承前5
田口 (省略)
宮台 東大社会学科の一年先輩の山田昌弘氏が『希望格差社会』という有名な本を出しました。昔と違って今は、欲望の充足機会に階級格差があるだけでなく、将来何になりたいか何をしたいかという希望それ自体に階級格差があるという内容です。事実認識としては妥当でしょうが、問題はその事実をどう評価するかです。希望に格差があることは直ちにいけないことでしょうか。僕はそうは思いません。階級的固定が過ぎるといった条件次第でいけないことにもなるし、これから申し上げるような条件次第でOKにもなります。
日本的ポストモダン(近代成熟期)が奇妙なのは、多くの人が「仕事での自己実現」を
追求しなきゃいけないと思っていること。昔よりもはるかに多くの親が子どもを受験に駆り立てる背景にも「自己実現病」があります。「仕事での自己実現」が「地位の上昇」なのか「能力の発揮」なのか──インスツルメンタルなのかコンサマトリーなのか──という区別は横に置けば、「仕事での自己実現」を達成できる者はわずかしかいません。なのに僕らの日本社会ときたら「仕事での自己実現」というオブセッションばかり強くて…。
田口 (省略)
宮台 そうです。七〇年に創刊される『アン・アン』のキャッチフレーズ「ワンランクアップ」に象徴されます。「仕事でのワンランクアップ」だけでなく「消費でのワンランクアップ」も含まれました。ワンランクアップ=自己実現は、自意識の問題であると同時に、近代成熟期において仕事や消費のシステムを回すための動機づけの問題でもありました。近代成熟期の〈社会〉を回すために注入された〈実存〉だったんですね。こうした〈社会〉と〈実存〉のカップリングをポストフォード主義体制と言います。ポストフォード主義体制下では、社会システムが「あるべき自己(との兼ね合いでの現在の自己)」についての記述を量産します。社会学者ギデンズは、これがポストモダンの再帰性だと言います。
サービス&情報産業がメインになる近代成熟期になる以前、重化学工業がメインの近代過渡期にはフォード主義でした。「構想と実行の分離」すなわち大量生産システムをベースにした「設計図を描く人」と「設計図通りに働く人」との分割という意味です。大量生産の時代が終わり、サービス&情報産業の時代に移行して、多品種少量生産や高付加価値サービスを巡る競争になると、トップから末端まで「仕事での創意工夫」の必要が生まれ、「仕事での自己実現」が語られはじめます。「誰もが、知的な関わりを通じて、仕事での自己実現を目指せ」と。「構想と実行の一致」のポストフォード主義です。
しかし「構想と実行の一致」の裏には「構想と実行の一致」を「構想」する少数エリートがいます。その意味でポストフォード主義はメタフォード主義なんですね。フォード主義の応用編ないし変種なんですね。大量生産システムが生んだフォード主義は、経済的にはケインズ主義(修正資本主義)と結びつき、政治的にはコーポラティズム(談合主義)と結びつくので、再配分的です。他方、多品種少量生産が生んだポストフォード主義は、経済的にはグローバル化での生き残りと結びつき、政治的にはネオリベラリズム(新自由主義)と結びつくので、優勝劣敗的です。そのことは、重大な帰結を招きます。
フォード主義では、頭ではなく体だけを使う「実行」の人に対して冷たく見えますが、市場の外あるいは企業組織の外に家族共同体や地域共同体があって、ホームベースやハイマート(帰る場所)として機能します。そこがハイマートなのは自己実現が要求されないからです。逆にポストフォード主義では、万人の自己実現に関心を寄せる平等主義に見えても、グローバル化とネオリベによって家族や地域を解体したアノミーの「埋め合わせ」として「自己実現」を敢えて持ち出すだけだから、冷たい発想です。そこでは家族や地域でさえ「消費による自己実現」を要求してくるんですね。
田口 (省略)
