テレビ論をかきました
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政治的ニュースが重要になる中、テレビがメディアとして持ちうる力とは?
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【マスメディアの凋落は「場」の凋落と関係する】
広告収入やセットインユース(スイッチが入った受信機器の総数)の減少という形で、新聞やラジオやテレビなどが凋落しつつある。他方で、労働市場の縮小や麻生内閣の疲弊で世の中は暗いムードである。そんな中、一部の局は四月編成からニュース系へのシフトを強める模様である。
これは合理的対応だ。音楽の世界では、ITMSに見るようなアーカイブス化&インターネット化と、享受者の「島宇宙化」を背景として、CDシングルを購入して新曲にアクセス(して話題に乗り遅れないように)する必要が消えた。程度の差はあれテレビの娯楽番組もそれを追いかけよう。
だが娯楽系からニュース系へのシフトで生き残れるほど世の中の変化は甘くない。そのことは新聞や雑誌の現状を見れば一目瞭然であるが、「その理由」を深く理解する者が発信者の側にも受信者の側にもどれだけいるかどうか疑問である。そこで今回は「その理由」を分析してみたい。
マスメディアの凋落は日本だけのことではない。先進各国やそれ以外の国でも、一般に生じていることだ。インターネット化や情報通信化のせいで伝達チャンネルが増えた結果、可処分時間が限られているので、マスメディアのために使う時間が少なくなったという言い方で説明される。
間違いではないが、それ以前の問題が重大だ。マスメディアが果してきた機能自体が要求されなくなった事情が大きいのではないか。例えば、お茶の間や井戸端に相当する「場」がなくなれば、お茶の間や井戸端のコミュニケーションを支える共通前提を供給するメディアも不要になる。
私が--いや私たち世代の多くが--それに最初に気づいたのは八〇年代前半だろう。一九六〇年前後生まれの新人類世代の特徴として野球に興味を持たなくなったことが挙げられていた。「野球のウンチク話にのらない」「仕事帰りの焼鳥屋での一杯に応じない」のが新人類だとされたのだ。
「野球のウンチク話にのらない」ことと「仕事帰りの焼鳥屋での一杯に応じない」ことの間には密接な関係がある。新人類世代が内容的に野球をつまらなく思うようになったというより、野球のウンチク話を交わす「場」が消えたので、野球中継にアクセスする必要が消滅したのである。
八〇年代半ばから、クイズ番組や歌謡番組が、軒並み打ち切りになった。これも、NIES諸国で作られたテレビがロードサイド店で安売りされてテレビが個室化した結果、家族みんなが揃ってテレビを見るお茶の間という「場」が消えたからだった。そう。これも「場」の問題であった。
その意味で、インターネット化が進む遥か以前から、「場」の消滅に伴う「マスメディアの危機」が生じていた。「場」が消滅し、別の「場」が生まれた。インターネット化が進むと、お茶の間や一杯飲み屋という「場」での共通前提とは、別の共通前提が要求されるようになってきた。
【インターネットが切りひらく新しい「場」】
そこでは別の「場」が重要になる。具体的には、かつてのニフティサーブ(パソコン通信業者の一つ)のフォーラムや、今ならばSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)や掲示板など、オンラインのコミュニティである。これらが、物理的な空間に拘束されない「場」を与えるのだ。
物理的空間に拘束されないので「摩擦抵抗」が低く、マイナーな趣味を持つ者が同好の士を見つけやすいのに加え、自分の過去を知る者とコミュニケーションしにくい「尊厳上の困難」も、外見に劣等感があるなどでコミュニケーションしにくい「表出上の困難」も、大きく軽減される。
抽象度を上げていえば、オンラインのコミュニケーションは単に便利なのでなく、オフラインのそれに比べて参照可能な文脈が限られるという意味で「不自由」なので、文脈が制約となってコミュニケーションしにくくなる者たちが、かえって「自由」にコミュニケーションできるのだ。
