MIYADAI.com Blog

MIYADAI.com Blog
123456789101112131415161718192021222324252627282930

Written

モダンフェイズ・システムズのウェブサイトはこちら

映画『娼婦と線路とサッカーボール』パンフレットに寄せて

投稿者:miyadai
投稿日時:2007-11-20 - 02:30:45
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
【娼婦にまつわるイエスの喩】
■イエスの死後に彼の言行録を弟子たちが記録したものを福音書と言います。ヨハネの福音書に次のような記述があります。イエスを試すべく、律法学者たちやパリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえた女を連れて来た。律法では石打ちの死刑。イエスは、あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい、と言った。これを聞いて誰も女に石を投げることができなかった──。
■マタイの福音書にも次のような記述があります。《『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるのなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である》。
■ここでイエスは「たとえ戒律に従って姦淫しなくとも、目で姦淫する者は救われない」という具合に、戒律の意味を喩的にズラします。戒律を否定するというより、「戒律を守ることが、戒律を守ったことになるのか」と問いかけることで、戒律の意味を読み替えるのです。
■少なくとも二つの意味があります。一つは「共同体のルールに従うか否か」という問題からから「個人ごとに異なる内面」という問題へと、照準点をシフトしたこと。行為の外形ではなく内面に照準したことで、キリスト教は「共同体宗教」から「個人宗教」に進化します。
■もう一つは、「目で姦淫しない」ことは誰にとっても不可能ですから、救済の条件を不可能なものへとシフトしたということです。「可能な行為をしても救われない」という宣言によって、不可能性を自覚する内面的態度を推奨し、「信仰による救済」へと道を開きました。

【労働一般と性労働の道徳的差異】
■ご存じの通り、売買春か罪であるのか否かについては、1960年代のリベラル化運動以降、論争があります。詳しく言えば、先ず(1)売買春が道徳的な罪なのか否かについて論争があります。次に(2)売買春が道徳的な罪だとして法的に裁くべきなのかについて論争があります。
■私自身は、道徳的判断は思想・信条・宗教の自由に属する個人的内面の問題だから、道徳的にどうあれ統治権力が法的に裁くべき問題ではないとの立場です。なぜなら他人を危害を加えぬ限り、愚行であっても許容する国家の寛容さがリベラルな近代社会の要件だからです。
■このような立場は社会学者としてのものです。だから道徳的善悪についての判断を保留しています。ですが『線路と娼婦とサッカーボール』のような映画について論じるとき、今紹介した社会学者としての立場で論じても、紋切型の公式見解だけで全くつまらないでしょう。
■買春とは、自分の性的欲望(必要)を満たすため、金銭を対価として、自分に対する感情的関心のない他人の、肉体を性的に使用させてもらうことです。売春とは、金銭的欲望(必要)を満たすため、自分が感情的関心を持たない相手に、肉体を性的に使用させることです。
■飜ってみれば、しかし、自分の必要を満たすため、金銭を対価として、自分に対する感情的関心のない他人の、肉体(労働力)を使用させてもらうことや、金銭的必要を満たすため、自分が感情的関心を持たない相手に、肉体(労働力)を使用させることと、どこが違うのか。
■労働は道徳的に許容されるのに、性的労働は許容されないのは、なぜか、ということです。こう追い詰めれば分かるように、肉体の一般的な労働力としての使用とは違い、肉体の性的な使用については、「親密な相手にだけ許容される」とする道徳が、広くあるらしいのです。

【菩薩が娼婦の姿をとる場合】
■十五年以上前になりますが、埼玉県蕨市のテレクラを利用する男たちの間に、蕨には菩薩がいるという噂が立ちました。売春をする子なのですが、妻よりも恋人よりも心を尽くして男を喜ばせてくれるというのです。私は早速その子に会い、話を聞くことができました。
■彼女は言いました。私には恋人はいません。見つからないのではありません。すべての男性が愛おしくてたまらないのです。お金も貰えるからサービスしているんじゃありません。お金を貰うのは単なる淫乱女だと思われたくないからです。愛おしいから慈しむのです──。
■彼女を相手にした男たちの話を聞くこともできました。男が高齢であれ、労務者風であれ、オタク風であれ、彼女は等しく慈しんでくれる。こんな女は二人といない。だから本当に菩薩なのだ。涙ぐみながらそう話してくれる男もいました。さて、彼女は反道徳的でしょうか。
■先ほどの記述を思い出しましょう。彼女の売春は、金銭的欲望(必要)を満たすためになされるのではなく、自分が感情的関心を持たない相手に肉体を使用させるわけでもない。金銭的必要がないのに、自分が遍く感情的関心を寄せる男たちに、均しく肉体を使用させます。
■福音書によれば、イエスは、家族や故郷を捨て、敵を愛することを、奨励しました。家族や友人を愛する自然感情をエゴイズムとして却け、無関係な者を愛するというありそうもない振舞いを奨励しました。パウロが隣人愛と呼んだものです。彼女の振舞いはそれに似ます。
■彼女の営みを労働一般になぞらえれば、宗教的動機づけに駆動されたボランティア・ワークに近いものになります。そうしたボランティア・ワークは世間的には道徳的な善だと考えられています。現に彼女が菩薩と呼ばれるのは、そうした善悪観が反映するからでしょう。

