◆田口ランディ×宮台真司◆2005/10/19 宮台発言のごく一部を抜粋
宮台 田口さん原作で中原俊監督の『コンセント』のプロモーションで、2002年に対談したんでしたよね。主人公が、体験を意味づけようとする〈社会〉の営みから自由になることで自己回復を遂げるというモチーフに感動したことをお話ししました。実は、僕も似たような「〈社会〉から〈世界〉へ」というモチーフで『サイファ 覚醒せよ』という本を2000年に出していたのですね。近しいものを感じました。
田口 (略)
宮台 今回の対談のテーマ「生と死」です。喋るべきことがありすぎて困ります(笑)。どこからしゃべればいいでしょう。まず当たり障りのないところからお話しします。部族段階の古い社会――社会学では「原初的社会」と言いますけど――では必ず「ハレとケとケガレ」の三項図式があります。
ケガレのケとは「ハレとケ」のケと同じ。「気」の字が当たります。精気、つまりアニマです。ケが日常生活を支えているのだけど、放っておくとケはだんだん枯れてくる。これが普遍的原理なのは、たぶん生理学的問題だからじゃないかと思います。要は、同じ刺激を反復しているとやがて刺激じゃなくなる。ウェーバー・フェヒナーの法則ですね。日常生活も同じで、ただ繰り返しているだけでは頽落してしまうんですね。
ケ(気)が枯れた状態(ケガレ)を元に戻すために、ハレがあります。ハレとは「日常じゃなくて非日常」ということ。もっと言えば「部分性へと頽落していたところに忘れていた全体性を取り戻す」ということ。僕の言葉で言えば「〈社会〉から〈世界〉へ」。そうした回路を通じて、ケが戻る、つまり精気に満ちた日常が回復されるんです。
僕たちは「ケ→ケガレ→ハレ→ケ→……」というサーキュレーションを何万年も何十万年もやってきています。だから、このサーキュレーションが僕たちに刻みこまれています。その証拠に、「日常から離陸し、非日常のカオスを経験した後、日常に着陸する」ことで「以前と違った仕方で日常を感じ取れるようになる」というイニシエーション(通過儀礼)図式が、映画や小説や漫画を今も覆い尽くすんですね。
僕自身も個人的にそれを知恵として利用しています。まあ、海に潜ったあとに日常に戻ってくることに関係するんですけどね。四年前にジャック・マイヨールが自殺しちゃったでしょう。彼は自殺する直前に与那国島で四〇回近く潜っているんですよね。彼はもともと上海はフランス租界の生まれで、歳はうちのお袋よりも年長です。実はうちのお袋もフランス租界生まれで、SF作家のJ・G・バラードの家の近所に住んでいました。後に帝大教授になる祖父が、当時の上海自然科学研究所に勤務していたからです。
田口 (略)
宮台 バラード、マイヨール、なぜかお袋。奇妙な縁です(笑)。そんなこともあって、マイヨールには昔から興味があったんですよ。マイヨールがなんで死んだのかなって思ってたところ、彼のお兄さんが最近『ジャック・マイヨール、イルカと海へ還る』という本を出したんです。原書で読んだけど、日本語になっているかな。これを読んで、いろいろ感じたことがあったんですね。それをまず糸口にすればいいのかなという気がします。
ジャック・マイヨールはもともとは冒険的放浪からスタートしています。最初はスウェーデンとかラップランドとか「北」から始まってるんですよ。北極圏の寒い地域を十代後半から二十代前後まで放浪して、それからだんだん「南」に行くんですね。その経緯はいろいろ書いてあるんですが、「北から南へ」という推移に僕はたいへん興味を引かれます。犯罪を犯したときに「北」に逃げるか「南」に逃げるかで人格を分類できると言われますが、マイヨールは「北」に逃げる人から「南」に逃げる人へと変わっていったんですね。
読者の人たちが一番よく知ってるのは、リュック・ベッソン監督『グラン・ブルー』という映画で描かれたジャック・マイヨールとエンツォ・マイヨルカというライバルとの競争ですよね。映画ではエンツォ・モリナリとなっていましたね。エンツォ・マイヨルカの許可をとらないで人物像を造形したから、そうなんたんですね。結論からいうと、この二人の対比が、死について考えるとき、僕が最初に思い浮かべることなんです。
