ずいぶん前ですが押井守『パトレーバー』についてのインタビューに応じました
―― まず『パトレイバー』との出会いからお聞かせください。
宮台 劇場版一作目が最初です。僕は85年からテレクラやナンパにはまってサブカルチャー方面から一度離れています。僕は1959年生まれで、僕ら世代は「新人類世代」と呼ばれるけど、「SF世代」であっても「アニメ世代」じゃない。僕も「アニメマニア」じゃない。僕の世代でアニメにはまったのは、地方の中学高校にいた人の一部や、弟とか年少者とコミュニケーションがある人だけでしょう。僕も「新人類世代」のご多分にもれず「アニメマニア」じゃなかった。それが、87年に東大助手になって学生と付き合いが始まり、学生で勧められて『パトレイバー』の劇場版、そしてOVA版を観るようになりました。
―― では劇場版からご覧になられていかがでしたか?
宮台 よく出来ていました。「東京ノスタルジー」のモチーフに感動しました。現在まで続くノスタルジーブームの嚆矢ですね。実はこれとシンクロしていたのがゲーセンでした。
僕は3歳からアーケードゲームを始めたゲーマーで、ゲーム業界誌に文章を寄せたりしていました。それで85年の『ハングオン』や『スペースハリアー』に始まる体感ゲームにハマる。どこのゲーセンでもランキング1位だったので、僕がゲームをやっているといつもギャラリーが集まりました。ところが『ギャラクシーフォース』が出る88年からギャラリーが激減します。ゲーム業界誌にも書いたけど、ゲームが高度化して、見ていて何をやっているのか分からなくなったからです。かくしてゲーセンはオタクの巣窟になった。しかも当時は家庭用ゲーム機の普及でゲーセンにかげりが出ていた。そこで僕は、見ていて何をしているのか分かるゲーム、カップルのネタになるゲームが必要だと書き、セガの開発部長さんにもそういう話をしました。するとセガからUFOキャッチャーが出てきます。ワンダーエッグやナンジャタウンも出来ます。懐かしきローテクゲームの、ブームです。
僕の記憶では、ゲーセンの動きとシンクロして『パトレイバー』劇場版が出てきました。それで僕は「ノスタルジーの時代が始まった」と思ったのを覚えている。それから10年近くして下北沢に30年代ショップが林立し、お台場一丁目商店街が出来ますが、そうした長く続くブームの先駆けが『パトレイバー』劇場版です。80年代末のバブル絶頂期の話です。
―― しかし劇場版は押井色が強いじゃないですか。
宮台 押井アニメそのものだと言っていい。
―― ノスタルジーを感じさせる部分も実際には押井色ではないかとも思うんですが?
宮台 そこは『ビューティフル・ドリーマー』の反復です。原作の基本モチーフは踏襲した押井的エクステンデッド・バージョンです。OVA版を見ると、押井さんがなぜ関心を持ったのか分かります。『サブカルチャー神話解体』(93年)でも書いた通り、「陳腐な小世界」の終わりなき日常を、「SF的な大世界」の中で描くことに執ったからです。最初は大友克洋さんが『気分はもう戦争』(80年)や『童夢』(83年)で始めたモチーフです。「戦争が起ころうが超能力決戦が起きようが、陳腐な日常が永久に続く」と。まさに「80年代的意味論」「バブル時代の意味論」です。これがOVA版にも色濃いのです。
OVA版は「ハイテク寄り」ではない。昔で言う「ハードSF」じゃありません。「ファンタジーSF」でもありません。むしろ「SF的な大状況の中で日常的感受性がどう変わるか変わらないか」という問題設定は「ニューウェイブSF」だと言えます。映画版は押井色が強いけれど、OVA版の段階から「大世界の中の陳腐な小世界」という「80年代的意味論」があります。劇場版は「80年代的意味論」を、より自覚的に展開したものです。
―― その押井色が色濃く出ているポイントと言うのは、まさに今おっしゃられた「大きなものと小さなモノの対比」であるとか、ようは世界観的なものであるとか、人間模様であるとか……?
宮台 人間模様は押井さんは得意じゃありません。だから人間模様が印象に残ることはありません。よく出来ていると思った第一点は、「日常のつまらなさ」の感覚がよく出ていたこと。「大世界の中の陳腐な小世界」のスペシャルケースである「廃墟の中の陳腐な日常」のモチーフにおいて、それが際立っています。ところがこれも押井オリジナルじゃない。80年代半ばに流行ったヘビメタのプロモーションビデオはこのモチーフの反復だらけ。「背景が廃墟化し、荒廃しているほど、陳腐な小世界が輝く」というゲシュタルト(図地構造)ですね。これは「日常はつまらない」という感覚を前提とします。
―― 荒廃した大世界と小世界ですか?