物理的空間に拘束されないオンラインの「場」は、単に文脈参照可能性が乏しいのではない。たとえ匿名であっても固定ハンドルをベースにしたコミュニケーションによって、オンライン・コミュニケーションの履歴だけを互いに参照し続けるという「文脈の閉鎖化」が可能になるのだ。
例えば、昨今のオフライン・コミュニケーションは、雇用の流動化などで肩書などの参照可能な文脈がどんどん変わるので、こうした文脈を参照できることがかえってノイジーになってしまう。その点、肩書という文脈を排除できるオンラインの方が、コミュニケーションに集中できる。
ところがこうした「摩擦抵抗の低さ」や「文脈の閉鎖化」は、コミュニケーションの制約要因が小さいがゆえに、ピンポイントで趣味を共有できる者たちの集団への際限ない細分化--宮台用語では「島宇宙化」-をもたらす。少しの趣味の違いも排除できるので、細分化の自己強化が生じる。
まとめよう。従来のマスメディアはオフラインの「場」を前提とした。インターネット化は「摩擦抵抗の低さ」や「文脈の閉鎖化」の利点ゆえにオンラインの「場」を優位にした。オンラインの「場」の島宇宙性はマス相手のコンテンツとは相性が悪い。だからマスメディアが凋落した。
【テレビはインターネットへの「依存」なしに生き残れない】
従って、マスメディアが生き残るには、オフラインの「場」が縮小していく以上、オンラインの「場」を前提としたものに変わるしかない。2ちゃんでの「実況」など敢えてオンラインにネタを提供することや、オンラインをブリッジする「ポータル」の機能を提供することなどである。
実際、TBSラジオ&コミュニケーションズの番組審議会で、私はそのように提言してきた経緯がある。早急にオンラインでのビジネスモデルを探索するよりも、「島宇宙内のネタ提供」や「島宇宙間のブリッジ提供」が、実際にどれだけ可能なのかを積極的に実験するべきだと述べてきた。
NHK改革の一環として「N響モデル」の採用をNHKに提案してきたが、類似のモデルをTBSにも提案した。「野球中継の続きを見たい人はネットでどうぞ。但し受信料を払わないとIDが貰えません」「番組秘話を見たい人はネットでどうぞ。但し百円払って下さい」という具合である。
ちなみに「N響モデル」と呼ぶのは、N響コンサートの申し込みに受信料の支払証明が必要だからだ。ただN響と違う点が一つある。野球中継にしても番組秘話にしても、インターネットにお金を払ってアクセスするだけの動機づけを、テレビが提供できるかどうかが、ポイントなのだ。
以上のようにここ数年私は、テレビ(を含めたマスメディア)が、インターネットを可処分時間を奪い合う敵として認知するのは得策でなく、単にインターネットと共生するのも得策でなく、インターネットとワンセットになって支払いを動機づける方向にシフトすべきだ、と述べてきた。
これには先例がある。私は社会学者であると同時に映画批評家でもあるが、日本の映画は、リスクを分散する制作委員会方式をとるだけでなく、委員会のメンバーにテレビ局を加えて自局のスポット広告や宣伝番組を使って観客を動員して収益につなげるようになったことは周知だろう。
映画とテレビの連携が、映画コンテンツのテレビ化(テレビ的な作りになること)を含めて幾つか大きな問題を孕むことは、最近著『〈世界〉はそもそもデタラメである』などで詳述したが、映画のフィスカル(財政的)な存続は、テレビに敢えて「依存」することで可能になったのだ。
歴史は繰り返す。テレビのフィスカルな存続にとっても、おそらくインターネットに敢えて「依存」することを不可欠になるだろう。その結果、テレビコンテンツのインターネット化(インターネット番組的な作りになること)が生じることは、是非はともかく不可避になるだろうと思う。
【テレビ制作のダウンサイジングが不可避である】
むろん昨今ではインターネット化とは別の危機要因がある。これは雑誌や新聞の危機要因と同じで、「大規模な」広告収入を頼るタイプのビジネスモデルが今後永久に立ち行かなくなることである。理由は簡単。スポンサーが、ターゲットを絞った広告にしか意義を認めなくなるからだ。