【菩薩の不可能性と二元論の陥穽】
■先ほどの作業仮説的な定義とは別に、(外形上)金銭を対価とした性的サービスの遣り取り(で性交を伴うもの)を売買春と呼べば、現実の売買春は、先の定義に沿った「仕事的なもの」から、蕨市の例に沿った「菩薩的なもの」を両極端として、連続体を構成しています。
■買春する側の多くは、「仕事的なもの」に向こう側にあらまほしきものとして「菩薩的なもの」を望みます。可能なものの向こう側に不可能なものを想像します。そうした想像の圏域内でなされる営みであるが故に、売春は介護と並んで「感情労働」だと位置づけられます。
■この映画に登場する女性たちは、遍く男たちへの愛のためではなく、金銭のために売春します。でもそれは、金銭欲というより、自分の子供たちの幸いを願う所から来る金銭的必要です。彼女たちは愛に飢えていて、愛し愛される関係に入れれば客から恋人にシフトします。
■まさに「仕事的なもの」と「菩薩的なもの」の間に拡がるスペクトル上に彼女たちは分布します。二元論では単純に切れません。そんな彼女たちを、「自分を貶めている」だの「グアテマラの恥」だのと、二元論に基づく社会的裁きが見舞います。私たちは悲しくなります。
■なぜ悲しくなるのでしょうか。そうした社会的裁きが「彼女たちを見ていない」ことに由来するのでしょう。「彼女たちを見ていない」とは、その営みが「菩薩的なもの」の資格に欠けるが故に直ちに「仕事的なもの」だと見做す二元論を意味します。二元論は悲しい──。
■むろん社会学者として、たとえ「仕事的なもの」であれ、仕事を支える自由契約は、地位や立場の優位劣位をベースにするが故に、自由意志に基づく契約としての内実を持たない附従契約──追い込まれた上の仕事──なのだ、と彼女たちを弁護することもできるでしょう。
■でも、そうした社会学者の立論が人々の感情を動かす力を持つとすれば、それは、二元論への当て填めが娼婦たちが生きている現実を見ないものであることについての、悲しみや怒りを呼び起こすからでしょう。でも実はそうした二元論から自由な人間は存在しないのです。

【社会派映画を寓話として味わう】
■私は、良いドキュメンタリーと悪いドキュメンタリーの違いは、(1)二元論に覆われた我々の日常を疑うものであると同時に、(2)二元論から逃れることの不可能性にも敏感なものだと思います。現に、私もここで、「良い/悪い」という二元論的図式を使ってしまっています。
■『線路と娼婦とサッカーボール』は二つの条件を満たしています。どこがどう満たしているのかを指摘する作業は皆さんにお任せしましょう。一つだけ申し上げたいのは、そうした二元論的な分別を乗り越えるモチーフとして、サッカーの荒唐無稽が持ち出されることです。
■娼婦たちの「リネア・オールスターズ」が、ふだん彼女たちに蔑みの言葉を浴びせながら売春を取り締まる警官のチームと試合をするエピソードは、滑稽なのは言うまでもないけれど、「悲しみに色彩られたおかしさ」の印象を与えることで、私たちに何かを伝えています。
■私は三好達治の詩「雪」を思い出しました。《太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ》。でも、サッカーが本当に全ての差異を無化する雪のように機能していたら、映画は「オリンピア精神の礼賛」で終わった可能性があります。
■実際にはサッカーは雪ではありませんでした。でも私たちは、ほんの一瞬、貧しい南国のサッカーが、貧しい北国の雪になり得るのではないかという夢を見ました。全てが終わり、やがてそんなサッカーが本当に行われたのかどうかさえ、疑わしく感じられてくるでしょう。
■この映画を、偏見批判や権力批判を伴う社会派映画として受け取るのはオーソドックスです。でも社会派である私が敢えて言えば、この映画を「〈世界〉は確かにそうなっている」という印象を与える一つの寓話として読むことの豊かさを、味わっていただきたいのです。