宮台 「ニューウェイブSF」の泰斗バラードに『結晶世界』に代表される終末三部作があります。そこで初めて「背景が廃墟化しているほど、陳腐な小世界が輝く」という逆説が主題化されます。ところが「大世界の中の陳腐な日常」とりわけ「廃墟を背景にした陳腐な日常」のモチーフは、ノスタルジーと相性がいい。「終わりなき日常」という「80年代的意味論」は、大世界が波瀾万丈だった昭和を回顧する「ノスタルジーの意味論」とマッチングがいい。このマッチングを発見したところがよく出来ていると思った第二点です。
よく出来ていると思った第三点が、死んだ人間が世界を設計したというモチーフ。加えて、死んだ人間が生前ショボイ男だったというモチーフです。あとでいろんな映画にパクられましたがね。現実のプロセスを陰謀史観的に見るのは陳腐ですが、陰謀を立てた人間が死んでいるのでコミュニケーションできず、そいつが敵であれ味方であれショボイ奴だったというのは、「二重の梯子外し」です。この膝の力が抜けるような脱力感が、いい。
―― なるほど。
宮台 「廃墟の中の陳腐な日常」の意味論と「東京ノスタルジー」の意味論と「世界の設計者はショボイ田吾作」の意味論のミックスに興奮しました。「凄いものを見たなあ」と。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
―― それまでのロボットアニメというのは異世界だったり、遠い未来だったりしたような気がするんですが、この『パトレイバー』では実際の東京の地名とか出てきたりして、この現実世界と地続きの感覚があったように思うんですが、そうした日常的な感覚を持たせたあたりについて、どう思われましたか?
宮台 僕もSFマニアだったので、「昨今のSFに対する僕と同じ不満を抱えているな」と思いました。具体的に言うと、僕は77年頃のSFの変質が不満でした。『サブカルチャー神話解体』で「SF同好会からアニメ同好会へ」と書いた変質です。71年に中学入学なので高校3年生頃ですが、SF同好会が次々にアニメ同好会に姿を変えます。直接の契機はTV版(75年)から映画版(77年)に続く『宇宙戦艦ヤマト』のブーム、あるいは『銀河鉄道999』や『キャプテンハーロック』など松本零士のブームです。SF同好会の新入生にヤマト好きや松本零士好きが増えたんです。これには参りました。僕ら「新人類世代」、とりわけ1960年以前に生まれた僕の言う「原新人類世代」からは、想像もつかないSFイメージを持つ連中が、僕らよりも2学年下から出てきたのですからね。僕ら世代にとって、ハードSFだろうがファンタジーSFだろうがSFは社会批評だったんですね。
―― 社会批評ですか?
宮台 そう。SFは未来が舞台です。でも未来への関心が中心ではない。現実社会が持つ様々な問題の萌芽が育ったものとして未来を見る。ある萌芽が育つとあんな未来、この萌芽が育つとこんな未来。関心の焦点は萌芽を内蔵する現在の社会なのです。萌芽が、自己増殖的な科学技術にあるのか、エゴイスティックな人間存在にあるのか、科学技術的風景が変える人間の感受性にあるのかで、ハードSFかファンタジーSFかニューウェイブSFが分かれるわけです。
ところが70年代半ば、マイケル・ムーアコックが同級生に流行ります。従来の分類だとファンタジーSFですが、社会批判のニュアンスは皆無。『銀河鉄道999』の星野哲郎とメーテルの関係みたいなマザコン的幻想が延々描かれる。「旅する男」と「母なる女」みたいな(笑)。ムーアコック作品の挿絵とカバー画を松本零士さんが描いていた。つまり松本零士さんの元ネタだったんです。こうした作品をSFだと思う連中が出てきたのがショックでした。今じゃ当たり前ですがね。社会批評ではなく、ご都合主義的ロマン主義。批判ではなく、願望の投射。これがSFかと。だからヤマトブームに批判的になりました。
―― それは、ご都合主義的なモノの集大成というか、それが行き過ぎた部分気に入らなかった?
