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昨年の映画を総括しました〔一部すでにアップした文章と重なりますが…)

投稿者:miyadai
投稿日時:2008-01-11 - 14:34:42
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
宮台:今年の映画を語るときにはずせないのは『恋空』です。年長世代である私たちにしてみると、のけぞる映画です。結論からいうと、携帯小説を映画で意識的にシミュミレートしようとして、わざと短絡的に作った映画でしょう。さもなければ、とてもじゃないが理解できません(笑)。
 輪姦されても彼氏が抱きしめれば一瞬で回復するし、セックスすれば一瞬で妊娠するし、妬んだ女が突き飛ばせば一瞬で流産するし、次の男があらわれれば一瞬でくっつくし、という短絡ぶり(笑)。別れた彼氏が癌だったとなれば元のさやに納まり、最後には何事もなかったかのように家族の元へ帰る。
 携帯小説の編集者によれば、情景描写や関係性描写を省かないと、若い読者が「自分が拒絶された」と感じるらしいんです。情緒的な機微が描かれていない作品、単なるプロットやあらすじの如き作品が望まれる。「文脈に依存するもの」を語らず、「脊髄反射的なもの」だけを描く作品です。
 是非はともかく、携帯小説を元にこういう映画が作られ、驚いたことに館内の女子高生らが全員号泣する。大変なことになったなと思いました(笑)。以前だったら単に「駄作だ」と批判すりゃ良かったんですがね。今や批判しても観客には届かないし、届いても何の役にも立たない時代になりました。
 「脊髄反射化」の傾向は3,4年前に「死に落ち」映画が流行したときからです。『いま、会いに行きます』(04)とか『世界の中心で、愛を叫ぶ』(04)とか。「死に落ち」映画に注目するべき理由は、「死に落ち」映画じゃないのですが『ALWAYS 続・3丁目の夕日』の評価にも関わることです。
 『ALWAYS』は前作を含めて、昭和30年代を舞台にしているのに、昭和30年代の時間が流れていないんですね。これは驚くべき錯誤です。理由を分析すると、「死に落ち」映画と同じ構造が底辺に見えてきます。すなわち「遠いやつが勝ち、近いやつが負ける」という図式です。
 あの映画では、ヒロインから遠く離れた主人公の貧乏作家が、ヒロインの近くにいるタニマチに勝つ。昭和30年代の時間の流れではあり得ません。あの時代、正妻と妾でいえば、正妻が勝ちます。、いつも一緒にいて、すべて知っているからですね。石原裕次郎の奥様だった北原三枝みたいなものです。
 今の若い人たちの時間性はまったく違います。長く一緒にいても、時間が少しも積み重ならないので、必ず「遠いやつが勝つ」んですね。それは「妾が勝つ」ことであり、「出会い系で知り合った間男が勝つ」ということです。年長世代から見れば、あり得ない逆転でしょうね。
 僕は取材を通じて若い人たちの「時間が積み重ならない」という感覚を知っているので、なぜ「死に落ち」映画が作られるのかは分かります。近くにいる人間が死んでしまったとき、「もし近くにいたらどうなっただろう」と反実仮想することで、ある種の濃密さを獲得する。そういうドラマツルギーです。
 出会い系で知り合った中年男も、死んだ彼氏の思い出も、都合が良いときにオンデマンドで呼び出せるという共通性があります。そうした時間性は今日的なもので、昭和30年代のものじゃない。その意味で、善し悪しは別に、『続・3丁目の夕日』は昭和30年代を描いた映画じゃないんです。
 ただ、大学で教える教育者としての立場でいえば、あれが昭和30年代だと勘違いする若者が増えるなら、映画が歴史のねつ造に映画が加担したことになります。そうなれば、映画が悪いデマゴギーだということになってしまう。そこだけは少なくとも釘をさしたいところです。
……中略……
宮台:最初にゴジラのシーンを出してくるのが、一種のエクスキューズ(言い訳)かなと思いました。つまり、昭和30年代に名を借りた「バーチャル遊園地」なんで、実際の昭和30年代との細かい異動についてごちゃごちゃ言わないでね、という(笑)。
……中略……
宮台:『オリオン座からの招待状』も同じ時代を描くんですが、編集が雑で急いで仕上げた印象がありり、話のつくりや宮沢りえの扱いも『トニー滝谷』(04)を彷彿させます。いつも同じ演技しかできない宮沢りえが老け役を嫌ったのでしょうが、老年期を中原ひとみが演じているのは困りものです。
 ただ、昭和30年代の時間感覚をそれなりに再現していました。駆け落ちものの要素を含みつつ、あくまで「一緒にいるやつが勝つ」というモチーフを描くからです。もちろん浅田次郎の原作に依拠したからなんですが、そのあたりの「昔の感覚」が一応描かれているので懐かしくはなりました。
