承前3
田口 (省略)
宮台 僕が改憲派なのはご存じですよね。
田口 (省略)
宮台 なるほど。田口さんの指摘される「9条護憲」と「スピリチュアルなもの」の結びつきは今後顕在化するでしょう[太田光&中沢新一『憲法九条を世界遺産に』という形でその後に顕在化]。ランディさんのおっしゃった、現実的なものとスピリチュアルなものとが結びつく危険については、一九四〇年代にドイツのヘルムート・プレスナーという思想家が「ロマン主義の陥穽」という形で指摘しています。それはドイツのナチズムがいかにして立ち上がったのかという疑問に対する答えとして述べられています。ただし検閲を恐れてプレスナーはナチズムのナの字も用いていませんがね。
プレスナーの答えは、ドイツの初期ロマン派が後期ロマン派へと短絡されるプロセスの延長線上にナチズムが出てきたというものです。すると問題は、初期ロマン派が出てきたのはなぜかと、後期ロマン派へと短絡されたのはなぜか、に分割して答えることができる。前段は、ロマン派的感受性がそもそもどういうふうに立ち上がったのかということです。
ロマン派的感受性とは、一口で言えば「部分に全体を見出す感受性」のことです。だからしばしば主観主義と同義で用いられます。「アバタもエクボ」という奴ですね。これは、ロマンチック・ラブ(ロマン派的恋愛)において「ただの俗なる女に崇高さを見出す」現象が注目されたことに由来する、誤用です。正しくは、主観主義かどうかに関係なく、全体性に帰依する作法のことです。
ヴァルター・ベンヤミンならば、部分性に宿る全体性のことを「アウラ(オーラ)」と呼びます。彼はアウラ概念を「神性降臨」から引き出しています。神が降りるという観念ですね。神とは全体性です。厳密には超越性という特殊な全体性です。超越性とは〈世界〉――ありとあらゆる全体――の外にあることを言います。神が〈世界〉を作ったのなら、論理的に神は超越でなければなりません。神が降りる場合、〈世界〉の中の事物――これを超越に対して内在と言います――に降臨します。降りる対象はシャーマンだったり自然現象だったりする。超越である神には、論理的にみて我々がアクセスできるはずがない。だからこそ、数多ある内在の中でも特殊な事物だけが超越への通路になるとされます。
ロマン派的感受性は形式的には「神性降臨」の反復です。ただ厳密な「神性降臨」とは一ヶ所だけ違う。降臨するのが超越(〈世界〉を超えた神)という特殊な全体性ではなく、〈世界〉という全体性であるところです。トーマス・マンの『魔の山』じゃありませんが、峻厳なる山並とか荒れ狂う海原であるとかに、〈社会〉を超えた〈世界〉を見出すのです。僕はよく「〈世界〉からの訪れ」という言葉を使います。これはまさにロマン派的感受性そのもの。このロマン派的感受性がどうして「時代の意味論」として結実したのでしょう。
プレスナーの回答はこうです。彼によればドイツは不幸な場所です。なぜならばヨーロッパの他の地域に存在したような人々の宗教性――超越への志向――を受けとめる受皿がなかったからです。理由は、ドイツは長い間四分五裂した領邦国家で、宗教勢力が領邦国家の王という世俗になびくことで生き延びるしかなく、宗教権力のご都合主義的な腐敗堕落のせいで人々がキリスト教的なものへの期待を抱けなくなったからです。でも人々は宗教性を必要とします。プレスナーは理由を述べませんが、僕的に言えば〈世界〉の根源的未規定性――前提を欠いた偶発性――を比較的無害な形で受容するには、全体性を想像することが必要だからです。「神さまの意思だから」といった体験加工がその典型ですね。
