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「近い者が勝つ」過去を舞台に「遠い者が勝つ」という昨今の意味論を持ち込む
インチキ・ノスタルジー映画の典型を『Always 続・三丁目の夕日』に見出す
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■親友という概念が変わりつつあることを書いたのは十年ほど前だろうか。何でも打ち明けられる相手を親友と呼ぶ。それが我々の言葉遣いだ。ところが、気がつくと、自分がどう思われるかを最大限気を使わなければならない大切な相手のことを、親友と呼ぶようになっている。
■90年代半ばまではなかったことだが、十年前頃から援交女子高生の取材現場で奇妙なことが起りはじめる。まず、取材過程で生じる相手側のラポール(親密な感情)が、ラポールに留まれないことが多くなった。危険に対処するため、取材相手に親友を連れてきてもらうようにした。
■ところが、そこでも奇妙な現象に気付いた。親友同士だから互いに援交している事実を打ち明けあっている。ところが、私を前にして、少女たちが「言ってなかったんだけど、この間こんな目に遭った」「実は私も默ってたけど、学校の××先生と…」と打明け話合戦になるのだ。
■まるで告解を導く教誨師になったような気分の私が、「ちょ、ちょっと待ってよ。親友同士なのに、なんでお互い秘密にし合ってたの?」と尋ねる。すると押並べて同じ答えが返ってくるのである。「だって、親友なんだから、変に思われるかもしれないことは言えませんよ」。
■こうした現象と、被取材者の側にラポールを超えた感情が生じがちになることとは、密接な関係があるだろう。親しい親友や恋人だから打ち明けるのではない。逆に、親友や恋人にさえ打ち明けていないことを打ち明けるからこそ、取材者が恋人以上の存在になってしまうのだ。
■やはり十年少し前だが、関西テレビでナンパ師を素材としたドキュメンタリー番組の制作に協力した際のこと。私と同世代のナンパ師第一世代の男たちが、口々に同じことを喋るのだ。「最近の子がスレっからしになったというのは嘘だ。むしろ純粋過ぎると言ってもいい」と。
■私も自分の経験から同様に感じていた。そのことが、期待水準expectation levelと願望水準aspiration levelを分けるという、私の読者には馴染みの図式を編み出す契機になった。期待水準とは「世間はこんなもの」という見切り。願望水準とは「私としての私」が望むものだ。
【「遠い者が勝つ」昨今】
■そもそも援交する子たちは期待水準と願望水準の乖離を特徴としていた。急速に性体験率が上昇しつつあった90年代初頭。デートといってもセックスばかり。少女漫画で夢想していた関係性の要素は破片もない。落胆した子らは「どうせつまらない性交をするなら…」となった。
■ところが、援交ブームのピーク96年を過ぎた頃から、願望水準が、低い期待水準の側に引き摺られる傾向が強まってきた。願望水準と期待水準の落差が生む抑鬱感情を潜在させる援交第一世代に対し、こうした抑鬱感情を免れた援交第二世代。私はそんなふうに区別しはじめた。
■ナンパ師たちがむしろ純粋すぎると形容するのは第二世代以降に当たる。本当は愛を求めているのに周囲に愛を期待しないのが第一世代だとすると、周囲に愛を期待しないだけでなく愛を期待するということの意味が分かっていないのが第二世代。彼女らには愛への免疫がない。
■私と同世代のナンパ師(の口を藉りて私)が言うには、ナンパは以前にも増して容易になった。彼氏や元彼との関係を聞き出した上で「そんなものは愛とは言えぬ、本当の愛とはこういうものだ、自分と付き合えば本当の愛を知ることができる」と誘導すれば、簡単に転ぶのだ。