宮台 気に入らなかった。実際「旅する男」も「母なる女」も団塊世代が享受した1960年代の意味論の残りカスです。たがら僕の同世代や上世代で反発した人がたくさんいます。僕より上だけど高橋留美子さんもそうした一人です。だから彼女は「小世界もの」「小世界に閉じた異世界もの」を描きました。そうした流れがなければ富野由悠季さんの『ガンダム』もありません。宇宙戦記を描くにせよ、「旅する男」と「母なる女」が出てくる「大世界を舞台にしたサブライム(崇高)」な話じゃチープすぎる。それより今の若い人は人間関係に悩んでいて、それは未来でも変わらないだろう。ということで、ああした作品が出てきた。自分が自分であり続けるとはどういうことか。なぜ命令に従わなければならないか。うんぬん。
こうした「小世界」を見直す動きの中で、富野さんが真面目に「小世界」に向き合うのに対し、斜に構えた脱力系として出てきたのが「大世界の中の陳腐な日常」を描く大友さんや押井さん。中間に位置するのが『マクロス』です。僕は「小世界の見直し」はいい方向だと思いました。実際『ガンダム』『マクロス』『ボトムズ』など豊かな作品が生まれた。ただこれらはやがて通俗化する。例えば『マクロス』に描かれたオタク的な妄想です。
―― (笑)。
宮台 「密室に大好きな子と閉じ込められたら…」というオタク男が一度は抱く妄想ですが、SFとは関係ない。それが僕ら世代の感受性です。それで映画版『パトレイバー』を観て膝を叩きました。高橋留美子さんによるレジスタンスを継承する形で富野さんが『ガンダム』で蒔いた芽を、オタク妄想的な通俗化に抗って生産的に継承したのが押井守さんだと。SFが通俗ロマンになる流れに抗おうとする動きが出てきたのに、抗いもまた通俗化していくという流れの中で、再び抗う動きが出てきた。その意味で正統派SFの「社会批評」の流れを汲むと同時に、大世界に対しても小世界に対しても再帰的に関わる「ニューウェーブSF」──J.G.バラードとかブライアン・オールディス──の流れも汲みます。「SFに対する僕と同じ不満を抱いているな」というのはそういうことです。
―― なるほど。
宮台 僕はオタク第一世代です。新人類的要素とオタク的要素が混在する「原新人類=原オタク」世代です。中学高校紛争に関わりながら、ナンパに繰り出す一方で、SF同好会に関わり、宮崎駿さんや大塚康夫さんが関わった『太陽の王子ホルスの冒険』上映会兼セル画展示会をやる、みたいな。目立ちたい奴がナンパ文化の萌芽とオタク文化の萌芽を両方ふりまいたんです。そんな中、いかにもイケてない下の世代の奴らがマイケル・ムーアコックや松本零士がSFだと思い始める。腹立たしかったです。僕にはそういう世代的感受性があるので、押井さんは僕より少し上だけど、「よくぞ流れを食い止めてくれた」と。
—— 押井さんの作品に惹きつけられたのは、この『パトレイバー』が最初だったんですか?
宮台 『天使のたまご』が最初です。『天使のたまご』から遡って『ビューティフル・ドリーマー』を観た。中身はほとんど同じでしたが(笑)。『天使のたまご』は正直「よくこんなの撮らしてもらえたな」と思いました。後にヘーゲルやコジェーブを借りて「歴史が終わった」という紋切型が流行りますが、その前に作られたのだから、先見の明がある。「既に歴史は終わった。永遠に続く日常を生きるしかない」という感覚を先取りしていました。当時ニューアカデミズムが流行っていましたが、「歴史が終わった以上は戯れしかない」というコジェーブ的メッセージを噛み砕いて提示したのは、浅田彰ではなく押井さんだったんですね。「歴史が終わった以上、ミサイルが飛ぼうが原爆が落ちようが戯れるしかない」と。この反道徳的メッセージは僕ら世代には近しい。同世代性を感じます。
—— 同時代性ですか?
宮台 但し書をつけると、下世代にも「もう歴史は終わった」という感覚はあります。でも僕ら世代が感じるリグレットがない。痛みがない。「歴史は終わったんだよ」という言明にさほど感慨を感じない。僕ら世代は違います。「歴史の終わり」が気に食わないんです。歴史なんて終わって欲しくなかった。押井さんは60年代末の学園闘争について「いよいよ俺たちの番だと張り切っていたら終ってしまった、祭りの後をどう生きるかが自分たちの課題だった」と語っていました。「切望していた祭りはもうない。さてどう生きるか」という断念と開き直りが、同世代的感覚だったし、社会批評としても正しい方向でした。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
—— SFファンとアニメファンというのが乖離していくという状況があって……。
宮台 僕ら「原新人類世代」と2学年下の「後期新人類世代」の間で、乖離していきます。
—— それがいつの間にか、渾然一体となってしまった?
宮台 アニメファンが優位になって、SFファンが吸収されたんです。
—— その辺りについて、『パトレイバー』以降、押井さんも『攻殻機動隊』以降、色んな作品で様々な要素が渾然一体となっていくと思うんですが、宮台さん自身としては押井さんが好きであるのか、彼の作るアニメーションに惹かれていたのか……?