ジャック・マイヨールって、ご存じでしょうが、晩年にhomo delphinus(イルカ人間)という概念を口にするようになりました。それになることが自分の目標だと言ってたんですよ。彼によれば、イルカは、人間と同じように知的で、人間と同じように豊かな感情がある。でも「人間は欠けている」のに、「イルカは欠けていない」んですね。僕の言葉でいえば、イルカは〈世界〉と絶えず接触している。〈世界〉からの訪れに開かれています。
なのに、人間は〈世界〉からの訪れにだんだん閉ざされ、頽落していく。その「欠けたところ」を埋め合わせるために、あれこれクダラナイ身過ぎ世過ぎに身をやつす。つまり〈世界〉から切り離されて専ら〈社会〉を生きるようになる。でも、人間はもともとイルカ人間と同じように〈世界〉と接触していたはず。だから自分も訓練すれば太古の身体的力能を回復できて、知的で感情的でありながら〈世界〉と一体化できるはずだという確信があった。それを確かめるためにマイヨールは晩年ずっとイルカと接触してたんですよね。
マイヨールは、世界中の最も風光明媚な場所に四つの別荘を持っていました。クラーク・ゲーブルに似ていたので世界中に女がいました。日本語も含めて十数カ国の言葉をしゃべりました。マイヨールが記録を作る以前は無呼吸潜水記録は60数メートルでしたが、マイヨールはこれを106メートルまで伸ばしました。この記録伸長はエンツォ・マイヨルカとの競争で達成したんですね。エンツォは確か102メートルまでの記録をもちます。
イルカ人間という存在を生理学的に説明できるとマイヨールは考えていました。具体的には、水深60メートル以下になると水圧で肺が潰れ、肺の酸素が血液を通じて脳にまわる。そうすると過酸素ゆえにトリップ状態になるのだというのです。溺死する寸前に脳内のエンドルフィンが充溢して恍惚状態が得られるのと似ていますね。それを彼は実験で確かめたんですよ。マイヨール自身が実験台になり、水深60メートル以下になると横隔膜が上にあがって肺が潰れ、血液が脳に還流して至福体験が得られることを証明したのです。
マイヨールは〈世界〉と接触する至福体験を知っていました。そのマイヨールが、死ぬ少し前ぐらいから、自分はもう死ぬしかないと言い出すのです。お兄さんとは比較的近しい関係だったんだけど、お兄さんに自殺念慮を繰り返し口にするようになります。お兄さんが家を訪ねると、弟マイヨールが「この世に楽園がないことを悟った人間は生きていても仕方ない」という話をするんですね。お兄さんは「なにを言うかジャック。おまえが誰よりも楽園に近いことは皆が知っている。誰もがおまえが一番イルカに近い人間だと認めている。なのに、なぜそんなことを言うんだ」と。マイヨールは答えずに、死んでしまう。
どんなことが起ったと思われますか。田口ランディさんならお分かりだと思うんですね。謎をとくヒントは、彼のライバルだったエンツォ・マイヨルカです。マイヨルカはイタリアのシチリア島で伝統的に素潜りをしてきた家系に属します。マイヨールが記録を作るまではマイヨルカの天下でした。マイヨルカも、マイヨールと同じく〈世界〉と接触して生きてきた男です。深海60メートル以下に潜行したときの酩酊体験もよく知っている。ところが、マイヨールと決定的に違うところが一点あるのです。
エンツォ・マイヨルカは、血族主義の伝統が非常に強いシチリアの名門家系の家長です。深海で〈世界〉と接触する体験は、自分たち血族がより幸せに生きるためのメソッドへと体験加工されるんですね。彼の親戚のおじさんたちもみな記録を持っています。彼の血族は、みな深海に潜って酩酊しながらも、必ず血族というホームベースに戻ってくるんですね。〈社会〉に戻って血族の大切さを確かめるための〈世界〉接触だったわけです。ジャック・マイヨールには〈世界〉に接触した後に戻るべきホームベースがありませんでした。
仏教には往相と還相という二項図式がありますよね。〈社会〉から離脱してニルヴァーナで〈世界〉と接触した者が――マイヨール的に言えばイルカ人間になった者が――しかし再び不完全な人間世界つまり〈社会〉に戻ってくる理由が、果たしてあるのかどうか。衆生救済のために「仏」の位を降りて菩薩となった阿弥陀如来をめぐる謎も、関係してきますね。すなわち、ニルヴァーナで〈世界〉と接触して生きられる人間が、しかし何が悲しゅうて、衆生を救おうとして〈社会〉に戻ってくるんだろうか。そういうことです。