むろん現在でも、F1~3、M1~3といった具合に性別と世代を区別し、どの性別のどの世代がアクセスする番組であるかによってスポンサーになるか否かを決めるのは、通常のことである。だが趣味が生活形式が細分化した今日、「20歳代男性」などという括りでは精度が低すぎる。
宝島社の「一番誌」戦略が有名だが、趣味まで含めた精度の高い――従って必然的に規模が小さい――括り(セグメント)に、括りが小さいがゆえにコストパフォーマンスを考えた上、「最も読まれている雑誌」「見られている媒体」にだけ低価格の広告を出す戦略が、合理的なのだ。
かつてバブル時代には、それこそマスメディアを舞台に「費用対効果の不明な広告」が溢れていた。社会システム理論家ルーマンによれば、一企業にとっては不合理に見えるが、「今は高度消費社会だ」というコスモロジーを企業が共同で維持するための「税金」だと考えれば合理的だ。
消費社会は消費選択肢の増大によって特徴づけられるが、高度消費社会という場合は消費動機の不透明化--そんなモノが欲しがる理由が分からない--がポイントになる。こうした不透明化をイデオロギー的に擁護すべく、不可解な広告が溢れる共同演出が必要だったのだ、と私は見ている。
今はそんな擁護は必要ない。なぜなら消費動機の不透明化がもはや自明の前提になったからだ。とすれば、ハタからみればそんなモノを欲しがる理由が分からないにせよ、その理由が分かる者だけからなる「島宇宙」に、適切に訴求するような広告展開だけが、合理的になる道理である。
まとめよう。高度消費社会が自明化した今日、趣味により細分化された規模の小さい括りに、括りの小ささゆえのコストパフォーマンスを考えた上、括られた人々が最も接触する媒体にだけ、括りの小ささに応じた低価格の広告を出す。企業にとってはこれのみが今後は合理的なのである。
広告をベースにしたビジネスモデルは新聞であれ雑誌であれテレビであれこの変化に適応する以外ない。マスを相手にした価格の高い広告を出す企業が少なくなる以上、制作システムがダウンサイズする以外なくなる。これが不景気とは無関係な不可避の流れであることを肝に銘じよう。
【ボトルネックになるダウンサイズ問題】
私は2001年4月から、国際ビデオジャーナリストの神保哲生氏と一緒にインターネットでのニュース解説動画配信番組『マル激トーク・オン・デマンド』に出演し続けている。2003年に有料化に踏み切ってから、どの月も例外なく前月よりも視聴者を増やす形で順調に成長し続けている。
視聴者や出演者の評判も上々。お陰でどんな大物政治家も大物学者も躊躇なく出演していただけるようになった。手前味噌を恐れずにマル激の例を出すのは、テレビ・コンテンツのインターネット化が、どのようなダウンサイズ化を要求するのかを、明確に理解してもらいたいからだ。
マル激トーク・オン・デマンドの制作コストは一時間十万円から数十万円。テレビ番組の制作コストは一時間三千万円程度。たぶん百倍の開きがある。なぜそんなに違うのか。機材も、大道具も、小道具も、人件費も、何もかも全て違う。しかし、番組の質には全く関係がないのである。
最近、あるテレビ局(の下請け制作会社)がマル激の取材に訪れた。何をするのか知らないがスタッフの数は十人を超えていた。マル激が何かを取材する場合、国際的スタンダードに倣って、最小ユニットの3人、すなわち①記者(ディレクター)、②カメラマン、③音声兼助手、である。
場所によっては、これらに加えて④照明が必要になる程度。まあ、これはニュース番組の場合であるが、映画制作(私は映画批評家でもある)の場合も余り変わらない。要は、質を落とさずに人件費を数分の一に削ることができるのである。
機材はもっと凄い。マル激はカタ落ち機材を百数十万円で購入しているが、テレビ局は性能が変わらない機材を数千万円で購入している。私たちから見るとテレビ局の機材費は十分の一に削れる。むろん高額の金の遣り取りにはいろんな便益の遣り取りがつきものだが、番組には不要だ。
大道具も似たようなもの。マル激が使用する半円型のテーブル――司会とゲストが四人座れる――は東急ハンズで五万円。テレビ局は似たようなテーブルを百万円以上で発注する。スタジオセット全体を東急ハンズでベニヤと壁紙を買って、手作りで十万円。テレビ局は……(苦笑)。