宮台 そう。僕は〈システム〉と〈生活世界〉を往復すると言います。「役割&マニュアル」が優位なコミュニケーション領域が〈システム〉。「善意&自発性」が優位なコミュニケーション領域が〈生活世界〉。近代過渡期の、重厚長大産業優位の、大量生産的なフォード主義では、〈システム〉が拡大しつつあっても〈システム〉の外にまだ〈生活世界〉がある。近代成熟期の、サービス&情報産業優位の、多品種少量生産&高付加価値的なポストフォード主義では、〈システム〉が拡大しきって〈生活世界〉を飲み込んでいる。そこでは〈生活世界〉が最後まで担ってきた機能を〈システム〉が肩代わりするので、さっき言った「シャワールーム」の比喩が効きます。
〈生活世界〉が空洞化してホームベースが消えると、「仕事での自己実現」が無理だったら「消費での自己実現」をせよと、再び〈システム〉による「埋め合わせ」が登場する。こうした因果系列をレギュラシオン学派の一部が「消費主義的パラダイム」と呼び、「経済のグローバル化」と「政治のネオリベ化」とを「消費主義的パラダイム」が正当化するのだと言います。ここでの「消費主義」とは仕事も遊びも含めて全部自己実現という「自己実現主義」です。
万人に「自己実現」を呼びかけるこういう社会がいい社会でしょうか。現実に「自己実現機会」が十分に保証されればOKなのでしょうか。レギュラシオン学派の中でも意見が岐れます。僕は、マーケットから繰り出される恣意的な自己実現イメージ──広くは社会システムが恣意的に供給する流動性の高い「自己に関する記述」──を人々が真に受けて生きる社会は、オブセッシブで危険だと思います。社会からのメッセージを真に受けて真剣に生きようとすると……。
田口 (省略)
宮台 解離でなければ軽躁軽鬱。解離とは、場面によって違った自己を演じること。軽躁軽鬱とは、フェスティバル的に盛り上がったかと思うと退却して落ち込むという繰り返し。燃え尽きる前に〈システム〉が予め設えたリゾートで「〈世界〉との接触」が与えられる。そういう風に生きる人間ってマトモでしょうか。〈システム〉はウマク生きることを要求します。〈生活世界〉はマトモに生きることを要求します。近代過渡期では後者という前提があって前者がありました。近代成熟期には〈システム〉が全域化して〈生活世界〉を覆いますからマトモに生きることは要求されなくなります。それどころかマトモであろうとするとキツくなる。僕は「ウマク生きることとマトモに生きることの乖離」と言います。
そこに平等主義が変な形で出て来るんです。左翼崩れの格差批判論者が「万人に自己実現の夢を与えよ!」「希望格差を無くせ!」と叫びます。教養のある人間なら「おいおい、それってポストフォード主義そのものじゃないか」って思うはずです。「消費主義的パラダイム」に基づいて万人に「仕事での自己実現」を目指すことを説くのかよ。そうやってエリート階層をリクルーティングした後、結局大半の人には「仕事での自己実現」が無理だと分かるから、それならばとコンビニ労働で得られたちっぽけなカネで可能な「消費での自己実現」(萠え!)を説くのかよ(笑)。
希望格差の階層的固定の一部は公正原則的にマズイ。地域的固定の一部も同じくマズイ。そこではリソースの政治的再配分や保護が必要です。でも最初から或いは早い時期から「消費主義的パラダイム」が支える自己実現ゲームから「降りる」者がいるのは、ポストフォード主義的オブセッションから自由だという意味で望ましい。その意味で、格差それ自体の解消にオブセッシブに目くじらを立てるより、ハイマート(帰る場所)として機能する〈生活世界〉を再構築してオブセッションフリーな感情的安全を確保することが、大切です。格差問題も一部の階級文化や地域文化の保全を含めた〈生活世界〉保全の観点から議論されるべきです。格差と聞けばいきり立つ無教養な「格差馬鹿」は死んだ方がいいね(笑)。
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