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宮沢賢治原作、藤城清治演出の影絵劇『銀河鉄道の夜』05年公演に抱いた違和感を
切り口に、「宗教的世直しの不可能性と不可欠性」に関する意味論的伝統を解読する。
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■宮沢賢治を原作とする藤城清治の影絵劇『銀河鉄道の夜』のDVDが2007年夏に発売された(05年和光文化センター公演)。私にとっては40年ぶりの再会だ。何度観ても素晴らしい影絵劇だが、藤城清治氏には帰せられない理由により、私にはどうしても大きな違和感が残ってしまう。
■宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を読んだのは小学校二年生のときだ。きっかけは藤城清治率いる木馬坐の影絵劇『銀河鉄道の夜』の記録映像をNHK教育テレビで観たことだった。早速学校の図書館で探して読んだ。1966年のことだ。ところが1968年に図書館で再読しようとして驚愕した。
■話の順序が変わっていた。巻末に説明があった。1968年に弟・宮沢清六氏、最初の原稿整理者・森荘巳池氏、岩波版童話全集の編集者・堀尾青史氏の三者協議で、カムパネルラの死のエピソードの位置が変更され、セロのような声をしたブルカニロ博士のエピソード等が大幅削除されたと。
■初期型と後期型と呼ぼう。それから三十年。何度も読み比べてきた。最初の印象が強かった点を割り引いても初期型が正しいと感じてしまう。1924年から十年間、死の直前まで改稿が重ねられた作品。死で中断されなければどうなっていたか分からない。だから議論の当否は仮のものだ。
■だが長じた私は、賢治が、田中智學が設立した法華系の国粋的新宗教で、石原莞爾も心酔する国柱会の信者だったことを知り、現世救済の世直し思想を特徴とする法華経について調べて、賢治が長く生きていたら『銀河鉄道』の完成形は改版前の順序になったろうと確信するようになる。
■後期型では、ジョバンニがカムパネルラと銀河鉄道を旅する夢を見た後、丘で目覚めて牛乳をとりに牧場に立ち寄った帰りにカムパネルラの溺死に遭遇する。要は、銀河鉄道の夢は、既に死んだ(がジョバンニはそれを知らない)カムパネルラによる「お別れ」のだったという話になる。
■ところが初期型では、牛乳をとりに牧場に立ち寄った帰りにカムパネルラの溺死に遭遇して涙にくれるジョバンニが、丘で微睡んでカムパネルラと銀河鉄道を旅する夢を見た後、目が覚めて、近づいてきたブルカニロ博士に夢の意味をリコンファームされ、覚悟を抱えて帰路につく──。
■私が小二のときに観た影絵劇『銀河鉄道の夜』は初期型だった。40年ぶりに再会した影絵劇を観始めたときには、もしや初期型なのではないかと亢奮したが、後期型だった。「死者と共に旅をする」というリグレットに満ちた話を期待したが、単なる「夢でお別れ」という話だった。
【世直しをめぐるリグレット】
■最初の印象が強かったと言ったが、死んだ筈のカムパネルラが向かいの席にいて、思わず《カムパネルラ、きみは前からここにいたの?》と問いかけようとするジョバンニの驚きを共有させられる初期型の強烈な印象は、「最初に触れた物語だからだ」といった説明を優に超えていよう。
■だが初期型が強烈なのは、死んだ者が眼前に生きているという驚きに由来するだけでない。死んだカムパネルラと一緒に銀河の旅をするエピソード自体が、文章に明示されていなくても、ジョバンニがカムパネルラに対して抱く深いリグレットに構造的に覆われざるを得ないからなのだ。
■構造的にと述べた。具体的に説明する。牧場に立ち寄った帰り道にカムパネルラの溺死に遭遇する直前、カムパネルラが本当の友達ではなかったことが明示される。カムパネルラと本当の友達になれなかったことをリグレットするからこそ、一緒に旅をする夢を見る、という構造なのだ。
■どう明示されるか。ジョバンニの不在の父は漁に出ているのではなく入獄しているのだと囃すザネリが、カムパネルラの溺死に遭遇する直前《ラッコの上着が来るよ》(獄中だから上着は来ないよ)と二度に渡りジョバンニを揶揄う。二度目は何とカムパネルラがザネリとつるんでいる。