宮台 押井さんという名前に執りがあるわけも、押井さんのアニメに執りがあるわけでもありません。僕らの社会学業界では「関係の結節点」という言い方があるけど、世代的な痛みが時代的に刻印されています。「祭りの後をどう生きるか」という世代的な痛みを刻印されたので、シンクロしてしまいます。ミメーシス(感染的摸倣)が起こるのですね。
僕は92年から雑誌『アクロス』で『サブカルチャー神話解体』という連載を始めました。それで漫画や映画やアニメを読み直したり観直したりし、いろんな表現者のインタビューをしたんです。つくづく思ったのは、自分の好みと時代的な意義とが、ここまで食い違うのかということです。僕個人の好みの問題じゃない。誰の好みでも同じです。だから連載では好き嫌いを脇に置き、表現としての価値や、社会現象として価値だけを記述しました。
—— はい。
宮台 連載の視座から言うと、押井守作品は個人的には好きな方だけど、初期の押井作品に特別な作家性があるとは思いません。むろん同時代の作品に比べれば作家的ですよ。物議を醸してお蔵入り寸前だった『天使のたまご』が一番作家性が強いけど、『天使のたまご』には『惑星ソラリス』のパクリが重要なポイントごとにあります。モチーフもそう。モチーフには矢作俊彦や大友克洋の影響も強い。その意味でまさに「時代の申し子」です。
初期の押井作品には時代性があっても、騒ぐほどのオリジナリティはありません。後期の押井作品になると違います。不人気だった『イノセンス』の、“チャイニーズゴシック”が典型ですが、その前の『攻殻機動隊』あるいは『パトレーバー2』あたりから作家性が際立ってきます。アニメのもつメディア性、メディアとしての物質性を自覚するんですね。
—— というのは?
宮台 絵は現実よりも精細度が劣ると考えられがちです。ハイファイに対してローファイ。本物に対してまがい物。完璧に対して欠陥。ところがCG技術の発達でそうも言えなくなった。現実よりも遥かにハイファイな表現さえ可能になります。実写なら光学的につぶれちゃう部分まで人工絵で描き込めるとかね。それを「ハイパーリアルな細密画」と言ってもいいけど、そういうアニメの特性や可能性を完全に自覚し、そことに押井さん独特のメッセージを載せるようになります。簡単に言えば「ヒトよりもモノの方が素晴らしい」と。
—— アニメーションの特質。それも最近の技術が追いついてきたアニメーションの特性というものを認識されてから、押井さんの作家性が開花してきたというんでしょうか。一方で押井さんは実写を撮りたいという思考が強いんですよね。その辺りについてはどうなんですか?
宮台 残念です(笑)。今でもそう思っているかどうか知らないけど、僕は映画批評をやってきた立場から反対します。十年以上前に宮崎駿さんと話したのですが、面白い内容だったんです。彼は生粋の天才アニメーター。だからアニメーターにしか表現できない世界に自覚的です。彼は「実写では描けない過激な飛行視線や風をアニメーションなら描ける」と言うんです。牧草地を低空でグライディングすれば風にあおられて草がなびくとか。現在ではCGで追いつけるようになったけど、そういうフィルム効果ならざるアニメ効果を活かすために物語を考えるという順序です。現に宮崎さんはエコロジストでも何でもない。
あと、実写と違い、表情が単純な平面絵だからこそ感情移入できるのが、アニメだと。言い換えれば、感情を自由に読み込める。だからアニメなのに顔に影やシワを描き込むリアリズムに宮崎さんは反対する。こうしたアニメ効果、すなわちメディアとしての物質性をとことん使い尽くしながら、その物質性に相応しいメッセージを載せる。アニメーターはこうでなくちゃいけない。
—— 作品の評価は分かれるかもしれませんが、アニメーターとしての宮崎さんはやはりすごいですよね。
宮台 押井さんが実写コンプレックスを抱くなら残念です。アニメでしか出来ないことは山のようにある。むろん「風を描く」のは宮崎さんにしか出来ない。押井さんに何が出来るか。そう考えたとき押井さんがアニメーターじゃないことがネックになる。ところがそれ逆手にとる形で、アニメーターが邪道だと見做しかちなCGをふんだんに利用し、“チャイニーズゴシック”のモチーフを編み出す。遅くとも『攻殻機動隊』から見られるハイパーリアル化の方法論であり、それと結びついた「ヒトよりもモノが凄い」「ヒトよりも人形が凄い」「ヒトよりもビルディングが素晴らしい」というメッセージです。
大友克洋さんのパクリじゃないか、と言おうと思えば言える。でもメッセージとのマッチングや、ご自身のフェティッシュな嗜好ということまで含めると、押井さんの“チャイニーズゴシック”はやっぱり押井さん独自の新世界です。いや、その点でもリドリー・スコットの『ブレードランナー』が先行者じゃないか、と言おうと思えば言える。それでも『イノセンス』の方がすごい。それは圧倒的にハイパーリアルだからです。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
