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■ なぜいまメディアリテラシーなのか?(3)

■前々回と前回、メディアリテラシーの概念が、メディアを用いた受発信能力ではなく、能力をどう用いるかという動機づけや、そうした動機づけを生み出す文化的素養の全体を指すことを紹介した。

■メディアの政治的バイアスに影響されない能力という政治次元、ITで生産性を上げる能力という経済次元より、むしろそうした政治・経済次元の能力を持つ者が、その能力をどう使うかという志向性に関わる文化次元が重要なのだった。

■だから私はこの言葉を「民度」と訳す。民度は元々、政治的公民としての資質を指すが、「政治参加をどう用いるかという動機づけや、動機づけを生み出す文化的素養の全体」とも言い換えられる。

【映画に見るメディアリテラシー】

■日本人のメディアリテラシーは極めて低い。それはITのような高尚な技術でなく、どこの国の誰でも馴染んでいるようなメディアに関わる場面で如実だ。その例として、今回は映画を取り上げよう。

■商業映画製作には矛盾する側面がある。一つは、投資してくれた資本家に対する責務を果たすという側面。責務を果たさないと、自分だけでなく映画表現に従事する者に、次回以降カネが回らなくなる。

■もう一つは、表出(エネルギーの発露)や表現(メッセージの伝達)の欲求を満足させたい側面。映画人の映画界入りの動機はそうした欲求と関っていた筈。それがどうでもよくなるのは明白な挫折だ。

■国民的に合意された目標や、日常生活にまつわる共通感覚があった近代過渡期には、この両側面はシンクロしえた。だが共通目標や共通感覚が消える近代成熟期になると、両者は矛盾しはじめる。

■投資家への責務を果たすには映画を当てねばならない。それには口コミの評判を上げねばならない。それには単純な感情に訴えなければならない。要は泣かせる、笑わせる、怒らせる、怖がらせる…。

■他方、近代成熟期は複雑だ。単純な社会では単純な表出(例:むしゃくしゃしてるぞ!)やメッセージ(例:強者の横暴許すまじ!)で足りた。だが複雑な社会で有効な表出やメッセージを生み出すには、ある程度の複雑性が不可欠になる。

■だがメッセージが複雑になると、理解が難しいだけでなく、理解することに意味があると思う観客だけを選んでしまう。そうなっては資金回収すら覚束なくなる。

■単純な感情に訴え、かつ有効なメッセージを伝える。まったくありそうもない離れ業だ。だが昨今のアジアや米国の映画を見ると、両者を両立させるためのデバイスに満ちた作品を多数目にできるのだ。

【単純な感情と有効なメッセージ】

■近日公開のアジア映画を二つ挙げる。一つはチャウ・シンチー監督の香港映画『少林サッカー』。監督が日本の漫画が大好きなのもあるが、うすた京介『すごいよ!マサルさん』の映画版だ。香港で観客動員記録を作った大爆笑映画である。

■だが観ている最中こそ大爆笑だが、映画館を出たあと強烈に「寒い」感じがする。「そういうもの」を笑っていいのかと忸怩たる思いを抱く。この奇妙な後味が、メッセージに到るパスワードなのだ。

■単純な感情にハマりたい観客は大爆笑して帰っていい。でもメッセージを受け取りたい観客は、パスワードを解読すると、有効なメッセージを引き出せる。スパイク・ジョーンズ監督『マルコビッチの穴』に似た周到なやり方だ。

■もう一つはチャン・ウェン監督『鬼が来た』。日本軍に占領された村の話。南京大虐殺みたいに単純な感情に訴える話だと思うかも知れないが全く違う。単純な感情に訴える娯楽性はある。だがそれは村人らの人情話において果たされる。

■この映画に善玉悪玉はいない。村民は八路軍(共産党軍)に騙され、日本軍に騙され、国軍(国民党軍)に騙され、全滅する。人情味溢れる主人公も殺戮者に豹変する。ラスト近く、人情話からのリフレーミングには混乱する。観客は、人情話の喜怒哀楽を楽しんで帰ってもいい。でもラストの混乱をパスワードに、複雑なメッセージを引き出して帰ってもいい。

■チャウ・シンチーもチャン・ウェンも、有効なメッセージの伝達に動機づけられている。しかし責務を果たすための娯楽性をいささかも犠牲にしない。翻って日本はどうか。単純な感情に訴えるだけで、有効なメッセージが皆無な作品が大半だ。

■巷では相変わらず、鈴木宗男問題を、単純な感情に訴えるスキャンダルとして消費している。その陰で第二・第三の宗男を生み出さないためのシステム変革に必要な複雑なメッセージは等閑視される。メディアリテラシーの低さは、政治的公民としての民度の低さと一体なのである。


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