■《そのなかにカムパネルラが居たのです。カムパネルラは氣の毒さうに、だまつて少しわらつて、怒らないだらうかといふやうにジヨバンニの方を見てゐました。ジヨバンニは、遁げるやうにその眼を避け、…間もなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。…カムパネルラもまた、高く口笛を吹いて、向うにぼんやり見えてゐる橋の方へ歩いて行つてしまつたのでした。ジヨバンニはなんとも云へずさびしくなつて、いきなり走り出しました》(岩波文庫昭和26年版による)。
■続いてモノローグが括弧入りで綴られる。《(ぼくはもう、遠くへ行つてしまひたい。…ぼくは、どんなに友だちがほしいだらう。ぼくはもう、カムパネルラが、ほんたうにぼくの友だちになつて、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやつてもいい。けれどもさう云はうと思つても、いまはぼくはそれをカムパネルラに云へなくなつてしまつた。…)》
■ジョバンニとカムパネルラとはお父さん同士も友達だという幼馴染みだが、二人の境遇は対照的だ。ジョバンニは病気の母親と二人暮らし。学校帰りに活字拾いをして生計を立てる。カムパネルラの父親は書斎に立派な本を揃える学者で、カムパネルラ自身も背が高い(≒育ちがいい)。
■ここには階級落差が明示されている。その結果、イジメを見て見ぬふりのカムパネルラと、ジョバンニの断念のモノローグに引き続き(牧場への立ち寄りを挟んで)カムパネルラの溺死が描かれるとき、そこにはジョバンニによるカムパネルラの心理的殺害の印象までもが生まれるのだ。
■敢えて言えば、物語全体に漂うジョバンニのリグレットは、暗喩としてだが階級的殺害へのリグレットとして読める。賢治も信仰する法華経の開祖日蓮が、宗教的世直しの邪魔立てをする念仏宗教(真宗)の僧侶殺害を推奨した事実と併せると、世直しを巡るリグレットが前景化する。
■国柱会創設者・田中智學は、日蓮の本懐を遂げること=勅命による国立戒壇の建設を足掛かりに世界な霊的統一(五族協和)へと向かうこと、という国柱会の目標を、日本書紀の神武天皇に関する記述からの造語「八紘一宇」で表し、大東亜戦争の思想的バックボーンの一角を構成した。
■国柱会加入の為に上京した賢治の、現実の国柱会を目にした逡巡を含め、賢治はナイーブではない心酔者だったと私は思う。そこには世直し=階級的殺害に関わる「密教的断念」があったろう。密教的断念とは即ちリグレット(慚愧の念)なき世直しがあり得ないことへの覚悟のことだ。
■言い換えれば、慚愧の念を欠いた世直しを傲慢として却ける態度のこと。現に『銀河鉄道の夜』に繰返し登場する《まことのみんなの幸》《ほんたうの幸》は、蠍座のエピソードを通じて、全き不可能性として暗喩されると同時に、不可能と知りつつ殉じる態度が暗喩的に奨励される。
【人を見て法を説け】
■1995年の地下鉄サリン事件後、犯罪者集団オウム真理教を擁護し、或いは正当化したとして、同じ東大宗教学は柳川啓一門下の中沢新一と島田裕巳が一旦は論壇を追われた。その後、着々復帰を遂げつつある中沢と、復帰いまだしの島田の対照性は、看過されざるべき問題を示している。
■その島田が『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』(亜紀書房)を上梓した。結論から言えば、中沢の非倫理性についての指摘には同感できるものの、肝腎のポイントを外しているとの印象を免れない。一言でいえば、「密教的断念を巡る神学的問題」へのナイーブさだ。
■島田は、中沢の『虹の階梯』が麻原彰晃を含めたオウム幹部の共通バイブルだった事実、ポア(相手の救済の為の殺害)を含めたオウムの教義形成に大きな役割を果たした事実を確認した上、元信者との対話等を通じてオウム事件後もオウムを擁護するかの如き言説を績ぐ非倫理性を糾す。
■同時に、教義学的側面では、全ての世直しには切り捨てられる者がいるという事実を確認した上で、この事実を乗り越えるための心理的作法(この世ではなく霊性にコミットすること)を推奨している、として、中沢から発せられる密教的メッセージを反社会的なものだと断じている。