宮台 その意味で今の押井さんの立ち位置はオリジナルです。なのに実写に執るのは分からない。『アヴァロン』という実写作品は「実写素材を用いたアニメという方向性で何かすごいものが作れそうだ」と多くの人に予感させた点については、いい作品だと思います。しかし『イノセンス』のようなハイパーリアル感はなく、全体としては出来損ないでした。
—— アニメで勝負して欲しいですよね。
宮台 その通りです。
—— アニメの制作技術が押井さんのイメージに追いついて、実写ではなくアニメーションでもイメージを再現できるということは『イノセンス』を見れば一目瞭然ですよね。
宮台 もうひとつ押井作品のいいところは、「ヒトよりモノが凄い」という最近のモチーフとも関係しますが、「すっきりしない」こと。カタルシス(感情浄化)があってすっきりするのは、感情を愛でるという意味で、多かれ少なかれ人間賛歌ですからね。例えば『マトリクス』。押井作品からあれこれパクッているけど、話がすっきりしすぎて押井的伏線が活きない。押井ワールドとして一貫したいなら、あんなにすっきりしてはいけない。
ただ、観客がますますカタルシスを求める時代だから、すっきりしないものを作ると動員に響くことは間違いなく、そうした作品をプロデューサーは嫌がるんですよね。韓国の最近作に『グエムル 漢江の怪物』という映画がありますが、すっきりしない。わざとすっきりさせない。韓国の表現者たちは日本のアニメを観ているから、自覚して取り込んでいるのでしょう。逆に日本の表現者たちは、互いに近すぎるせいもあって、すっきりしないことの凄さ、押井さん的モチーフの凄さが分からないんじゃないかな。『マトリクス』は押井さん的モチーフのうち、カネがあれば真似できる技巧的部分から成り立ちます。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
—— 押井さんは最後に『パトレイバー』という企画に加わったんですが、押井さんがいなくても『パトレイバー』という企画は出来たと思うんですが、押井さんが『パトレイバー』の企画に関わっていなかったら、どうなっていたと思いますか?
宮台 (初期の)OVAでクーデターの話がありますね。あの話は凄かった。劇場版の第二作もあれがモチーフです。OVA版クーデター話と劇場版はどっちがいいか一概に判定できないくらいよく出来ていました。ああした話も、ミリタリーフェチの押井守さんなくしては出来なかったでしょう。あのOVAや劇場版第二作のイメージが『パトレイバー』シリーズに与えたイメージ的な影響は大きい。押井さんのおかげで『パトレイバー』の今日的なイメージが出来上がったのは間違いない。特にOVAはクーデターの前編・後編を別にすれば凄い作品はない。凄いと感じたのはクーデター編だけですね。
—— そういう意味では、宮台さんの中では『パトレイバー』の作品世界観、『パトレイバー』という作品のイメージは押井さんに負うところが大きいんですね?
宮台 押井さん抜きの『パトレイバー』は想像できないし、魅力的だとも思いません。大友克洋さんの『童夢』には本当に衝撃を受けましたが、少し後に『幻魔大戦』という大友さんが関わったアニメ作品はダメでした。「廃墟の中の陳腐な日常」というモチーフはアニメになるとダメなのかと思っていたら、押井さんが『パトレイバー』から『攻殻機動隊』へと到る流れで巻き返した。その意味で『童夢』的なもののアニメ的継承でしょうね。
—— 大友さんの影響ですか?
宮台 正確には大友さんが『気分はもう戦争』や『童夢』で先鞭をつけた時代の気分。それが「大世界の中の小世界」「大世界の中の陳腐な日常」です。「銀河を股にかけた大戦争があれば、シミったれた人生なんて決別できるのに」みたいな松本零士的ロマンの時代錯誤ぶりに辟易していた僕ら世代は、「本当にそうだなあ」「日常と言うものをよく分かってるなあ」と思いました。ところが大友がアニメに手を染めると「日常の終わらなさ」が吹き飛んで、単に非日常しかなくなる。どこか間違っているんですね。
その点、押井さんはどんな非日常を撮っても必ず「終わりなき日常」を描きます。最前線から後方までべた〜っと広がる陳腐な日常です。時代の流れだと言いましたが、それを明確に意識して確信犯的に──僕らの社会学業界で用語では「再帰的に」──やり続けているのが押井さんだろうと思います。大友さんは矢作俊彦の影響が強かったせいなのか、ご本人は自覚的でなかった。だからアニメがつまらない。その意味で、大友の原作──例えば『童夢』──を押井さんがふくらませてアニメ化したら凄い作品になるだろうと思います。平井和正原作のアニメ『幻魔大戦』なんかじゃなく(笑)。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
—— 最近、西欧中世風ファンタジーと言いますか、いわゆるカタカナ表記の名前が氾濫するようなセカイを舞台にした物語がよく目に付くような気がしますが、お話を伺っているとこうしたセカイ系も『銀河鉄道999』の延長ではないかとも思えるんですが?