放送局が社屋などの不動産を中心として税制上の大幅優遇措置を受けていることを割り引いても――いやそれだからかもしれないが――今のテレビ局の多くは特殊法人と選ぶところのない非効率性を抱えていると私は見る。これらは単なる非効率だから、削っても番組の質に関係がない。
むろん全ての金の遣り取りには既得権が貼り付く。これをはがすのは難しい。だからダウンサイズといえば、正社員の人件費の削減が必ず一番最後になる。正社員の人件費を守るために、番組の質やタイプに関係があるところがダウンサイズされる。そんなことは私もよく分かっている。
だが、既得権を有する放送局が、既得権がなくて苦労しているインターネット放送局と競争するということが、どういうことであるのかを理解していただくために、敢えて耳障りな話をさせていただいた。発想を変えない限り、ダウンサイズ問題はテレビ局のボトルネックになるだろう。
実際、同じ問題はとっくに映画界を襲った。今は数多くのミニシアターやタイムシェアしたシネマコンプレックスを出口として、デジタル化によって制作システムを数分の一ダウンサイズした総予算数千万円の映画が今や大半だ。日本の総人口の多さもあり、それで回るように変化した。
ちなみに2008年の映画観客動員数は2001年以降連続1億6千万人を超えた。96年に1億2千万人を切る「底」を迎えた後の著しい回復で、70年代半ばの水準に匹敵する。出口(映画館)も入口(製作費)のダウンサイズだけでなく、映画デー等での入場料の引き下げも効いていよう。
【オーセンティシズムにどう対処するか】
テレビ局のニュース解説番組の百分の一以下の製作費で回している私たちのインターネットのニュース解説番組が順調に伸びている背景にオーセンティシズム(本物志向)があろう。番組は、各学会の最先端と、海外メディア全般を、広く深くウォッチした上で、内容を構成している。
私自身はオーセンティシズムの塊だが、新聞をほとんど読まないし、テレビは子供と一緒に見る教育テレビは原則として一切見ない。それで個人的に困らないばかりか、なんとTBSラジオのニュース解説(デイキャッチ)やインターネットのニュース解説番組の出演にも全く障害にならない。
私は特殊な例外かというと、私の周辺には私と同じようなマスメディアとの関わり方をする大学人や表現者が複数いる。そうした人々と話しあうにつけて、記者クラブを新聞協会と民放連で独占するファーストニュースは別にして、ニュース解説はオーセンティシズムとは程遠いと思う。
ニュース解説だけではない。政治家に話をきく番組にせよ、政治家・学者・評論家に討論させる番組にせよ、レベルが低すぎる。各学会の最先端とも海外メディアとの無関連に、浅すぎる話で終始する。だから私の周囲の専門人たちがテレビに接触しないのは全く当たり前だと感じる。
マル激トーク・オン・デマンドに招く政治家や学者やアナリストは、テレビに出連している人々だ。だから先に述べたようなレベルの低さは、政治家や学者やアナリストのレベルの低さではない。間違いなく制作側のレベルの低さなのだ。これについて私は以前から警鐘を鳴らしてきた。
十年ほど前にBBCのドキュメンタリーに出演したことがある。援助交際の番組だった。色々驚いた。ちゃんとしたリサーチャーがいた。だが日本のようなクイズ番組の問題を作るアルバイトではない。事前に私の本を全て読んでいなければ不可能な適切な質問を、私にあびせかけ続けた。
私はすべてにちゃんと答えたつもりだが、彼らは「これから二週間ウラをとるので、番組に使うかどうかはそれから判断させてくれ」と述べた。それで私のネットワークの一部を紹介したのだが、十日ほどすると「ウラが取れたので、番組で使わせてもらう」という丁寧な挨拶がきた。
欧州や米国のテレビ局では、番組が扱う分野に学会動向や海外動向を含めて精通したリサーチャーを抱えているのが当たり前で、専属の場合もあれば契約した学者や学者の卵の場合もあるが、ディレクターやプロデューサが数週間取材するだけでは到底追いつかない専門性を発揮するのだ。