 ノスタルジー映画ブームの中で、昭和30年代の時間の流れがどういうものなのか、時間が積み重なるとはどういうことなのかを描く、数少ない作品の一つではあります。でも残念ながら観客がまったく入っていない。たぶん若い世代には時間の流れの意味が理解できないんだと思います。
……中略……
宮台:そこが今日論じたいポイントです。『続・3丁目の夕日』も『オリオン座からの招待状』も娯楽作品として作られ、実際に娯楽として消費されます。現実をどう批評しているかを見に来る客なんていない。そんな中、「現実を批評していないじゃないか」という批評にどんな意味があるのかです。
 『恋空』は、あえて携帯小説を模倣した映画なので、奇しくも批評的になっているところがあります。まあ僕などは冒頭から不快でしたが(笑)、途中から、わざとやっているんじゃないかと感じました。とすると、それを不快に感じるような年長世代の感覚が批評されているように見えてくるんです。
 『オリオン座からの招待状』では、今どきの時間性を生きる離婚目近の中年夫婦と、昭和30年代の時間性を生きる老年夫婦とが対比されます。でも、せいぜいが「昔は違ったんだな」というノスタルジックな気付きがあるだけ。娯楽映画だから仕方ないと言えばそれまでだけど、実に残念ですね。
 我々は今どきの時間性を拒絶できません。せいぜいそれにどんな視座から関わるべきかを考えられるだけ。そうした視座を提案してこそ映画が批評的になるんです。むろん原作から離れてしまいますがね。残念ながら映画は、我々の再帰的な関わりを提案する現代のパートが欠落していました。
……中略……
宮台:携帯小説の本質は、享受可能性が、文脈に依存しない事物や記号へと縮退することです。文脈の解釈力、いわば文脈リテラシーは、経験が与える共通前提に依存します。この共通前提が空洞化すると、文脈に依存した関係性の享受が難しくなる。それが記号や事物への縮退の理由でしょう。
 だから、携帯小説のプロデュース側も、あえて意識して、関係性描写を回避し、脊髄反射的なものを導入します。具体的には、文脈に相当する情景描写や関係性描写を削除するかわりに、「レイプされた後に彼氏に抱きしめられたときに何を感じたか」みたいな心情を、細かく描くということです。
 実際に編集者が情景描写や関係性描写を削り、心情描写に置き換えさせています。これを、小説的な読み物に慣れた年長世代が読まされた場合には、文脈情報が欠落しているので小説になる前のスケッチや荒書きに近いという印象を受けるしかありません。
 実際、演歌の歌詞と同じような、文脈に依存しない記号的な事物の順列組み合わせなんです。「流産する」とか「レイプされる」とか「誰かが死ぬ」とか脊髄反射的な要素を、シャッフルして組み合わせる。小説好きな年長世代にはとても読めません。問題は「質の善し悪し」を超えています。
 文脈に依存しない脊髄反射的な記号は、指示対象が入れ替え可能です。他方、年長世代が好む複雑な関係性や履歴に依存した享受可能性は、対象の入れ替え不可能性や、出来事の一回性に関わります。そうした唯一性や一回性を求める年長世代には、携帯小説は理解できません。
……中略……
宮台:「家族御大切」は十五年ほど前、野島伸司脚本のテレビドラマ『ひとつ屋根の下』あたりから始まりました。当時も書きましたが、寺脇さんのおっしゃるような家族回帰に見えて、実際のところは現実の家族ではあり得ないというところが視聴者に明確に自覚されていたんですね。
 「関係性からの退却」は男の子にも共通します。女の子が「携帯小説化」「脊髄反射化」による埋め合わせだとすると、男の子は「セカイ系化」「萠え化」による埋め合わせです。セカイ系とは『最終兵器彼女』や『エヴァンゲリオン』に代表される、自己救済と世界救済とが同義になる独特の意味論です。
 ところで携帯小説とセカイ系に共通するのは、学校がよく舞台になるところです。むろん西谷祥子のロマコメ漫画や筒井康隆のジュブナイルなど、1960年代から学校を舞台にした娯楽読み物はあります。でも昨今の共通項として、「現実の学校を描いていない」ということがあります。
 どういうことかというと、「現実の学校経験」は多種多様で共通前提にならないけれど、「あり得たかもしれない学校についての妄想」なら、「誰しも同じような妄想を抱いているよね」といった感覚に浸れるんです。家族についても同じように、皆が抱く「家族についての妄想」を描いているんじゃないかな。
 過去10年間にわたって「自分の両親は愛しあっていると思いますか」という質問をゼミの学生にしてきました。イエスの答えはどんどん減って、今は4割を切る。6割以上は「愛し合っていない」または「子供がいなかったら別れているに違いない」と答えるんですね。
 僕が2000年に行った調査では、「両親は愛し合っていない」と答える学生は、「恋人がいる」と答える割合が低く、しかし「性体験の人数」が多い。逆に「両親が愛し合っている」と答える学生は、「恋人がいる」と答える割合が高く、しかし「性体験の人数」が少なくなります。ちょっと痛いデータですね。