宮台 その通り。僕の考えではセカイ系につながる流れは松本零士さんから生まれました。先ほど紹介した「SF同好会からアニメ同好会へ」ないし「原新人類から後期新人類へ」という世代展開と結びつく話です。『サブカルチャー神話解体』にもサワリを書きました。僕ら原新人類世代にとって、アニメやマンガの表現や享受は、「社会の中での自分の立ち位置をどう組み込むか」ということでした。アニメやマンガを見た後に現実の手触りが違って感じられる作品こそが、高く評価されたのです。
そうした僕らの視座から言えば、セカイ系すなわち「“自分の謎”の解決が“世界の謎”の解決を意味する作品」「自己承認に到ることが秩序回復を意味する作品」は、自分たちが乗っかっているゲーム盤を知らないでゲームをするという意味で、マズい。そういうセカイ系の大元は、松本零士あるいはマイケル・ムーアコックから始まる流れだと思います。
実はここに、社会学者の見田宗介さんのいう「夢の時代」から「虚構の時代」への転換点があります。見田さんは敗戦から1960年までを「理想の時代」。1960年から1975年までを「夢の時代」。1975年以降を「虚構の時代」と呼びます。僕の『サブカルチャー神話解体』での図式では「理想の時代」は「〈秩序〉の時代」。「夢の時代」は「〈未来〉の時代」。「虚構の時代」は「〈日常〉の時代」です。時代が変わると問題設定が変わります。どうやって理想の〈秩序〉を樹立するか。どうやって夢の〈未来〉を樹立するか。どうやって生きうる〈日常〉を樹立するか。ということですね。
それぞれの時代には「喪失の記憶」があります。理想の〈秩序〉を喪失したという意識と、それを埋め合わせる夢の〈未来〉を獲得しようという意識は表裏一体です。〈未来〉を喪失したという意識と、それを埋め合わせる〈日常〉を獲得しようという意識は表裏一体です。ちなみに「松本零士的なもの=『ヤマト』的なもの=大世界のロマン」への“反発”から「高橋留美子的なもの=友引町&一刻館的なもの=小世界の戯れ」が持ち出されるというサブカル進化の経緯も、〈秩序〉や〈未来〉から〈日常〉へという流れの一貫です。
その直後に、大友克洋的=押井守的な「大世界の中の陳腐な日常」という再帰的な“言い訳”が生まれます。ことほどさように「〈日常〉の時代」には「〈未来〉の喪失の記憶」がありました。「〈未来〉の時代」に「〈秩序〉の喪失の記憶」があったのと同じです。ところがこうした「喪失の記憶」が90年代後半になると消えます。だから東浩紀さんは「虚構の時代」の後に「動物の時代」を置く。僕の区分では「〈秩序〉の時代」も「〈未来〉の時代」も「〈日常〉の時代」も、「喪失の記憶」や「断念の記憶」に基づいた区分なので、これらと同格に95年以降の時代を名指せない。あえて言えば「〈忘却〉の時代」です。
自意識を世界大に拡張した作品群をセカイ系と呼ぶのは、世界を“忘却”してセカイに淫するという意味です。東浩紀さんの言い方では「現実も虚構もデータベースの構成要素として横並びにする態度」です。社会学の現実構成学派の概念図式を使えば、パラマウント・リアリティ(至高の現実性)が虚構と呼ばれるスフィア(圏域)をも飲み込むので、僕は「虚構の現実化」と呼びます。ちなみに僕は新人類世代の中でもナンパ系の作法を「現実の虚構化」と呼び、オタク系の作法を「虚構の現実化」と呼びますが、同じ用法です。
「虚構の現実化」はマズい方向です。正確に言えば、生き方としてはアリだけど、生き方の作法として全域化すれば、ゲームとゲーム盤の区別がない人間だらけになるから、社会はサステナブルでなくなる。情報を消費することで物質を消費しなくなるから社会がサステナブルになるという見田さんの議論(『現代社会の理論』)もあるけど、それは物質を消費し過ぎないソーシャル・デザインが成功すればそうなるだろうという話です。そうしたソーシャル・デザインに合意するにもゲームとゲーム盤を区別できなければいけない。
ただこれを若い世代にストレートに言うと「くそオヤジが訳分からないこと言いやがって」と突っ込まれます。「虚構の現実化」を生きている人々はそうでない人々に比べて多かれ少なかれ「脱社会化」していますから、「サステナブルでなくなるから、どうなの」という話になる。ここからは価値観への選択的コミットメントになるけど、僕は社会がサステナブルでなくなるのは良くないので、サステナブルになるようにソーシャル・デザインしたいという立場です。生き方としてはアリだけど、ソーシャル・デザインとしてはマズいということなら、ある種のエリーティズムを持ち込むことが論理的必然になります。
