、当然のことながら、現実の投票行動においては投票率が下がります。つまり共産党に期待されているのは、単におきゅうを据えるという機能以上のものではないということですね。ところが例えば二大政党制になって、例えば新生民主党のようなものが政権を取る可能性が現実的になる場合には、その現実的な可能性を前提にして、人々の投票行動はむしろポジティブな方向で、強化される方向で展開することに予想されたりするわけであります。 このような人々の予測というのは人々の行為、人々が新聞社のアンケートに対してどう答えるのかということを通じて形成されるものでありますけれども、このような選挙予測の機能ということを記述する場合にも、このような図式を使うことができるというわけであります。 7.アノミーで考えるGHQの政策 最後にですね、これは教科書に書いてありますが、「アノミー」という概念についてこの図式を前提にしてお話しして、今日の話を終えたいと思うんですが、例えばですね、日本が敗戦しまして、GHQがアメリカ軍に占領された時にですね、天皇をどうするのかという議論がアメリカの政府部内で真剣になされました。 この辺の話は社会学的な記述対象としてもたいへんおもしろいんですね。天皇を廃位して天皇制を廃止するか、それとも(敗戦時における)現行の天皇を国家元首とするシステムを維持するか、それとも、単なる星条旗と同じような象徴という存在にするのかという、3つの選択肢の中から、まあ、いわゆる3番目の象徴にするというのが選び取られるわけですね。 このような選択においては、アメリカの社会学者、文化人類学者を中心とする社会科学者の重大な助言が存在します。宗教学者の助言も存在します。 どういうことかと言うと、天皇を廃位させてしまった場合に何が起こるのかというシュミレーションがあるわけです。天皇を廃位してしまうと、自分たちがどのような社会を生きているのかという社会イメージが解体してしまう可能性がある。そうすると人々は、例えばこれから新しい社会を建設していかなければならないわけですが、人々のそのような意欲、わかりやすく言えばポジティブな施行、オリエンテーションがそがれてしまう可能性がある。したがって、天皇制の廃止はまずいという結論になります。 天皇の処刑はどうでしょうか。これについてはこういうシュミレーションがなされるわけです。ちょうどイエスの処刑と同じで、カリスマを所有している人間が、そのカリスマの絶頂期に死にますと、死ぬことによってカリスマ性がますます強化されるという歴史的な出来事が繰り返し存在しています。つまり昭和天皇が処刑されてしまうことで、昭和天皇が本当の神になってしまう可能性があります。したがって、これも否定されました。結局、日本人のアノミーを回避し、なおかつ天皇が神になってしまうのも回避するためには、天皇廃位、あるいは天皇処刑ではなく、天皇の存在を一定の枠の中で認めるという方法が一番いいのだという社会科学的な結論が得られました。 こういう検討の場面で、アノミーというのは非常に重要な役割を演じています。アノミーというのは分かりやすく言えば、前提が、つまり自分についての行動の前提が崩壊してしまっているがゆえにどうしていいかわからないという状態と言えます。それまで例えば絶対王制、ないし天皇制の元で天皇陛下のために人々は生きてきたということがあるとすると、それが一挙に消えてしまえば、人々の行為の前提になっていた社会イメージが解体してしまいます。何を目標に生きていったらいいのかわからない状態になります。あるいは人々の目標というのは、上位から下位へといれこみになっていますから、最も上位のものが壊れてしまうと、下位の様々な目標も壊れてしまう可能性があります。そのようなことをアノミーと言います。 アノミーにはいろんな種類が実際にはありますね。例えば、目標がもうちゃんとわかっているんだけれども、手段が存在しないのでどうしていいかわからないという切羽詰まった状態、これを「手段のアノミー」と言います。あるいはそうではなくて、手段の不足以前に、そもそも行動の目標が全く立たない、何のために生きていいのか分からないといったような状況、これは「目的(目標)のアノミー」と言うことができます。手段のアノミーに比べると目標のアノミーの方がより深刻でありまして、天皇の処刑や廃位に関する時には、目標のアノミーが問題になっているというふうに言うことができます。 目標のアノミーの中で最も深刻なものは、社会イメージの解体によって人々の行動原則が無くなってしまうというような状況ということになります。 これも皆さんお解りのように、ありとあらゆるイメージがありえます。ありとあらゆる行動の選択肢がありえますが、このようなループの中で、一定の社会イメージと、一定の人々の行為の範囲、バリエーションというものが狭められた形で展開する、あるいは定常性を維持する。これもしたがって一つのシステムであると言うことができます。それぞれポジティブ・ネガティブのフィードバックを提示することができ、それぞれのフィードバックについての条件を論じることができるということであります。 実はここで皆さんに確認していただきたいことは、単に、例えば地球と月がお互いの遠心力と引力でお互いに釣り合っているとかですね、衛星と地球が釣り合っているというような状況とは違って、基本的に、社会システムに関わるようなシステムは、絶えず様々な変わりうる条件の中で支えられなければならない、継続的に様々な資源を供給されなければならないということがわかります。つまり社会の秩序とか、社会の定常性とか、あるいは社会の同一性というのは、石ころがここに存在して、いつまでも石ころであり続けるということとは全く違った意味を持っているということです。つまり、石ころが石ころであるということは、これは定常性とは全く関係のない釣り合い、均衡でありますけれども、社会システムが社会システムであり続けるという同一性、つまり定常性は、様々な変わりうる条件の中でそれこそ「ありそうもない」循環が続くこと、その循環の中で、ありうるミクロ状態の中から、ごく少数のものが選ばれて、存続するということが分かります。社会システム理論というのは、そのような「ありそうもない」より少ないミクロ状態、複雑性の低い状態が、一体どのような条件の元で維持されるのかという条件分析を行うことであります。これが目標であるというふうに言うことができます。 したがって、人々が自明視している、つまり石ころのようにそこに存在すると思っているような様々な事態…都市労働者であろうが、専業主婦であろうが、学校であろうが、あるいは愛であろうが、あるいは象徴でも何でもいいんですが、我々が自明視している様々な事象、事物が、いかなる条件によって前提を与えられ、どのような他のものに前提を供給しているのか、何によって前提を供給され、何に対して前提を供給し、そのことによってどのような同一性が全体として維持されているのかということを考えることを目標としています。 一般教育の授業で「社会学の目標は相対化にあるんだ」というふうに申しましたが、そのような相対化ということの意味を社会システム理論の枠組みで記述すると、そのようなことになります。 我々が実体だと思っているものの多くは関係の中で定常性を維持されていて、同一物のようなものとして見えているにすぎないという結論であるわけです。 今日はここまでにしましょう。以上です。 |