 最近の学生は「恋人がいる」割合が減りました。我が大学も1割台。1990年代前半には4割前後でした。裏腹に、性交経験者の割合は倍増し、性体験の人数も増えました。「恋人がいる割合が減り、性体験の人数が増えた」ことと、「両親は愛し合っていないと答える学生が増えた」ことが符合します。
 何が起っているのか明らかです。ロールモデルの問題ですね。両親が愛し合っていると感じる子たちは、「将来は自分も愛に満ちた恋人関係や夫婦関係を作るぞ」と自信を抱けるようになります。逆に、そうでない子は、ロールモデルが不足しがちなので、自信を抱けなくなるわけですね。
 つまりは、愛に満ちた家庭を作る自信がまったく存在しないという状態での、「家族仲良し」的なドラマや映画の享受なんです。このことが、そうした映画やドラマを、現実を描いていないという前提で――あらまほしき家族の妄想を描いているという前提で――享受するということに、結びつくわけです。
……中略……
宮台:同感です。そこで重要になるのは、映画批評をどういうスタンスでやるかということです。我々は映画に批評性を求めて見るわけですが、若い観客はそんなものを一人も求めていません。それどころか、普段から「自分が現実をどういうふうに捉えるのか」という問題意識自体が欠落します。
 むしろ、現実が期待外れに満ちているのが当たり前という前提で、そもそも現実に対してコミットしない態度が一般的になってきています。僕の言い方では、昔は、現実に対する期待水準が低くても願望水準が高かったんだけど、今は期待水準の低下に引き摺られて願望水準まで下っているわけです。
 「自分としての自分はこうした願望を持っているが、どうして現実は応えてくれないんだ」といった抑鬱的な感覚が、現実に対する批評の動機づけになりますが、そうした回路が存在しない。むしろ「そこそこ感情を刺激されて、話のネタになればいい」という感覚で、映画が享受されるんです。
 映画がターゲットにしている年少の観客が、百パーセントそうした連中だとすれば、年長の我々が「現実的じゃない」とか「批評的じゃない」という批評をして、いったいどうなると言うんでしょうか。「あんたら見なけりゃいいじゃん、もともとお呼びじゃないんだから」ってことで終了です(笑)。
……中略……
宮台:ボーン・シリーズの3作目『ボーン・アルティメイタム』(07)が公開されましたが、ハリウッドの一部では、娯楽と同時に、現実批評の要素も追求した作品が、継続して作られています。年齢層が日本よりもはるかに高いこともあって、観客の多くが現実にコミットする人たちであることがあるでしょう。
 『ミッドナイト・イーグル』もそうですが、僕よりも年長の人たちにとって不可欠な現実批評的な要素を、年少世代が「ノイジーで余計なものが付加されている」と受け取りがちなんですね。10年前だったらバカ呼ばわりして終わりですが(笑)、今や主導権が我々のほうにはありません。
……中略……
宮台:共通前提が広く存在した時代を懐かしむという意味でのノスタルジーのブームは各国に共通するので、どこでも記憶をモチーフにした映画が量産されます。沢木耕太郎などは記憶回復ものとして一緒くたにしますが、最近のアメリカ映画が記憶を問題にする仕方には独特のスタンスがあります。
 記憶回復ものにもいろいろあるのを忘れちゃいけない。戦後のアメリカ映画は、記憶喪失ものに始まって、SF的な記憶捏造ものを経由したあと、最近では記憶捏造の犯人は自分だったという自己捏造ものが目立つようになりました。ボーン・トリロジー(三部作)もそうした流れの上にあります。
 ハリウッドのフィクション映画に自己捏造ものが増えているのは、ハリウッドにドキュメンタリーのブームが起っていることとシンクロしていて、その動き自体が政治的なメッセージを含んでいます。日本の記憶をモチーフとする映画は無自覚な捏造に満ちていて、全体として批評性や政治性が欠落します。
……中略……
宮台:最も不快だったのは『垂乳女』(06)でした。あれが山形ドキュメンタリー映画祭で審査員特別賞を取った。審査員がみんな嘔吐感を我慢して政治的な理由で投票したのかなと勘繰ったほどでした。こんなに吐き気がした映画も珍しいんじゃないかな。
 不快さの理由は単純です。どんなドキュメンタリーも、演出されたパッケージです。記憶そのものではなく、美化された記録です。たとえ編集しなくても同じです。以前プリクラを含めたセルフポートレートのブームがありました。写真記録によって不定形な自分を輪郭付けて自意識を補完する動きですね。
 でもプリクラはみんなに見せるものじゃなく、自分が気に入った相手にだけ話のネタとして見せるものでした。それをみんなに見せるのは反倫理的な感じがするんですよ。「自分が子供を産むというドラマはこうでした」と描くことの嘘臭さ。それを公共空間で提示するところに堕落を感じます。