その意味では僕らの視座から言えば、セカイ系に陥りやすい若い世代を分断することが大切です。例えば、若いクリエイターが、セカイ系ならぬ世界系の凄い作品を現に作って来た場合にはそれを誉めまくり、自己承認が秩序回復を意味するようなセカイ系の作品を作って来た場合にはけなしまくる。そういえば最近の僕も、アニメ版『ゲド戦記』『ブレイブ・ストーリー』をけなし、アニメ版『時をかける少女』を誉めるまくりました。そこでの僕は、「世の摂理は人知に収まる」という類の観客肯定的な作品はヤメろ、「世の摂理は人知を越える」という類の観客否定的な作品を作ってくれという論理を使いました。
ただし、東浩紀さんも注目するように、データベースとしての横並び化──僕の言葉でいえば「虚構の現実化」──が必ずしも自己肯定的なセカイ系を帰結する必然性は、ない。アンチ・セカイ系的な「虚構の現実化」もあり得て、質の高いライト・ノベルズの一部にはそうした方向にトライするものもあります。そのあたりはこれから検証するつもりです。
ところで、アニメ版『時かけ』は、原作や映画版が「過去を受け入れる話」なのに対し「未来を受け入れる話」です。原作主人公は過去の謎を解くべく、アニメ版主人公は未来に願いを叶えるべく、タイムリープします。原作主人公は過去の記憶が催眠術の結果だと知り、アニメ版主人公は幸福が不幸を生むのを知ります。だから原作主人公は記憶の消去を通じて日常に着地し、アニメ版主人公は記憶の消去ならざるリグレットの維持を通じて日常に着地する。自分に降りかかる事に悩んだ昔。自分が引き起こす事に悩む今。何かに関わろうと行為した過去。何かに関わろうとする自分に関わろうと行為する現在。
こうした時代的再帰性を思春期的再帰性に重ねるのが細田守さんの演出です。個体発生は系統発生を摸倣するというか。アニメでしか描けない光や風や疾走を利用して「思春期の少年少女にしか見えない風景」を描くのです。この手法は、『太陽の王子ホルスの大冒険』(69年)で、場面設定という聞き慣れない役目で参加した宮崎駿さんが見せたやり方ですね。これと、同じくジブリの近藤勝也さんが監督した『海が聞こえる』(93年)の学校的風景の描き方を、合体させるとアニメ版『時かけ』になります。主題と完全に一致した素晴らしい演出です。やっぱり天才アニメーターの力とは凄いものですね。
—— その辺り、押井さんは自分で絵が描けないところだからつらいところではないかと思うんですが、
宮台 つらいでしょうね。
—— その辺り、どう思われますか?
宮台 そこをCG技術の最先端を利用し尽くした“チャイニーズゴシック”というモチーフで補っている。このモチーフも「ヒトよりもモノの方が凄い」という押井さん的な主題と完全に一致します。いい方向性だと思います。押井さんは、古い意味でなら、フィルム体験ならざるアニメ体験を提供できません。アニメーターじゃない以上仕方がありません。でも代わりに、CGを用いたハイパーリアル体験をもたらします。これを新しい意味でのアニメ体験の一種だとしてもいいのではないでしょうか。昨今では、アニメに限らず実写にもCGが使われますが、ハイパーリアルをめざすものではなく、特撮の代わりだったり、宮崎駿さんがやったような過激な飛行視線を再現するものばかり。それならば過去に既に特撮によってなされたり宮崎さんご自身によってなされたものばかり。CGを使わずにね。
—— やっぱり押井さんは絵が描けない部分、アニメーターという職業で表現出来なかった分を……。
宮台 CGの技術水準を利用して表現手法と表現主題の一致化に向かいました。ハイパーリアルなモノを提示することで「ヒトよりモノが凄い」というモチーフを納得させる。あれも場面設定の一種だと思いますよ。アニメーターは決してああいう風には考えないけど、押井さんはアニメーターじゃないからこそ「モノの凄さ」をどう形にしようかと考えたんだと思います。だから『イノセンス』は、『風の谷のナウシカ』がそうであるように長く鑑賞に堪えるだろうと思います。僕は森美術館で開かれた『イノセンス』展も観に行きましたが、セル画を投影するだけで充分展覧会になる。そんなアニメは今のところ他にない。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
—— 一方、今でこそ、そういう自分の表現方法を見出してきた押井さんですが、『パトレイバー』の頃ですと、それこそテロであるとかストーリーの中に押井色を練り込んでいくしか手がなかった?