プレスナーは、社会を生きる人々の大半には宗教性への志向があり、それを受けとめる宗教が存在しない場合、ロマン派的感受性――「峻厳なる山並」や「荒れ狂う海原」が〈社会〉を超えた〈世界〉を示すという類い――が生まれるのだとします。そこでは〈世界〉が、我々のアクセスを拒む全体性として――不可能なものとして――想像されます。だから「峻厳」であり「怒濤」なのです。これが初期ロマン派的感受性です。これが短絡され、「ドイツ民族」「アーリア第三帝国」「ヒトラー」が崇高だといった形で、単なる内在に過ぎないものを全体であるかのように想像する作法、すなわちアクセスできる内在として――可能なものとして――全体を想像する頽落した作法が、拡がります。こうした頽落形態こそが、ナチスにつながる後期ロマン派的感受性です。
この説明図式はと応用範囲が広い。戦後日本にも使えます。どこの社会にも全体性を志向する人がいます。僕は「超越系」と表現します。全体を志向しなくても済む人々もいます。「内在系」と表現します。読者のために分かりやすく言うと、内在系は「いい社会になればみんなが幸せになれる」と考える。ところが超越系は「どんなにいい社会になっても幸せになれない人がいる」と考える。僕は超越系です。超越系にとって幸せは退屈です。幸せな家族をぶち壊して怒濤の経験をする中に、濃密なドラマがあるんじゃないかと思ったりする。順風満帆な性愛に苛立ち、めちゃくちゃ自堕落な関係を生きてみたりする。
超越系をみると人間が不条理な存在だと分かります。人間が不条理な存在であるのを賞揚する主意主義的な立場を「右翼」と言います。資本主義を否定する左翼/肯定する右翼。再配分を肯定する左翼/否定する右翼。そうした枠組が通念でしょうが誤りです。再配分を全面肯定する「右翼」がいるからです。北一輝や石原莞爾がそうでしょう。自民党がそうだったでしょう。「右翼」とは、たとえ再配分を肯定しても、それだけでは幸せになれない人がいることを認めかつ賞揚する立場なのです。そこには宗教的次元が関係します。日本の場合、北一輝や石原莞爾や宮沢賢治のように法華経が大きな役割を演じてきました。超越系とは、読者のために分かりやすく言えば、全体性に帰依したがる立場のことです。
支えるものと支えられるものとの関係が崩れ、あらゆるものが正統性を欠いた恣意的な事実性として現れる。それが近代成熟期=ポストモダンです。何か全体的なものに資するべくアレがありコレがある、とは思えなくなった社会です。したがってポストモダンとは、超越系にとって辛い時代です。戦後、大東亜共栄圏がダメになった。やがて、天皇陛下もダメになった。昨今では、日本国民も何のことやら分からない。愛国を騙る政治家も安倍晋三のようなクソだらけ。いったい自分たちの全体性に対する志向を何に向けたらいいんだ。そう考えると、三島由紀夫や石原慎太郎ならずとも、超越系は苛立たざるを得ません。
そこで、行き場を失った全体性への志向=超越的志向が、憲法9条や平和主義に向かう。本当は「祈り」の対象にしてはいけない政治的形象を「祈り」の対象にしてしまう。その意味で「受け皿の不在ゆえに頓挫した超越的志向を誤射する」というプレスナーのロマン派的感受性の規定が当てはまります。だからランディさんのおっしゃる「スピリチュアルと憲法9条との結合」は不思議なことじゃない。旧枢軸国と言われた所では、急速な近代化を達成するために後期ロマン派的な疑似超越の形象を利用しまくった後、敗戦によって疑似超越の形象が除去されたため、超越的志向が行き場を失う急性アノミーが襲ったのです。この急性アノミーが日本では非現実的平和主義や全体主義的左翼運動をもたらします。
旧連合国の連中から見ると、旧枢軸国の連中は、単なる内在に崇高な超越を見出すという意味で、全能感への願望の切断に失敗した小児病患者に見えます。フロイト的な立場から言えば神経症的不安です。旧連合国から見ると旧枢軸国には神経症患者がごまんといる。この連中をどうしたらいいんだろうか。それを考えてきた思想の系列をフランクフルト学派と言います。だからフランクフルト学派はフロイト派と近縁なのです。僕がいま言ったような流れを完全に理解してる人は、日本ではあまりいなくて、マルクス主義の一派のように見做している人が多いでしょう。