 僕も14時間の立会い出産をしたばかりですから、身につまされる主題なんですが、立会い出産がどういうドラマだったのかは、公共的な主題というよりも、僕にしか意味がない記憶やトラウマとの関係でだけ意味を持つ、いわば「個人的に捏造された記憶」だと言えます。
 僕は河瀬直美の個人史を知らないし関心もないので、ひとさまの個人的捏造を受け取りようがない。河瀬直美が自分の出産を撮っているのだと信じていたり、観客がそのように信じていたりするらしいことが、どうにも気持ちが悪いんです。自分の糞尿を自分自身だと思い込むことの気持ち悪さですね。
 彼女の作品は『殯(もがり)の森』のようなフィクションも含めて、自分の糞尿を自分自身だと思い込む気持ち悪さがあります。同じく自意識の糞尿でも、「これは世界ではなくセカイです」と自称するセカイ系のほうが、むしろ自家中毒を免れているといっていいでしょう。
 カンヌの人たちが誉めるのは、オリエンタルエキゾチズムということで理解できますが、日本人が本気で誉めているのだとすれば、何が現実なのかという現実感覚が失われているというしかありません。これまた昨今の劣化を示す現象でしょう。
……中略……
宮台:ドキュメンタリー映画について多くの人が勘違いをしていますね。例えばマイケル・ムーアの評価が日本ではすごく甘いことが典型です。あれはドキュメンタリーでしょうか。彼がやっていることはブッシュ共和党的なプロパガンダに対するカウンター・プロパガンダに過ぎません。
 カウンター・プロパガンダも当然プロパガンダの一種です。だから双方とも、善悪二元論に基づいた勧善懲悪図式を使って娯楽的なカタルシスをもたらすことで、人々を動員します。その意味で、広義のプロパガンダ映画をドキュメンタリーと呼ぶのは、アメリカ的な作法なんですね。
 去年の山形で特別賞を取った『ダーウィンの悪夢』(04)は、オーストリアの監督ですが、善悪二元論じゃありません。善悪二元論の如き日常的作法を脅かすものこそがアートだというのが19世紀の初期ロマン派以来のヨーロッパの伝統で、ドキュメンタリーもアートに分類されるんですね。
 日本はどうかというと、戦前には大川周明が、戦後には廣松渉が言っていたように、二元論を廃する習合主義や関係主義こそが、少なくとも維新より前までは、専らでした。分かりやすくいえば鬼ノ目ニモ涙というやつ。戦前の蓑田胸喜や戦後の『正論』的なものは、むしろ二元論の典型なのですね。
 でも都市化と郊外化で共同体が崩壊して〈生活世界〉が空洞化し、共通前提が消えてからは、人々が不安ベースになって習合主義・関係主義的な寛容さが失われ、「断固!決然!」的なものが保守だと勘違いされる昨今です。どうも精神構造まで「アメリカのケツを舐める」ようになったのですね。
 ただアメリカの場合、善悪二元論は、バプテストやメソジストなどエヴァンジェリカルズ(福音派)の宗教的伝統に支えられますし、二元論のどちら側を正しいと見るかでぶつかり合う政治的伝統があって、プロパガンダとカウンタープロパガンダの戦いを通じて振り子のようにスイングバックします。
 つまりアメリカの場合、二元論が政治的な勢力をバックグラウンドにしているのでリアルなんですけど――その意味ではアメリカを背景に据えればマイケル・ムーアも「あり」なんですが――、日本にはそうした伝統がありません。だから二元論的マイケル・ムーアの礼賛が、マスコーベーション右翼と同じ意味でみすぼらしいんですね。
……中略……
宮台:それ[フィクションよりもドキュメンタリーがえらいという感覚]は「プラットホーム」という概念で説明できます。同じファンタジーを享受する場合でも、皆が知っている家族や学校を舞台にしたファンタジーにしたほうが「皆が乗れる船」になるんです。つまり、享受しやすく、コミュニケーションツールになりやすいわけですね。
 皆が知っているものをフレームとして使うのは、現在的な娯楽享受のわかりやすいパターンです。そのことのコロラリー(系列)ですが、事実ベースならば「皆が乗れる船」になり得るという定型的観念があるんです。逆に、たかが作家の観念ベースであるならば、「とてもじゃないが乗れない船だ」となります。
 今年の山形でも上映された『ガーダ−パレスチナの詩−』(05)というプロパガンダ映画があります。「パレスチナが可哀想で、イスラエルはひどい国だ」という作りですが、これを観て啜り泣く観客の多くは、イスラエル側から撮られた『ホロコースト』や『ショアー』や『シンドラーのリスト』を観ても泣くでしょう。
 涙を流すときにそのことをどれだけ踏まえられるかということが、現実の批評である映画を、さらに批評的に観る力になります。観客の多くにそういう力があるならば、プロパガンダ映画やカウンタープロパガンダ映画がどんどん作られてもいい。ところが日本は観客のレベルが低いですからね。
 中国人の李纓(リー・イン)監督が撮った『靖国』というドキュメンタリーが公開されます。よく出来ていて、昨今の中国人表現者の成熟を思わせます。監督が日本語が話せることもあって、靖国を支持する右翼の立場と、反対する左翼の立場の、それぞれに寄り添って撮っていくわけです。