〈世界〉に絶えず接触できる人間は、そのことだけ見る限り、とりたてて〈社会〉で生きる必要はないはず。〈社会〉を生きることは、知的だったり感情的だったりしながら人間関係の中に自分を位置づけ、自分を確かめ、自分を実現しようともがくこと。仏教の煩悩概念ならずとも初期ギリシア哲学を含めてさまざま議論されてきたけと、〈社会〉を生きるとは「欠落を埋め合わせるために前に進む」こと。我々を苛立たせる不完全さや欠落感に満ちています。〈世界〉を生きられるなら〈社会〉に戻らず〈世界〉に居続けるほうが至福です。至福体験のなだらかな延長線上に死があるなら、死こそニルヴァーナかもしれない。殺人を含めて死を忌避する理由はないはずです。
とりたてて〈社会〉から離脱すべき理由がないとしても、わざわざ〈社会〉を生きるべき理由もない。とりたてて死ぬ理由がなくても、わざわざ生きるべき理由もない。とりたてて殺す理由がなくても、わざわざ生かす理由もない。そういう境地はとてもリアルです。チベットの密教思想を含めて、確かにこうした思考は危険です。でもそうした境地のリアルさを徹底して理解しない者は、問題の危険に対処できないでしょう。「いや、それでも生きる、それでも生かす」というためには、往相還相問題という謎を解く必要があります。
先ほどランディさんが3年前に僕に投げかけてくれた問い――自分と同じ「精神世界系」の人だとお見受けするのにどうしてそこまで社会問題にコミットするのか――に答えることは、この謎を解くことに関係します。でも、どうでしょう。ランディさんも僕も、「気がつくと」戻って来ているじゃないですか。そこには決断主義的なプロセスは必ずしもありません。つまり「謎は少しも答えられていないのに、謎は常に既に超えられている」んですね。もちろんこれは「自分には明確な答えがない」と言って逃げてるのに近いことです。
復習すると、僕にとって「なぜ生きるのか」という問いは、ありとあらゆる全体を〈世界〉をと呼び、あり得るコミュニケーションの総体を〈社会〉と呼ぶ場合、〈世界〉と一体化するという体験を知った人間が、一部はマイヨールのように〈社会〉に戻ることができないのに、一部はマイヨルカのように〈社会〉に戻ることができるのはなぜかという問いと同じです。〈社会〉に戻るということの中には、敢えて死なないこと、敢えて殺さないこと、敢えて他人や自分の死を回避しようとすることが、含まれています。
この問いは、思考の歴史を振り返れば、プラトン以降の形而上学=メタ万物学よりも、ずっと普遍的であることが分かります。僕は、〈世界〉の根源的未規定性を受け入れ可能な形に意味加工する機能的装置を「宗教」と呼びますが、宗教が向き合ってきた根源的未規定性の中核には、この種の往相還相問題が横たわっていると思います。端的に「謎を超える」のではなく、認識として「謎に答えを出す」ことができるのか。ゴータマ・シッタルダさんのような方は認識として「謎に答えを出す」ことができたようですが(笑)、しかし「答えを伝える」ことができないから、「悟り」という概念としてパッケージされたわけです。
さっきのマイヨール&マイヨルカ問題に戻れば、『グラン・ブルー』では、〈世界〉に接触できる聖人マイヨールと、〈世界〉に接触できない俗物マイヨルカ(モリナリ)という対比で、マイヨールのステージが高かったように描かれます。でもマイヨールのお兄さんが書いた本では、逆に、往相還相問題を「克服」している点で、マイヨールよりもマイヨルカのステージの方が高かったように描かれます。オウム真理教の松本智津男や、オウムの教義をつくりあげた中沢新一を見ると、前者の図式を賞揚しているようにも見えます。でも「だったらテメエが真っ先に死ね」という話で終わりです。ここにペテンがあります。
【以下つづく(6倍の分量があります)】
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