宮台 そう思います。僕は、人形劇マニアだし、人形アニメマニアですが、人形自体のマニアでもあります。人形作家の天野可淡や山吉由利子が大好きで、家にも人形があります。小さい頃から人形劇を観てきて、チェコの人形アニメも日本で観られるものは全て観ています。押井さんも球体関節人形が好きだと分かって、押井守プロデュースの球体関節人形展も観ました。そこで「ああ、そうか」と分かったような気がしたんですね。
人形って面白いんですよ。いい人形と悪い人形の差は歴然としています。いい人形は、見ているだけで人形の周りにふわ〜っと別世界が広がる。その強度が強いと、今生きている現実が別世界によって塗り替えられてしまう。そういう力を持つ人形がいい人形です。なぜそんな力を持つのか。「動かない」からです。人間に似ているのに動かない。そういう「不自由な存在」だからこそ力を帯びる。その力を結城座の元メンバーの結城一糸さんは「闇の力」と言うし、僕は「縦の力」と呼びます。ちなみに僕の用語系では、〈社会〉──コミュニケーションの領域──からやってくる力を「横の力」と呼び、〈世界〉──〈社会〉の外に広がるありとあらゆる全体──からやってくる力を「縦の力」と呼びます。
「ああ、そうか」と分かったというのは、押井さんがやろうとしていることが分かったんです。アニメという言葉はアニメーションすなわち「動かすことで息吹きを吹き込む」から来ています。人形は「動かない」ことで力を発揮する。ならばアニメーターでないことを逆手にとる方法が見えてきます。そう。人形と同様に「動かない」ことを利用すればいい。「動かない」という人形的性質を逆手にとり、動かないがゆえにこそ周囲に得も言われぬ時空が広がる絵作りをすればいい。押井さんはそれに気がついたのでしょう。
人形を含めて「動かないモノ」に対する偏愛をフェティシズムと言います。偏愛の相手が犬猫のような動物の場合はフェティシズムと言わない。その意味で最初期の押井さんの作品からして「動かないモノ」への偏愛に満ちています。人形だけでなく銃器や建造物へのこだわりがそうです。明らかに「ヒトでなくモノが凄い」と思っている。動かすことで息吹きを吹き込むアニメーターにはあり得ない発想です。オリジナルの作家性はそこでしょう。この作家性が「大世界の中の陳腐な日常」というモチーフとマッチするんですね。
その意味でハンディキャップを逆手にとったのですが、それを完全に自覚したのは90年代に入ってからでしょう。『パトレイバー』の劇場版も『1』と見比べると『2』はモノの描きこみが偏執狂的です。押井さんの作家性は『2』で確定した。「動くヒト(もどき)」も凄いが「動かないモノ」はもっき凄いというわけです。ハンディキャップを補うCG技術が追いついて、ようやく『イノセンス』で追い越し、これでいけるとなったんでしょう。
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
—— 『パトレイバー』を見てから、アニメーションを見る目とか変わったりしましたか?
宮台 それほどでもない。宮崎アニメの方がはるかに腰を抜かしました。「手塚治虫は宮崎駿には心底嫉妬していた」と言われいますが、宮崎さんは本当に天才です。例えば『太陽の王子ホルスの大冒険』は予算の関係で止め絵だらけ。それでも作画15万枚ですが(笑)。それについて当時のプロデューサーが「止め絵でももつのは宮崎が天才だったからだ」と証言しています。宮崎駿さんはあまりにレイアウトが上手いので「場面設定」で協力してもらったが、宮崎さんでなかったら止め絵なんて出来なかったと。ホルスを逐一検討してみたけど、「ありえない」っていうほど凄い構図だらけです。
そういう「アニメ的な凄さ」は『パトレイバー』にはない。それを埋め合せる『イノセンス』的な「人形的な凄さ」「フェティッシュな凄さ」もない。「大世界の中の陳腐な日常」という同時代のモチーフに寄りかかる部分が大きい。一部フェティッシュなディテールも出てくるけど、後のCG化によって助けられた「押井流」に比べればインパクトが少ない。強いて言えば「結局日常は変わらない」という意味論をメジャーな流れとして定着させたのは押井さんの功績です。ただ「押井オリジナル」な意味論ではありません。
—— ということは……。
宮台 時代的な意味論のたてがみをつかんだということです。
—— 後の押井流の匂いを感じさせた作品と言うことですか?
宮台 そう。後に押井さんの作家性と強く結びつくことになる匂いをね。僕ら新人類世代は幼少期からアニメで育った「アニメ第一世代」です。何といっても中高時代に宮崎駿に最初に耽溺した世代だから、僕らにとって凄いアニメと凄くないアニメの違いは、ストーリーや設定じゃない。「アニメとしての凄さ」です。最近の押井さんは代替的方法という意味では凄いけど、初期はそうでもなかった。『パトレイバー』の頃まで押井さんはさほど画期的じゃない。ただ『パトレイバー』に関していえば、『2』はよく出来ていました。ストーリーのバランスは『1』だけど、「動かない絵」としてのインパクトは『2』です。
—— 『イノセンス』に至る片鱗、この『パトレイバー2』の先に『イノセンス』があるという?
宮台 そうです。彼はやっぱり「ヒトはどうでも良い」と思っています。最近になればなるほどストーリー的にもそれがはっきりするでしょ(笑)。はっきりすればするほど、いいアニメになっていきます。
—— その志向は……。
宮台 どんどん強くなっていると。
関連記事: ずいぶん前ですが押井守 『パトレーバー』 についてのインタビューに応じました