 観客は、右翼に寄り添うときには「もっともだ」と感情的に納得し、左翼に寄り添うときにも「もっともだ」と感情的に納得してしまう。『ガーダ』を観てパレスチナに涙した後、こんどは『ホロコースト』を観てユダヤに涙する、みたいなものです。わざとそのように作ってあるわけですね。やられたな、と思いました。
 その結果、僕のいうところの「右翼国際主義」みたいな立場取りに近くなるんですね。日本には日本のナショナリストがいる。中国には中国のナショナリストがいる。それぞれ感情的な構造は似たようなもの。第三者からみたら「どっちもどっち」みたいな関係。まさにそのことを描くわけですね。
 「中国にもナショナリストがいる。別にいいじゃないか。日本にもナショナリストがいる。別にいいじゃないか。ただそれだけのことなんじゃないか」という感じ。どちらに身を置くかで一見したところ風景が変わりますが、よく見ると相似形に過ぎない。すると結局どっちにカメラが寄り添うかだけになります。
 かつて成田空港反対運動のときも、カメラを学生のほうに置くか、機動隊のほうに置くかで、惹起される感情の方向性が違ってくるという問題が議論されました。どっちが真実だというんじゃなく、視座によって多元的なリアリティがあるのだから、複数の視座の想像可能性に開かれろという話でしたね。
……中略……
宮台:僕も『夕凪の街 桜の国』は高く評価しますが、それは教育効果についてです。「人に歴史あり」が想像しにくくなった時代に、「自分の親にも歴史がある」ということの想像可能性を語ることは、政治的にも意味があることです。娯楽映画でありながら、教育的モチーフ自体は肯定できますね。
 ただし「人に歴史あり」を想像する力の欠落は、日本人において群を抜いています。寺脇さんがおっしゃるように、この教育的メッセージがもっぱら「みすぼらしい日本人」にしか意味を持たないのは、悲しいかな現実です。まあ原作が非常にいい作品だし、日本人が見る作品としてはいいものだと思います。
……中略……
宮台:僕の見方は少し違います。『選挙』の想田監督は日本の選挙制度を批判していない。近代合理主義の視座からみれば言語道断の日本的なドブ板選挙が、日本人が自ら肯定してきた日本人らしさと表裏一体であることを描いています。その意味で、日本人の自画像を脱二元論的に描いたものです。
 この映画はベルリンで娯楽映画としてかなりウケました。これほどバカバカしい選挙活動が公的なものとして承認されいることに対する驚きというか賞賛というか(笑)。寺脇さんのいう滑稽さは狙ったものだと思います。現に監督はオリエンタル・エキゾチズムを狙ったビデネスモデルだと言ってました。
……中略……
宮台:今年のノスタルジー系の映画のなかで高く評価できるのは、マイケル・アリアス監督のアニメ『鉄コン筋クリート』です。的確な現実批評になっています。昭和30年代ワンダーランドみたいな街が舞台ですが、人々が昭和30年代を思うときに何を期待するかということに自覚的なんですね。
 具体的にいうと「街遊びの視座」です。僕らが小さい頃は自転車やローラースケートなんかも使って広域の街遊びをしたので、自分が住む街の数キロ四方を隈なく知り尽くしていました。だから街を箱庭のように俯瞰する視線を獲得しました。こうした「街遊びの視座」をアニメを使って現実化しているんです。
 マイケル・アリアスは日本に10年以上住んでいますが、アメリカ人の彼には昭和30年代の記憶がありません。でも重要なのは記憶の有無じゃない。昭和30年代には「街遊びの視座」があって、それは街を箱庭のように俯瞰する視線であることを知れば「本当の昭和30年代」が作れる。それを証明しました。
 ちなみに昭和30年代前半に生まれた僕らに「街遊びの視座」があったからこそ、僕ら世代が鉄道模型のジオラマにハマったんだと思います。あるいは、庵野秀明が『エヴァンゲリオン』シリーズで摸倣したことで有名な、『ウルトラマン』の実相寺昭雄的な街のクリシェの記憶が豊富なんでしょう。
 結局、昭和30年代の街を再現する際に重要なのは、狭い意味での記憶じゃなく、身体的な記憶なんです。僕はそれを「共同身体性」と呼んでいますがね。さきほど紹介した「近い奴が勝つ」「一緒にいる奴が勝つ」という意味論も、一部は共同身体性に含まれています。
……中略……
宮台:その通りだと思います。マンガやアニメの一つの指命はそこにあるんじゃないでしょうか。マンガやアニメは世界をゼロから作り込まないと成立しない。渋谷でロケをして、何が映っているのか無頓着なまま「渋谷ってこうでしょ」などと安易な前提に乗っかれない。世界をゼロから作り込むしかないんです。
 マンガ家もアニメーターも、作品に現実の地名が取り込まれている場合でも、現実世界を横において、世界をゼロから作り込みます。ゼロから作り込む際に、マンガ『21世紀少年』もアニメ『鉄コン筋クリート』も意識的に「街遊びの視座」と結びついた共同身体性を構築している。そこに凄さがあるわけですよ。