■実際、第二世代以降になると、単なる一時的関係を超えて、十歳も二十歳も離れた彼氏を持つ女子高生らが増えた。むろん彼氏の多くは妻子持ち。倫理的な意味では対称的関係とは言えない。だが注目すべきは、それでもなおそういう彼氏を持ちたがる少女が増えていることだ。
■加えてもう一つ、以前とは決定的に異なる事態が生まれた。私たちがナンパする際、相手にいわゆる彼氏がいる場合のほうが、むしろ圧倒的に成功率が高くなってきたのだ。嘘の愛/本当の愛という必ずしも真実とは言えない二項図式が、より有効に機能するからだと思われる。
■誤解を防ぐために言えば、必ずしもそこに抑鬱がある訳ではない。彼女らは「そういうものが性愛なのだ」と信じている。そこに、信じてきたものよりもっと濃密なものがあることに気付かされる。むろん濃密だが真実を欠いた関係もある。だがなにぶん彼女らには免疫がない。
■かわりに存在するのが過剰流動性への免疫である。数年前に雑誌『スパ!』で、彼氏や彼女の携帯電話のログ(着信やメールの記録)を盗み見たことがあるかどうかを調査する企画を提案した。読んだ人も少なくなかろうが、二十歳代だと六割以上がイエスと答えるのが現状だ。
■盗み見れば大抵、知らない異性との通話記録やメール記録が見つかる。お気に入りサイトに出会い系が登録されていたりする。そうか、相手はタコ足か。だったら自分も、とリスクをヘッジするためにタコ足化する。それに相手が気付き、ますますタコ足化に動機づけられる。
■性愛関係だけでなく友人関係も同じだ。親友なのに打ち明けられないのはなぜか、どう思われるかを過剰に気にするのはなぜか、というふうに尋ねると、こんな答えが返ってくる。「単に変に思われたくないだけじゃない。相手の日記サイトやプロフサイトが気になるのだ」と。
■相手に打ち明けた秘密が相手のプロフサイトに書かれてクラスで晒し者になる。そうした経験を持つ中高生は少なくない。少なくともそうした事実があることを殆どの中高生が弁える。確かに、相手自身はともかく相手のプロフサイトの読者がどう思うか分かったものではない。
■1999年に「音羽の母」事件が起った際に私は各所で述べた。インターネットの危険というと匿名性が話題になる。だが当局にとってログがトレーサブルであればさほど問題ない。むしろ問題はオフネットとオンネットの二重性が招く、親しい筈の者たちの間での疑心暗鬼だと。
■かくして「遠い者が勝つ」という意味論が支配的になる。第一に、近い者には打ち明けられない話も遠い者には打ち明けられる。第二に、当り障りのない話しかできない近い者との関係は「間が持たなく」なる。実際、中高生の「別れた理由」の多くが「間がもたないから」だ。
■相手に秘密を喋ることもできず、ゆえに程なく「間がもたなく」なる中高生の少女らにとって、相手に秘密を喋って悩みを共有して貰うことができ、なおかつオンデマンドで必要なときにだけ呼び出せる「遠い者」が、近い彼氏がいるがゆえにこそ勝利するのは、当り前なのだ。
【「近い者が勝つ」昔日】
■相変わらず戦中から昭和30年代までを舞台にしたノスタルジー映画が目立つ。『Alway 三丁目の夕日』(04)の続編である山崎貴監督『Always 続・三丁目の夕日』(07)、三枝健起監督『オリオン座からの招待状』(07)、山田洋次監督『母べえ』(07)など枚挙に暇がない。
■これらノスタルジー映画には違和感を感じることが多い。とりわけ時間性が――そこに流れている時間の性質が――私が実際に生きた昭和30年代とは異なっていると感じるのだ。そうした印象の理由は、作品の多くが「遠い者が勝つ」という今日の意味論を持ち込むからだろう。
■最たるものが、連載でも言及した「死にオチ」だ。『世界の中心で愛を叫ぶ』(03)『いま会いにゆきます』(05)以降も枚挙に暇がないので個別作品名を挙げないが、最近ならば原作のケータイ小説と併せて記録的なヒットとなっている今井夏木監督『恋空』(07)が典型だ。