そんなことはどうでもいい(笑)。問題はそこから先です。「九条みたいなちゃちなものに全体性を投射してどうするんだ、おまえ」っていうツッコミは重要です。でも「じゃあ、僕たちの超越的志向の妥当な受皿ってなんなんだろう」と、やっぱり僕みたいな超越系の人間は考えちゃう。精神科を受診する「心理学化した人々」もいるかもしれないけど、僕みたいな領域で仕事をする連中は社会政策的な解決を志向します。社会のこういうボタンを押せば歩留まり8割――周囲に迷惑をかけずに超越系の人々の8割が満足してもらえるんじゃないか――みたいに考えるんです。ガバナンス志向ですね。その意味で「批判よりも安堵」だと思っています。
田口 (省略)
宮台 なるほど。ランディさんのような超越系の人間から、内在系の人間がどう見えるのか。実は議論の対象になってきているんですね。たとえばデビッド・フィンチャー製作総指揮の『ロード・オブ・ドッグタウン』という実話ベースの映画がある。三〇年ぐらい前に、スケートボードの基本的な技術をすべて編み出した四、五人の少年たちがいました。アメリカは西海岸のベニスという貧しいさびれた町の下層階級の連中です。夏休みにバカンスで留守になった金持ちの家に忍び込んで、水のないプールのなかで、いろんなスケボーの技術を編み出していき、それを世界に広げていった。
対照的な三人の少年が出てきます。サーファーから分派したこの連中は基本的に全員〈世界〉と接触できる連中です。そうじゃないと「限界を超えて」サーフィンやボードができない。彼らは死を怖れる普通の人間にはできないことをやる。なぜか。「限界を超える」ことの快楽があるからです。まずトニーという少年。三人の中で最も優れたスケーターです。彼に注目してカネを出そうとする資本が群がります。ボードやウエアの広告に出ろ、雑誌の表紙に出ろ、という具合に。トニーはそれに迎合し、億万長者になります。対照的なのがジェイ。優秀なボーダーだったけど、資本への迎合を不純だとして一切拒絶します。スケボーに酔うのは〈世界〉の原理であって〈社会〉の原理じゃないと。でも最終的には食えなくてストリートギャングになっていく(笑)。
この二人を観察するスペイシー・ペラルタという少年がいます。彼はジェイとトニーの間で揺れる。最初はジェイのように拒絶するけど、途中からトニーのようにスポンサーシップを得て雑誌の表紙を飾る。そのペラルタが長じて、4年前『DOGTOWN & Z-BOYS』というドキュメンタリー映画を作り、今回は脚本を提供して『ロード・オブ・ドッグタウン』という劇映画ができました。両作品に共通して“〈世界〉に接触できる人間が〈社会〉で金持ちになったりウマク生きるために他人の操縦に憂き身をやつすのは、不純か”って問いがある。娯楽映画なんで、最後は“〈世界〉に接触するという共通体験を持つ仲間じゃないか”と、唐突にユニティ(統一性)が実現し、問いは答えられずに終わるわけです。
サーフィン映画で思い出すのが、ジェームズ・キャメロン監督の奥さんキャスリン・ビグローが監督した『ハートブルー』。サーフィン映画とギャング映画が雑ざったジャンル不明の作品です。キアヌ・リーブス演じるFBI捜査官と、『ゴースト』のパトリック・スウェイジ演じるギャングのボス。そのギャング・チームが普段はサーファー・チームなんです。二人とも天才的な運動神経があるけど対照的。片や〈世界〉との接触体験を豊富に持つパトリックにとっては〈世界〉こそ重要で〈社会〉はクソ。だから銀行強盗でもなんでもやる。キアヌはサーファー・チームに潜入することで、パトリックから次々と〈世界〉との接触体験を与えられ、職務を忘れてパトリックに心酔する。ところがどうしても〈社会〉を撤てられない。ジャック・マイヨールとエンツォ・マイヨルカの対照ですね。