私が出演したBBCの番組も非常に専門性が高く、心配した私は「これで沢山の人が見るだろうか」と尋ねると、プロデューサは「五百人しか見なくてもいい。五百人にしか分からない高度な番組が、しかしそれにゆえにこそ公共的であることがあり得る。それがBBC流だ」と答えた。
私が先に述べたオーセンティシズムとは、まさにこうしたものだ。BBCは国民の投票によって審査を受ける放送局だからプロデューサの発言は独りよがりではない。また民放ではマネできないというのも昔の話。むしろダウンサイズ化によってこうしたオーセンティシズムが可能になる。
少なくとも私が関わるインターネットのニュース解説番組ではこうしたオーセンティシズムを目指す。実際、番組にレギュラー出演する神保哲生氏も私も、分野はそれぞれ異なるが、専門性の高いリサーチャーで、神保氏は米国育ちでコロンビア大学大学院を出た「半分米国人」である。
社会学者ポール・ラザースフェルトがかつてミドルマン概念を提唱した。学者や専門家ではないものの、学会動向や国際動向に精通し、「専門性の高い世界」と「大衆の世界」とを媒介する役割を果たす。そのためにリサーチャーがいる。日本のテレビ局にはミドルマンの実力があるか。
【秋葉原殺傷事件の報道が示した危機】
先に「ファーストニュースを例外として」と述べたが、ここにも変調がある。2008年6月8日の秋葉原通り魔事件はテレビ局のフォーストニュースのエポックだった。というのは、NHKから民放まで通行人らが撮影したケータイムービーを買い漁った上、これら素材をオンエアしたのだ。
同種の素材はネット上に事件直後からアップされ、様々な解説がつけられていた。その意味で、秋葉原通り魔事件は、ファーストニュース性においてテレビ局がインターネットの後塵を拝する画期的事態だった。現に私はテレビニュースを全く見ていないが、速報入手に全く困っていない。
この場合、ネットでこれら素材や解説にアクセスできる者が、わざわざテレビニュースを見ることの付加価値はどこにあるだろうか。一つは、記者クラブ制度の特権で局がアクセスできる警察情報の入手。もう一つは、テレビがどれだけの騒ぎになっているのか確かめること。他には?
だが、第一については、記者クラブに加入している各社がネットで配信する速報ニュースで足りるし、第二についても、ネットにアクセスするだけでテレビがどの程度の騒ぎになっているのか情報がとれる。テレビニュースへのアクセスは必須ではないし、現に私はアクセスしていない。
世界の流れを見れば記者クラブ制度も時間の問題で確実に廃止されるだろう。インターネット番組は海外のものも含めて確実に増加するだろう。そうなったとき、現行のテレビ局のようにファーストニュース性を決定的な差別化要因とし続けることは難しい。どんな道があるのだろうか。
ポイントは、当たり前だが、資本の力がないと不可能なタイプのリサーチ力や分析力だろう。そうした力を発揮することで、私のような人間を五分でも十分でもテレビの前に釘付けにできるかどうかだ。むしろ、セカンドニュースないしニュース解説における分析力が勝負になるだろう。
ここでボトルネックになるのは人材だ。どこの世界でも優秀なリサーチャー(専門領域に通暁した上で一般人向けに噛み砕く力を持つ者)の数は限られる。リサーチャー制度の伝統がない日本ではなおさらだ。この希少性がネット上でのニュース解説番組を現に生き延びさせてきている。
先にオーセンティシズムの話をした。オーセンティシズムはその時々の場当たり的対応では醸成できない。優れたスタッフやリサーチャーがいるというブランドイメージが重要になる(NHKやTBSは日本のテレビ局ではこの点で優位だろう)。かかるイメージを醸成し、保てるかどうかだ。
そのためには、長期的には国家レベルでの教育システムにおける養成が、中期的には局内での養成が、短期的には既に存在する人材の囲い込みが、重要になるだろう。だが今のところ、日本ではそうした対処や競争が始まった気配はない。この能天気さが自滅につながらなければ良いが。
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