……中略……
宮台:テレビの『エヴァンゲリオン』シリーズの創作直前まで庵野監督はひきこもり状態だったそうです。その間に宗教的救済観に関心を持ったんでしょうね。ユダヤ教とキリスト教の外典についてのかなりの知識をベースにして、『エヴァンゲリオン』の世界をゼロから作ったんだと僕は想像します。
 元々の構想では、ゼーレ的救済観、碇ゲンドウ的救済観、碇シンジもしくは葛城美里的救済観の3つを対立させるところに眼目があったはずです。ゼーレ的救済観はユダヤ・キリスト教に近く、碇ゲンドウ的救済観は外典とりわけグノーシズムに近い。宗教史の知識があればすぐに分かります。
 これに対して、碇シンジと葛城美里の救済観は、両者に対して距離をとり、超越を否定する立場に最終的に立つようになる。っていうような構想だったはずですが、テレビシリーズでは時間的な事情でストーリーに落とし込むことに失敗し、テレビを補完する直後の2本の映画でも観念的になって失敗した。
 そこで、元々の構想をちゃんとストーリーにブレイクダウンして作り直したくなった。それが『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』でしょう。ただ元々の『エヴァンゲリオン』シリーズはセカイ系の元祖で、使徒という不可解な存在の闖入で撹乱された世界の回復が、自己の回復に於て達成されるという図式もありました。
……中略……
宮台:自己と戦うんですよ。自己との戦いに勝利できれは、世界での戦いにも勝利できるわけですね。でもこれは、さきほど話題にした「現実に対するコミットメントがなくなっていること」とシンクロします。主人公がコミットするのは「世界の秩序」ではなく「自己の秩序」なんですからね。
 それだけなら自己修養ものという括りでOKですが、驚くべきは「自己の回復」が「世界の回復」とイコールになっているところ。「街遊びの視座=街を俯瞰する視線」について話したけど、こうした共同身体性が消失した後、「世界を俯瞰する視線」が「自己を俯瞰する視線」と重なる現象が起きているんですね。
……中略……
宮台:おっしゃる通りだと思います。僕はセカイ系の根がかなり深いんじゃないかと思います。大和心においてはそもそも「実存の問題」と「社会の問題」を切り離さない。サルトル的な批評性を欠いた意味で極めて実存主義的です。だから革命を論じることが、いつのまにか自己を論じることになるわけです。
……中略……
宮台:「マル存主義」の時代には、少なくとも世代的な共通前提があったので、「社会の問題」を論じているつもりでいられたけど、共通前提が空洞化すると「世界がセカイであること」が誰の目にも一目瞭然になるので、「セカイ系」と呼ばれるわけですね。年長世代にとっても実は他人事じゃありません。
……中略……
宮台:僕はセカイ系的なもののルーツを密教の世界観まで遡れると思います。もっと言えば、心がけ次第で救いの印が万物に顕現するという本覚思想的な思考は、縄文時代のアニミズム的な感性にまで遡れます。そんな日本人が、セカイ系を単に批判して自分を切り離すことは難しいことだと思います。
……中略……
宮台:『天然コケッコー』は引っ掛かりのない作品でした。学校が舞台ですが、僕より若い監督には学校を撮るのがうまい人たちがいます。岩井俊二とか園子温ですね。彼らは「学校的なものの匂い」を心得ています。イジメられ体験が典型ですが、学校は客観なのか主観なのか判然としない世界なんです。
 そうした監督たちの作品に比べてしまえば、『天然コケッコー』の演出は凡庸です。でも『松ヶ根乱射事件』はよかった。江藤淳的主題ですが、『選挙』について話したように、「日本人の良さ」とされるものの多くは滑稽な非合理性と表裏一体で、この出鱈目を取り除くと「日本人の良さ」も消えてしまう。
 このことはアンビバレンスを構成します。滑稽な非合理性は願い下げ。でも合理性を追求するだけだと「匂いのない街」「匂いのない人」になってしまう。ところが「匂いのある街」「匂いのある人」を追求すると、日本人であれアメリカ人であれ、多かれ少なかれ狂気を引き受けることになります。
 このアンビバレンスは、戦前の近代化過程では亜細亜主義において問題にされ、戦後の再近代化過程では江藤淳において問題にされた。いわば古典的主題です。それにうまく切り込んでいる印象が『松ヶ根乱射事件』にはあります。同じことを『国道20号線』にも感じましたね。両作品とも批評的です。
……中略……
宮台:もっと直接的にいうと、日本の田舎って狂ってるんですよ。テレクラ等のフィールドワークで日本全国を廻りましたが、時間感覚も空間感覚も狂っています。その狂った遠近観を自覚したうえで田舎はよかったというのであれば、反社会的なるものの賞揚という逆説的な批評性になるのでいいのです。