■「死にオチ」とは、親しき相手が死んだことによって、「もし生きていれば、あんなことが…こんなことが…」といった夢想を惹起させる、というドラマツルギーである。むろん相手が実際に生きていれば、関係がルーチン化して「間が持たない」かも知れないのだが(笑)。
■大した話もできないがゆえに間が持たない近い彼氏と、オンデマンドで呼び出して打ち明け話ができる遠い中年男。大した話もできないがゆえに間が持たない生きている彼氏と、オンデマンドで呼び出して打ち明け話ができる死んだ彼氏。そこには全く同型的な関係が見つかる。
■仮に昭和30年代を舞台にした映画を撮り、或いは小説を書く場合、今紹介したような「遠い者が勝つ」という意味論を持ち込んだ途端、当時を知る(敏感な)観客や読者は違和感を感じざるを得ない。なぜならば、当時は専ら「近い者が勝つ」ことが当たり前だったからなのだ。
■その点、三枝健起監督『オリオン座からの招待状』(07)は微妙な作品だ。今を生きる別居中の夫婦の元に、幼年時代に一緒に通った映画館の最終興行を知らせる手紙が舞い込む。故郷を尋ねた二人は、老館主が亡き妻と紡いだ「今とは異なる時間」を知り、気付きを得る――。
■この作品は、老館主の回想における亡き妻への思慕に準拠すれば「死にオチ」に区分される。だが彼らが夫婦(めおと)になる過程に準拠すれば、「遠い者が勝つ」ならざる「近い者が勝つ」という紛うことなき昭和30年代の意味論を見出せる。この混融に批評性すら感じる。
■スケジュールの問題だろうか、演出や編集が雑だと感じる。隣接カットの色温度が一致していなかったり視線や姿勢が一貫していない箇所が目立つ。にもかかわらず過去に現在を無自覚に持ち込んだ似非(えせ)ノスタルジー映画に辟易とした目差しには、十分に観るに耐える。
■老館主は食うや食わずの少年時代に先代に拾われ、映写技師として勤めてきた。先代が病死の後も先代の妻を助けて映写技師を続けた。本当に長い時を経てやがて二人は夫婦となる。世間は寝取っただのふしだらだのと揶揄するが、やがて規定の事実として受け容れられる――。
■本当に長い時を経て夫婦になるからこそ、蚊帳の中で臥す先代の妻の元に映写技師が両掌に閉じ込めた螢を届けて虚空に放す場面が、それだけで涙を誘う。一緒にいたから好きになったのか。好きになったから一緒にいたのか。余りにも長い時間がそうした問いを無意味にする。
■今を生きる離婚目近な夫婦が、老館主と亡き妻の挿話を通じてこうした無意味化の過程を知り、なにがしかの気付きを得る。「近い者が負け遠い者が勝つ」現在の意味論を生きる者たちが「遠い者が負け近い者が勝つ」過去の意味論に触れることで生じる再帰性が、そこにある。
【「関係性の脱落」へ】
■同じく昭和30年代を舞台とする『続・三丁目の夕日』(07)に流れる時間は全くの出鱈目だと感じる。VFXを含めてポストプロダクションに時間をかけただろうこの作品には『オリオン座〜』のような瑕疵はないものの、昔を知る(敏感な)者は一切の感動を覚えないだろう。
■理由は今風の「遠い者が勝つ」意味論が貫徹するからである。小説家を目指す主人公には遠く離れた想い人がいる。想い人と別れて時が経つ。踊り子をする想い人の元には谷町が後妻む迎えたいと根気強く通い続ける。だが当然のように近い谷町ではなく遠い主人公が勝つのだ。
■言い換えれば事実よりも妄想が勝利する。その点でアキバ系の匂いが漂うと言ってもいい。こうした顛倒は親子関係にも及ぶ。主人公の元に転がり込んだ家出少年を主人公と実の親が取り合う。一介の小説家への単なる憧れが長く生活した親との時間の積み重ねに勝利するのだ。