古くなるけど、ワーグナーとニーチェの対照にも同じ図式が見られます。ワーグナーは、ナチスドイツの好んだ後期ロマン派を代表する音楽家。ドイツ民族の崇高なる精神共同体を引喩するような音楽を繰り返し作りました。ニーチェはワーグナーが嫌いでした。正確には、愛深きがゆえに憎しみも深し。ニーチェはワーグナーのロマン派的感受性に憧れた。でも同時にワーグナーの極端な俗物性が我慢できなかった。音楽家、特にオーケストレーションを実現する音楽家は、建築家と同じで、あらゆるリソースを動員しなきゃいけない。いろんな人に取り入り、いろんなところから金を集める。人を騙しながら手足のように使い、建築家だったら建物を建てるところをオペラを作るんです。
ニーチェはそれを「不純だ」と見なしたんですね。どうなんでしょう。〈世界〉に接触できる人が〈社会〉にまみれることは不純でしょうか。あるいは、より効果的に〈世界〉に接触するために〈社会〉的資源を狡猾に動員することは不純でしょうか。あるいは、ニーチェの如きプラトニズムが純粋なのでしょうか。初期ギリシア的なものをノイジーなものだとして終わらせたプラトン自身の評価にもつながる話です。僕の結論ははっきりしている。生半可な奴だけが「不純だ」として嫌うんです。
なぜ〈社会〉にまみれるのを嫌うか。むろん、そんなことで崩れる程度の〈世界〉との接触体験なのかというのもあるけど、もっと論理的な問題もある。〈社会〉なんかどうでもいいと言うのだったら、関わって関わらなくてもグライヒギュルティッヒ(等価)であるはず。それを不純だとかゴニョゴニョ言う時点で、逆に“なんで〈社会〉にそんなこだわってるの?”とかえって反問されてしまいます。ヨーロッパでは、プラトン以降のこうした主題に関する思考の伝統はかなり分厚い。そうした分厚い思考伝統に触れると、“〈世界〉に接触できる人が〈社会〉にまみれることは不純か”という、僕だけでなくいろんな人がつきあたる疑問に対する解答のパターンが、すでる示されていることが分かります。
日本は同じく旧枢軸国だけど、ドイツの人たちに比べると、日本の人たちは自分たちが何を感じ考えてきたのかという歴史に無自覚で、過去の失敗について反省が甘いから同じ失敗を繰り返す。ボン基本法と日本国憲法の国民的な扱いを見れば差は歴然としています。たとえばフランクフルト学派を見てみる。旧枢軸国にありがちな超越的志向。これをダメだというだけじゃ始まらない。全体性への志向を持ってしまった超越系の人はどうしたらいいか。危険な全体性の比較的安全な代替物として、アドルノならば「美学」を、ハーバーマスならば「理想的コミュニケーション状況」を持ち出します。
アドルノは「美学」に反するものとして近代に懐疑的で、ハーバーマスは「理想的状況」を実現するためのゲームのプラットフォームとして近代に肯定的だという違いがあるけど、問題意識は共通です。しかも近代において「美学」や「理想的状況」が不可能であることも先取りされている。つまり後期ロマン派を否定し、初期ロマン派に回帰しています。日本ではそうした問いがあったか。残念だけと皆無です。だから憲法9条のような具体物が崇高なものとして立ち現れるのです。それじゃ後期ロマン派と区別がつきません。こうした理路を突き詰めてきた者から見ると、日本の人は初歩的な錯覚に陥りやすいと言えます。
違った観点に繋げます。『ダ・ヴィンチ』連載で6年間〈世界〉と〈社会〉という対立図式を使ってきました。契機は97年の酒鬼薔薇事件で「脱社会的存在」という概念を使ったこと。〈社会〉にコミットする理由を持たない連中のことです。凶悪少年犯罪を取材すると、〈社会〉にコミットする理由を持たない連中が増えているのが分かります。〈社会〉にコミットしているか否かのメルクマールは、平気で人を殺せるかどうか。僕らが人を殺さないのは、殺してはいけない理由に納得するからじゃない。殺せないように育ったからです。だから殺そうと思っても殺せず、あるいは殺そうという選択肢を思いつかない。