 でも『天然コケッコー』みたいに「やっぱり田舎はいいな」というかたちで田舎を描くのは、現実に照らしてあり得ないんです。田舎が何を理由にいつから狂ってしまったのかは、考えなければいけない重要な問題です。『松ヶ根乱射事件』や『国道20号線』はそれについて考える材料を提供してくれています。
……中略……
宮台:おっしゃっていることはよくわかります。『松ヶ根乱射事件』も『国道20号線』も「密室映画」です。「どこかに行けそうでどこにも行けない空間」を描いているという意味で、松田政男さんたちがいう「風景映画」です。開放的閉鎖性ないし閉鎖的開放性という逆説を描いているわけですね。
 そうした風景映画として『松ヶ根乱射事件』や『国道20号線』は成功しています。ただ『サッド ヴァケイション』には違和感を持ちました。理由は観念的すぎんじゃないかということです。閉鎖性を形づくるのはあくまで「観念としての血縁」であって、空気や匂いとして肌に染み付いた風景じゃないんですね。
……中略……
宮台:母による縛りを描いたことで、場所の閉塞感が薄められているのが問題です。『サッドヴァケイション』の舞台は小倉です。小倉と博多、青森と弘前、浜松と静岡でもいいんですが、工業町と商業町という対立図式があって、平成不況が始まったころから工業町と商業町の落差が広がってきました。
 だんだん工業町が寒い感じになってくる。例えば援助交際をする女子高生は商業町よりも工業町に多く、でも景気の悪い工業町じゃ売れないから商業町に行くという図式でした。それを踏まえて映画を見ると、あの町の閉塞感は母親と無関連で、むしろ田舎町が狂っているという事実に関連するはずです。
……中略……
宮台:ただ『Helpless』と『EUREKA』に流れる時間は『サッド ヴァケイション』のように説明的じゃなかったはず。狂った場所としての田舎。風景だけ取れば風光明媚。人も単独ならいい人。でも狂った時間が流れている。だから狂気が発露する。その感覚が『Helpless』と『EUREKA』では描かれていました。
……中略……
宮台:『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の原作は演劇ですが、「狂った家族」を舞台に思考実験するのは小劇場では黄金パターンです。僕はわりと面白く見ましたが、「狂った田舎」という軸はまったくなかったですね。映画的な「狂った田舎」の話じゃなくて、演劇的な「狂った家族」の話でした。
……中略……
宮台:この映画に描かれた田舎は単なる記号です。「こんな田舎でやってられるか」というときの田舎はたいてい単なる記号です。ならば都会に出りゃ済む話。でも「狂った田舎」というときの田舎は、「都会に出れば地獄、でも田舎に戻れば狂気」という逃れられないアンチノミーに関連します。
……中略……
宮台:なるほど。だから批評的な要素よりも娯楽的な要素が勝って、娯楽として面白く観られるんでしょう。その対比でいうと『国道20号線』は実にすごい。先日話を聞いたジャ・ジャンクーが「ドキュメンタリーが描こうとして描けないことを、フィクションでやるのだ」と告白していましたが、それに近いですね。
……中略……
宮台:台詞もすごい。微妙な方言です。いまどきの都会人が夢想する「良き田舎」と、現実の「狂った田舎」との二重性が、浮き彫りになります。この映画は作る側にも観る側にもメルクマールになります。地方を舞台にした批評的映画は、『国道20号線』とどう距離をとるのかを問われることになるでしょうね。
……中略……
宮台:その点で『国道20号線』が素晴らしいのは、あの登場人物たちは自分たちが劣化していることをどこまでも自覚していることです。自覚しているのに、目に見えない劣化なので、どうにもならない。見ていて苦しい。僕の今年のベストワンは『国道20号線』です。こんな才能が出てくるのは素晴らしいです。
……中略……
宮台:若松監督は「どこかに行けそうだけどどこにも行けない」という風景映画を撮ってきた人です。さっき実存と社会をどう区別すべきか、あるいはどう混同すべきかという話をしましたが、「どこかに行けそうだけどどこにも行けない」というのは、実存と社会、あるいは主観と客観の両方にまたがる問題です。
 SF作家のJ・G・バラードの言葉を借りればインナースペース(内宇宙)の問題です。ある「内面」を持った人間が、ある「空間」に接触したときに、それに反応して「内面」も「空間」も変容した結果、あらわれるランズケープ(「風景」)のこと。そうした「風景」は主観的とも客観的とも言えない微妙なものです。
 若松さんはかつてそうした風景映画を撮っておられた。かつて描いた「風景」を、文脈が変わった現在時点からどう批評するかと思って見ましたが、自己批評の要素はありませんでした。史実に忠実に、エロス的なものをすべてエゴだとみなして潰す「銃による共産主義化」が反復的に描かれていました。
 かつての若松さんなら、『現代好色伝 テロルの季節』(69)や『天使の恍惚』(72)にみられるように、こうした行為を、自己滅却願望ないし子宮回帰願望という「内面」が60年代的な「空間」と反応して生まれた「風景」と表裏一体のものとして描いたはずです。そうした過去のスタンスへの言及は皆無でした。