■要は、誤った教義を社会的に流布させた咎があると言う。だが私の考えでは、中沢のメッセージは、《まことのみんなの幸》に不可能を知りつつ殉じる態度を奨励するものである点において、賢治が『銀河鉄道の夜』で示した宗教的意味論(神学)との間に、大きな違いを認められない。
■踏み込んで言えば、二人の宗教的意味論はそれ自体として誤っていない。それどころか、ユダヤ教的ないしキリスト教的な原罪観念を含めて、人に帰せられる咎がどこにあるのかを巡る恐らくは古代にまで遡る宗教的意味論の「核心」として、宗派を越えて、今日まで継続し続けている。
■その「核心」とは一言でいえば、我々がヒトとして存在することに本質的に含まれる限界ゆえに、ヒトによる能動は、その目標や帰結がどうあれ、本質的に正当化不可能だという点に関わる。目標については「分別の恣意性」が、帰結については「人知を超えた世の摂理」が、問題になる。
■だが、これらを理解することは、日常的信念の否定ゆえに「心理的な抵抗」を伴うと同時に、半端な理解では、悪と知りつつ悪を行う「恣意性への居直り」が帰結しがちだ。だからこそチベット密教では、長期間寝食を共にした弟子にだけグルがメッセージを授けるグルイズムがある。
■そこには、「分別の恣意性(空間性)」にせよ、「人知を超えた世の摂理(時間性)」にせよ、それらが〈世界〉の根源的未規定性に関わる問題だけに、規定可能な形では伝達できないという本質的問題がある。ゴータマ・シッタルダが「人を見て法を説け」という所以はそこにこそある。
■人を見る側の資格もまた規定不可能。グルたり得る資格はグルによって認定されるが、認定するグルもまた先行するグルによって認定されたに過ぎぬ。その意味で中沢の咎は、グルでもないくせに、麻原という似而非グルを認定してヴァジラヤーナを伝えた浅はかさにあるという他ない。
【原罪(1)──分別の恣意性】
■『人権について——オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』(98)でのリチャード・ローティに従えば、人権とは何かについての教義学的問答よりも重要なのは、誰をヒトとして見做すのかを巡る恣意性だ。これは、感情教育というミメーシス(感染)抜きには超えられない。
■この恣意性は『まぼろしの郊外』に収録した96年の執筆原稿を引けばこう記述できる。全日本人の救済を考えれば非日本人が切り捨てられる。全人類の救済を考えれば知的な非人類(鯨類など)が切り捨てられる。全知的生命の救済を考えれば非知的生命が切り捨てられる。以下同様…。
■誤解を窒ぐべく言えば、この恣意性は認識論的というより存在論的だ。我々がここに生きているという事実自体が、他の生命を食べることや、自然を切り開くことや、共同体を守る(べく他を滅ぼす)ことを含めた「恣意的な排除と選別」の上に、歴史的にも現在的にも存立するからだ。
■このことは、我々が何をしなくても、存在すること自体において常に既に罪を負っているという原罪観念として、ユダヤ・キリスト教において表象されてきた。原罪が、ルシファの化身たる蛇に唆されて「知恵の実」を食ったことに由来すると観念されていることが、本質を指し示そう。
■この原罪を贖える(或いは既に贖われた)と見做すことで無害化するキリスト教と、永久に贖えないと見做すことで無害化を回避するユダヤ教では、〈世界〉の根源的未規定性に向かい合う態度が全く異なってくるのは言うを俟たない。敢えて言えば、キリスト教は原罪を忘却しやすい。
■だがキリスト教も、只一人イエスが原罪を贖い得たのはなぜかを巡って「三位一体」という表象を(土俗の宗教的表象を素材に)打ち立ててはみたものの、その規定不可能性を見るや、拙著『サイファ』の表現を藉りれば〈世界〉の根源的未規定性を特異点へと集約してみせたに過ぎぬ。
■現にローマ正統教会(カトリック)は、規定不可能な表象たる「三位一体」を厳密に規定可能化しようとする営みを、ニカイア&コンスタンチノポリス信条以降、異端として排斥してきた。社会紛争回避の知恵という側面もあるが、背後には規定可能性を巡る原罪論的な問題設定もある。
■原罪論的な問題設定とは、アレとコレとを区別する人間の二元論認識=規定可能化を、先に述べた通り、それ自体〈世界〉の根源的未規定性を覆い隠す、正当化できない営みだとする発想だ。ラディカルな規定可能化を信奉する二元論的な(善と悪!)楽天性は、現に社会紛争の源になる。