■昭和30年代に即せば、時間に勝利するのは飽くまで時間であらねばならない。だから敗北する時間と勝利する時間が共に丹念に描かれる必要がある。『オリオン座〜』の意味論は観念的には駆け落ちものだ。賭け落ちものですら、時間が時間に勝利する場合だけが感動的なのだ。
■というのは過去の時間性においては正妻が浮気相手に勝利するのが常道だったからだ。正妻であれば癖から弱点まで何でも知っている。精神傾向から行動傾向まで何でも弁えている。時間の堆積がそれを可能にした。一時の火遊びの相手がこの堆積に勝つことはありそうにない。
■かつて先輩や友人や後輩の彼女を寝取るスリルを知って1980年代半ばから人妻ナンパ師となった私はやがて虚無的になった。当時既に、愛人が正妻に勝ち、間男が夫に勝つのが当り前だった。間男や浮気相手だからこそ、性癖から妄想まで含め圧倒的な情報を獲得できるのだ。
■私は、ナンパが成功して「遠い私」が時間に勝利するほど失望した。「近い私」となって時間を蓄積することが足しにならず、関係の履歴が人格的信頼を与えない世界。これでは厳密に考えて私が時間の蓄積に勝利したことにならない。そもそも時間が蓄積していないのである。
■スキな男が去ったあと「次の男」が恋人になる――という点では、『恋空』(07)は『オリオン座〜』と似たモチーフを含む。だがそこには「近い者が勝つ」すなわち「時間の堆積がもたらす事実性に抗える者はいない」という意味論は一切ない。それどころかむしろ逆である。
■スキな男が去った後に主人公の少女は「近い男」と結ばれる。だが二年が経って男が去った理由を知る。癌を発病した男が、死ぬ姿を見せて少女を悲しませたくなかったのだという。少女は直ちに「近い男」を捨て「遠い男」の元に戻る。「遠い男」は死んでもっと遠くに行く。
■典型的な「死にオチ」だ。だが同じTBSが制作に関わった『世界の中心で、愛を叫ぶ』(03)や『いま、会いにゆきます』(05)など「死にオチ」映画に比べ格段に「進化」している。「遠い男が勝つ」に加え、「関係性の脱落」という今日的な意味論を取り込むからだ。
■この映画は本当に凄い。輪姦されても好きな男が「守ってやれなくてご免」と抱き締めれば直ちに回復。図書館で性交すれば直ちに妊娠。それをやっかむ女に突き転ばされれば直ちに流産。スキな男が去れば直ちに「近い男」と結合。スキな男が去った理由を知れば直ちに戻る。
■極め付けはラストシーンだ。映画の冒頭と末尾は、成人となった主人公が電車で旅する場面だ。それらに挟まれた本編は旅する主人公の回想だということになる。車窓からのどかな田園風景が見える。「そうか、主人公は死んだ男を悼んで一人旅をしているのか」と思いきや…。
■駅で降車するや家族がお帰りなさいと出迎え、主人公が笑みで応える。中森明夫氏の言う通りあたかも何も起らなかったが如し。「遠い男が勝つ」どころでない。そこでは時間が一切堆積しない。時間の堆積が与える関係性がない。代わりに「殴れば痛い」的な脊髄反射がある。
■1991年に少女漫画研究家として初めてNHKテレビに出た私には感慨深い。それまでの波乱万丈ものや大河ものに代わって少女漫画が「これってあたし!」と自分を重ねられる関係性モデルを主軸としたものに変わったのが1973年。以降は関係性モデルが少女文化を駆動した。
■その伝統が終ったのだ。関係性から脊髄反射へ(ケータイ系)。関係性から萠えへ(アキバ系)。『恋空』を「死にオチ」の駄作映画として片づけられない。そこには昨今のケータイ小説に見られる関係性の短絡化、或いは反意味的な浮き沈みを、摸倣しようとする実験がある。
なお、M2Jpop批評(TBSラジオ)では、ケータイの「脊髄反射化」の傾向を一つの柱、ニコ動・ようつべ・初音ミク・MADなど「同人メディア化」をもう一つの柱として、昨今の三十年ぶりの歌謡曲ブームをも踏まえて、従来の「Jpopは終った」を超える論点を展開します。