 むしろ今の若い世代からは、「目標を見失った政治青年たちが、互いを責めさいなむことによって空洞を埋めあわせた」というふうに見えるような描き方です。つまり今の若い人たちには滑稽にしかみえない形で政治青年たちの「総括」を描きました。これはご自身の風景映画に対する無効宣言にも取れます。
 だとすれば、宣言は間違いだと思う。風景映画は無効になっていません。というのは、『国道20号線』のような映画が今ますますリアルになりつつあるからです。そもそも、さっき言ったように「どこかに行けそうだけどどこにも行けない」のは、母親や政治に還元できない、近代日本が抱える重要問題ですからね。
……中略……
宮台:[寺脇さんの言うように『実録・連合赤軍』が]教育映画だとしても、事件を歴史化するのはまずいと思います。なぜ今の問題として撮れなかったのか。歴史化してしまうと単に説教話になります。僕はシナリオを読んだ時点で「歴史化するのでなく、現在の問題として撮るべきだ」と申し上げたんですが、却下されたようですね。
 ただ実際に映画を見ての印象は、シナリオで想像したよりずっとよかった。理由は「史実に忠実に描けば描くほど滑稽な印象になる」という構造が示されていたからです。その滑稽さは現在的です。たとえば小泉フィーバーを後に史実に忠実に描けば描くほど滑稽になります。その意味で批評になっています。
……中略……
宮台:革命のために俺を殺せは今日では滑稽です。でも当時は滑稽じゃなかった。その理由を問えば風景映画になるしかない。「風景」の片側は「内面」ですから、「空間」をもたらした運動の歴史とは別に、「内面」をもたらした個々人の歴史を描くべきです。さもないと滑稽じゃなかった理由が分かりません。
 個々のメンバーがどこでどんな育ち方をして、東京にどんなイメージを持ち、東京の大学に入ってどう落胆したのかといった個人史がもたらす「内面」から、「風景」を描くのです。運動の歴史を忠実に描くだけでは歴史化で終わってしまう。僕は連合赤軍を『国道20号線』のように描く方法があると思います。
……中略……
宮台:そこですよ。自己形成史の違う人間たちが共闘できた背景には、イデオロギーの表看板もさることながら、異なるはずの「内面」が、「空間」と反応した結果、共通の「風景」を現出させるような、社会的メカニズムがあったはずです。そのメカニズムを描かないと、実は歴史化としても不十分なんです。
……中略……
宮台:僕も同じ印象を抱きました。連赤の自己滅却志向は、「銃による共産主義化」のお題目がなくても、滅私奉公的な伝統感覚の中で正当できるものです。その意味で、『選挙』と同じように、外国人からは日本人の日本人性を描いた映画だと捉えられるでしょう。その部分での教育機能はありますね。
 外国人にはそれでいいけど、日本人の我々には足りない。日本人性だとかトラディションだとか言えば静的で人畜無害ですが、実際には「有害なダイナミズム」があったはずです。東北出身者の多い226事件の下士官らも個人史があって自己滅却している。そこに独特の感覚地理があったはずです。
 貧乏な農家の次男坊三男坊が、お国のためのご奉公をするために東京に出てきた挙げ句、落胆を経験し、同時代にたまたま存在した社会思想によって自己武装しつつ、「散華の思想」を練り上げていく。実は維新以降いつの時代にも似たようなメカニズムが働いてきたんじゃないでしょうか。
……中略……
宮台:そうです。そこまで描けば、日本人性を論じる無害な話に留まらない。都市と農村の落差、急変する空間や関係性、維新政府が捏造した近代化の夢、などの要素が複合されて生じる、様々に異なる個人史的「内面」と、それが生み出す共通の「風景」の話になります。映画にうってつけのモチーフです。
……中略……
宮台:[『母べえ』は]いい映画だと思います。この映画は「死に落ち」に見えて、実は関係性モチーフです。それも、日本の漫画やアニメの黄金パターンである「自分の好きな人は別の人が好き」というもの。死についても「その人が自分のことを好きだと気づいたときにはその人はいなくなる」という黄金パターンです。
 僕はこれを古いタイプのアニメとして見ました。黄金パターンを、実力のある俳優が演じるので、感情移入がしやすい。このドラマツルギーは戦争という要素を除いても成り立ちます。だから戦争映画だとは思いませんでした。浅野忠信も、台詞を発する前から何かを予感させる「ほのかな演技」が光りました。
……中略……
宮台:山田洋次が戦時の映画を撮るというんで先入観を持ちましたが、プロパガンダ的反戦映画の匂いは皆無でした。むしろ「片思いの連鎖」を描く「効果的な書き割り」として戦争を利用しています。戦争という障害がドラマを作るわけですからね。あえていえば、戦争ではなく、庶民を批評する映画です。
……中略……
宮台:それこそ吉本隆明的な「大衆の原像」を描いたんですね。