■その意味で、パウロによる隣人愛の教義が、友敵の区別の恣意性に照準する本質論であると同時に、教会成員に社会性を発揮させて教会存続を図る知恵だったのと同じく、規定不能な「三位一体」表象の護持も、原罪論に由来する本質論であると同時に、紛争回避を図る知恵であるのだ。
■だから歴史的に見れば、宗教を巡る争いがもたらす苦難──〈超越〉を巡って死闘するヒトの営みという〈内在〉をあからさまに経験すること──が、ユダヤ教やカトリックやプロテスタントの中でも聖公会や長老派などに、それぞれある時期以降、二元論回避への志向をもたらし得た。
■その意味で「悪と戦い続け善を積み増せば、千年王国で永遠の生命が得られる」と、ゾロアスター教よろしく素朴な二元論に陷るアメリカのプロテステタント諸会派──福音派と呼ばれる──は、カトリック的視座からは「苦難を欠くがゆえの唾棄すべき軽薄さ」と見做されるのである。
【原罪(2)──人知を超えた世の摂理】
■その意味でアメリカには、二元論がもたらす激烈な悲劇に悶え苦しむ経験が、繰返し必要なのだろう。悲劇なくして成長なし。捨て石なくして上昇なし。全ての成長や上昇は、常に既に悲劇を捨て石としてのみあり得る。ヘーゲルにも刻印された「世の摂理は人知を超える」との発想だ。
■だがこの発想は社会的には危険である。ホッブズ的な弱肉強食論をヘーゲル的に正当化するとアメリカのネオコンが生まれることが問題を象徴する。自らの能動が生み出した悲劇を──それが意図的であれ非意図的であれ──世の摂理に埋め込まれた捨て石として正当化する営みである。
■ネオコンの軽薄さが福音派の単純さと結びついて数多の悲劇が生まれたことを忘れる訳にいかない。が、米国的な軽薄さや単純さを乗り越える為にはこうした数多の悲劇こそが必要だとして、米国的振舞いに不作為で臨むこと自体が、米国的な軽薄さや単純さを意味するという逆説がある。
■抽象的に言えば、「世の摂理は人知を超える」という発想は、「終わりよければ全てよし」とばかりに、まだ見ぬ(永久に見ることのない)終わりを参照点としつつ全てを正当化するという「恣意的な分別」への、居直りを奨励しかねない。だからこそ「世直しの不可能性」なのである。
■現ローマ教皇ベネディクト16世ことヨセフ・ライツィンガーとユルゲン・ハーバマスとの共著『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』の邦訳が出た(07年)。テーマはずばり「世直しの不可能性と不可欠性」。切口は、改革派神父ライツィンガーがなぜ厳格な異端審問官へと転向したか、だ。
■私の言葉で加工して纏める。本質論的には「分別の恣意性」や「人知を超えた摂理」即ち原罪論ゆえに、高々人為に過ぎぬ宗教的世直し(怒れる神父)を教会は正当化できない。世俗の知恵的には、体制反体制を問わず特定の政治勢力への加担は、社会の変転で教会の存続を危うくする。
■だから宗教的世直しに乗り出す「怒れる神父」は、異端審問を通じて教会から放逐される以外ない。霊的救済以外の宗教的救済は、既に述べた理由で原理的に不可能である。だが不作為もまた作為なり。即ち何もしないこともまた、既に述べた通り恣意的な排除と選別(の結果)なのだ。
■宗教者であれば、恣意的な排除と選別がもたらす悲惨を、見て見ぬふりはできない。霊的救済が、むしろ理不尽な体制の温存を補完するのみという事実に、目をつぶることもできない。ゆえに宗教的世直しに乗り出すことは当然のことだ。だが、宗教的世直しは宗教的に正当化できない。
■だから「宗教的世直しの不可能性と不可欠性」というアンビバレンスに耐えるしかない。キリスト教的社会革命を断固異端として却けつつ、心の中でエールを送るという二重性しかあり得ない。或いは正当化不可能性(異端!)を覚悟で宗教的世直しに乗り出すという決断主義しかない。
データです。
■影絵・演出:藤城清治 ■原作:宮沢賢治■台本構成:香山多佳子 ■音楽:渡辺浦人 ■声の出演:風吹ジュン、神津はづき 他■語り:森あき子
2007年製作(収録:2005年1月 和光市文化センター)品番:COBM-5513 税込価格:4,935円48分/16:9(LB)/片面一層/カラー/モノラル(ドルビー・デジタル)
http://columbia.jp/fujishiro/COBM-5513.html