宮台発言を一部抜粋します。
ソーシャル・デザイン問題の、重要な応用編です。
宮台◇ 松尾刑事局長の時代に、検察は金融庁と共に、事前規制から事後規制へとステアリングを切りました。裁量行政による許認可や行政指導でなく、法的ルールを定めて違反者を取り締まる方向で、検察の役割が拡大します。例えば、個別に列挙された要件に該当しない限り処罰されない個別規定から、一般的定義に合致するか否かを検察が随時裁量する包括規定への変化などです。でも米国の要求に応じて市場を開いた以上仕方ありません。許認可行政が縮小した上、外資プレイヤーは大蔵省の行政指導に従わないからです。
宮台◇ 僕も’99年の盗聴法案上程の頃から、国家権力の横暴ばかり口にする左翼に抗い、国家権力の構造的シフトを喧伝しました。大蔵から検察へのシフトです。村山治さんがお挙げになった事件もありますが、枢要な権力源泉がカネから情報にシフトし、かつグローバル化が進んだという構造変化が大きい。
情報化とグローバル化が重なると流動性が高まり、低流動性を前提とした護送船団方式が無理になります。国内外から公正な競争への要求が高まり、抗えなくなります。検察はこの流れを察知し、大蔵を大将とするムラ社会を放置したら国民全員が乗る船が沈むという感触を、世紀末までに持ったのだと思います。
宮台◇ 実刑は厳しすぎるという世論も頷けます。時間外取引規制など経済的プレイヤーらが法に適応する暇もないまま枠組が急変しました。彼らには梯子を急に外された感覚があるでしょう。もっと時間をかけるべきでした。でもそれをサボった以上、枠組急変も仕方ない。
判決は明らかに一罰百戒を狙っています。それも仕方ない。刑事罰には違背抑止機能や感情的回復機能と並び、社会的意思表明の機能がありますが、意思表明の主体である社会とは必ずしも世論のことじゃない。統治権力が民衆の要求に媚びれば、民衆を支えるプラットフォームが壊れるからです。その点、公共性を踏まえた社会の意思を検察が示す側面が重要です。ところがしばしば「法の下の平等」と「社会的意思の表明機能」とがバッティングする。今回後者を重視した検察はレジーム変化を高らかに宣言したのです。
大蔵省は社会の絵を描けなくなりました。ここから先は誰が絵を描くか。米国的発想に従えば絵を描く人間は行政に要りません。それが事後規制ということです。各プレイヤーが自由に振舞った結果出来上がる自生秩序こそが公共的だとし、自生性の「見えざる手」を機能させるプラットフォームを維持するのが、米国的発想です。欧州的発想は違います。
宮台◇ 社会学は制度の非制度的バックボーンを考える学問です。民主制も資本制も単独では回りません。政治や経済が回ることと社会が回ることとが両立するためのバックボーン的リソースが必要です。ところが日本には米国のような宗教的リソースもなく、欧州のような階級的リソースや地域共同体的リソースもない。
そこでバックボーンをリコンストラクトする際、米国的な高流動性の下での「ルール&強権」でいくか。欧州的な低流動性の下での「暗黙的前提&信頼醸成」でいくか。ちなみに米国は高流動性がもたらす不安を、強力な宗教性で吸収します。日本にはこうした宗教性がないので、感情的安全を担保するには、欧州のような低流動性を前提としたメカニズムが必要です。
宮台◇ ただし米国の場合、包括規定が要求する共謀罪に象徴される強権は、リボルビングドアのメカニズムがあるからこそ信頼されます。大統領も指定職の行政官も、過去にきちんとした仕事をしたかを政権交代後の後任者にチェックされるからです。日本は政権交代がないまま流動性の低い政治体制が続いています。この状況で共謀罪に象徴される強権が行政に与えられても信頼できません。権力は頂点で腐敗します。
宮台◇ (1)米国のケツをなめて高流動性を呼び込むなら、(2)ルール&強権で行くしかなく、(3)それには濫用防止のための政権交代が必要ですから、(4)与野党の政策が良いか悪いかに関係なく頻繁に政権交代を要求する国民になる必要があります。
宮台◇ 社会学には順法の重要性に条件をつける思想があります。マックス・ウェーバーは市民倫理と政治倫理を区別し、法律を守ることは市民倫理だが、法律を守ることに意味があるような社会を守るべく時に応じて脱法するのが結果責任としての政治倫理だとしました。これを踏まえたカール・シュミットは、憲法制定権力が憲法の中にないことを根拠に非常大権を許容しました。
限界状況下での政治の超法規性を肯定するこうした議論が公安思想のベースです。その意味で、州警察と連邦警察を分けて連邦警察により公安的要素を負わせる米国の枠組は間違っていません。同様に、警察が市民に近い視座から法の下の平等を踏まえて捜査をし、検察は統治に寄った視座から社会存続に必要なことをやる。そうした役割分担の思想で特捜を正当化できます。
宮台◇ 法的正義の視座から言えば、検察が組織温存のために恣意的捜査をするのは許されません。他方、社会存続を図る統治の視座からすると、レジームチェンジの狭間にあって従来的ムラ社会の大ボスを退場させて新たなステージの幕開けを宣言しようとする検察が権威を失うのは問題です。
検察の調活費を巡る違法な幕引きはそうした両義性を孕みます。公共の利益のための脱法を許容するウェーバーの政治責任論は、なるほどと思えると同時に、それが本当に公共の利益になると誰が言えるんだという問題があるのです。特にレジームを変えてしまった場合には公共の枠組も変わるので、手前味噌の嫌疑が生じます。
宮台◇ 検察官としては国策についてそれ[社会の意思だと自称する]以外の議論の仕方はありません。そうした自称国策が妥当だったか否かは実際これだけのことをやってきたという事実性で示すしかない。そこに神保さんは危うさを感じます。僕も感じます。裁量が恣意性に陥っていないことをどうやって弁証するか。弁証には、国民的納得を目指したコミュニケーションが必要です。だから村山治さんの本が出るのは極めて重要です。
先ほど村山さんが「今のレジームではこうするしかないけど、これでずっとやっていけるのか」という思いが五味さんや松尾さんにあるとおっしゃったのが印象的です。一部の優秀なエリートには「堀江氏に対する判決が重すぎるという日本的反応を踏まえた日本的フォーマットがあるのではないか、バックボーンが異なる日本では米国のフォーマットがマッチしないんじゃないか」という感覚があるということです。
宮台◇ とはいえ、彼らの良心だけを頼るようでは近代社会とは言えません。社会が上手く回ることを制度の中で担保しなければいけません。「制度が出鱈目でも人がちゃんとしていればいい」では、人がちゃんとしていなかった場合、メチャクチャになるからです。