これは道徳教育のおかげじゃありません。コミュニケーションにおける他者からの承認抜きに自分が自分であり得ないような成育環境に育ったからです。逆に「脱社会的存在」の増加は道徳教育の失敗じゃありません。コミュニケーションにおける他者からの承認抜きに自己形成を遂げ得るような成育環境が拡がったからです。そした成育環境が拡がれば、自動的に〈社会〉より〈世界〉が重要であるような若者たちが増えてくることになります。すると、「ダ・ヴィンチ」での連載のサブタイトルが「〈社会〉から〈世界〉へ」だから、素朴には僕が「脱社会化」を奨励しているように読めます。だからこそ「〈社会〉から〈世界〉へ」プラス「〈世界〉から〈社会〉へ」なのだと結論する前に、注釈があります。
論理的問題ですが「脱社会的」だからといって必ずしも〈社会〉に敵対するべき理由が与えられるわけじゃない。にもかかわらず現実には一部の「脱社会的存在」が敵対します。それはなぜか。「脱社会化」した存在は、〈社会〉にコミットしませんから、本当は何でもできます。天使にも悪魔にもなれます。でも現実問題として多くの「脱社会的存在」が、たとえ暫定的な理由であれ人を殺しません。めんどうくさいからか。それもあるでしょう。罰がつらいからか。それもあるでしょう。でも「殺せるけど、絶対に殺したくない」ということが重要じゃないかな。僕が「往相還相」というとき、それが頭にあります。僕自身やや「脱社会的」なのもあり、「人を殺しちゃいけない理由はない」と書いてきました。
田口 (省略)
宮台 殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか。これは解かれなければいけない問題です。〈世界〉の根源的未規定性を受け入れ可能にする機能をもつ「宗教的なるもの」の真髄に関わる問題でしょう。ちなみに宗教のオリジネーターの多くが「脱社会的存在」だったと思います。天使にも悪魔にもなれる存在だったと思います。にもかかわらず、というか、だからこそ、常人には想像を絶したエネルギーで、あえて〈社会〉的なものに関われたと思っています。問いの解決が、認識として与えられるか、問いを超えるという実践として与えられるかは別にして、宗教的な問題に関わることなので、どうしても映画や文学に素材を探す必要がありました。だから「ダ・ヴィンチ」の編集部に連載企画を持ち込んだのです。
連載ではすでに暫定的な答えに触れています。「奇蹟へと開かれた感受性」です。とはいえオカルトは関係ありません(笑)。レヴィ=ストロースが『野性の思考(原題:三色スミレ)』のなかに、三色スミレの花を見ていて構造の「ありそうもなさ」に貫かれるくだりがあります。キーワードは「ありそうもなさ」「奇蹟」です。彼は花に奇蹟を見たけど、人やその営みに奇蹟を見出す感受性が「脱社会的存在」を押しと留めるんじゃないか――そういう答案を書く映画や小説がいくつかあります。僕は完全にそれだけが正答だとは思いませんが、有力な解答の一つかなと。
よく言う話だけど、一〇〇の偶然、一〇〇〇の偶然が重なって、僕が今ここにいる。不思議ですよね。1億匹の精子の中から、なぜその精子が選ばれて、僕として生まれたのかという問題もあります。生まれてからも、事故や事件を含めて、なんどか首の皮一枚でつながってきたという問題もあります。〈世界〉と〈社会〉を暫定的に区別しても、〈社会〉の中に〈世界〉を見ることもできます。あるいは〈社会〉を〈世界〉として――レヴィ=ストロース的まなざしで――眺めることもできます。
ちなみに最古の社会では、ありとあらゆるものがコミュニケーションの対象たり得たので、〈世界〉は〈社会〉でした。この段階では「天と地(と地獄)」という垂直的観念はありません。それが、社会システムが複雑になるに伴い、〈社会〉の外に〈世界〉が拡がるという感受性が一般的になる。それとともに垂直的観念が出てきました。天空の星座が奇蹟であるように(マクロコスモスと言います)、僕らが営む社会のも奇蹟だ(ミクロコスモスと言います)という発想です。それとともに呪術とは区別された占星術が出て来る。そうした発想によって、レヴィ=ストロース的まなざしへの可能性が開かれたのでしょう。
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