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以下に掲げる文章は、中で明示していませんが、社会思想の最先端に関わります

投稿者:miyadai
投稿日時:2006-05-24 - 10:47:51
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(4)
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「ありのままの現実」が虚構と同じ意味しか持たなくなった後期近代、現実を濃密に
生きるにはどうしたらいいか。頽落した反倫理的な処方箋を『ぼくを葬る』に見出す
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■前回紹介した園子温監督による家族を舞台にした二作品『紀子の食卓』(05)と『奇妙なサーカス』(05)は、家族の枠を越えて言えば「現実との和解の困難」を主題にしていると見られる。これは私の一連の著作で「終わりなき日常」問題として括られてきた。
■謂わば、希薄な現実とどう折り合うかという問題だが、『終わりなき日常を生きろ』(95)では「意味から強度(濃密さ)へ」という標語を提案し、自己や〈世界〉が存在する意味を問うような感受性が、古い社会システムへの適応の惰性態に過ぎないと論じた。
■更に『美しき少年の理由なき自殺』(99)で、強度をアッパー系・ダウナー系・エモーション系に分類し、簡単に〈世界〉に接触できない(脱社会化できない)我々にはダウナー系は難しく、人を傷つけやすいアッパー系を回避するならエモーション系しかないとした。
■なお、アッパー系とは刺激昂進による強度調達のこと。ダウナー系とは〈世界〉のありそうもなさに開かれることによる強度調達のこと。エモーション系とは喜怒哀楽の感情的享受可能性を高める工夫による強度調達のこと。それぞれ薬物の分類に対応している。
■後期近代以降の家族は、共住共食集団というより、非選択的な(自分で選べない)情緒的共通前提集団になった。だがかつて共住共食が自然に生み出した類の情緒的共通前提は、入替え可能な凡庸さだと見做されがちで、それにどう対処するかが今日的な課題になった。
■園監督は「凡庸な共通前提を非凡な共通前提に取り替る近親姦家族」(『奇妙なサーカス』)か「全面的に虚構を突き進むレンタル家族」(『紀子の食卓』)かの二項図式を掲げ、後者に軍配を挙げる。「アッパー系からエモーション系へ」という私の提案と同趣だ。
■さて、やはり「現実との和解の困難」を主題にし続けてきた、連載でも何度か触れたフランソワ・オゾン監督の、新作『ぼくを葬る』(05)が公開中である。驚くべきことに、この主題を一挙にキャンセルするような「反動的」な身振りを見せる。一体どうしたのか。

【反動的な、あまりに反動的な】
■死を巡る三部作という触れ込みはどうでもいい。彼の持ち味は「悪趣味」。それが好き嫌いを分ける。この「悪趣味」は、「尤もらしい現実」を「悪趣味な妄想」が凌駕することで(主人公/観客の)「希薄さからの救済」が実現する、というスキームに結びつく。
■『海を見る』(97)では、海辺の幸せ家族を、変態妄想少女が破壊する。『クリミナル・ラバーズ』(99)では、郊外でのママゴト的殺人少年らを、森の中の変態男が懲らしめる。『まぼろし』(01)では、夫の死という現実を、幽霊的妄想が転態させる。『スイミング・プール』(03)では、女流作家の平板な日常を、性的妄想が一変させる。
■ところが『ぼくを葬る』は少し様子が違う。末期癌を宣告された主人公の写真家は、死を前にして、誰もが凡庸に夢見る(本当か?)ことを、そのままなぞって夢見る。(1)死ぬ前に、悲しませてはいけない恋人に別れを告げたい。(2)死ぬ前に、自分を分かってくれる人(祖母)に会いたい。(3)死ぬ前に、仲違いしていた家族(姉)と和解したい。(4)死ぬ前に、生きた証として子孫を残したい。(5)死ぬ時は、海が見える場所で死にたい。
■驚くべきことに、それら全てが実現される。それも実に興ざめするようなありそうもないプロセスで、だ。(1)そんな簡単に恋人と別れられる理由が分からないし、(2)長年のシコリが一発で解消する理由が分からないし、(3)排卵日も計算せずにその日に出会った人妻とセックスして妊娠させられるのも合点がいかない。以下同様…数えていられない。


■「迫り来る死の恐怖」ゆえに「ダルイ現実」が「かけがえのない現実」に見えてくるというのは、一見ありそうなことだ。(但し、かつてインチキ・エイズ試薬で陽性反応が出て、遠からず死ぬと覚悟したときの私には、現実は少しもそうは見えて来なかったが。)
■それでも疑問が多い。第一に、その程度で変わる現実を主題にしていいのか。「それでも変わらない現実」こそオゾン的主題だったではないか。第二に、死を控えた者がかくも凡庸な夢を見るだろうか。凡庸な夢を見ない者こそがオゾン的主人公だったではないか。第三に、凡庸な夢を見ても実現しないのが現実。それがオゾン的現実だったではないか。
■要はこういう疑問なのだ。オゾンは「現実との和解の困難」をこそ主題にしてきたのではなかったか。死を前にすれば一挙に困難が氷塊するとでもいうのか。オゾンに劣らず「悪趣味」な園監督作品でも死が乱舞するが、飽くまで死は「終わりなき日常」の一部だ。
■『ぼくを葬る』の冒頭近く、映画の出鱈目な展開を目撃することになる前だが、主人公がモデルたちを撮影するシーンを見て、私は直ちにある映画と比較しはじめた。ミケランジェロ・アントニオーニ監督『欲望』(67)。アントニオーニ初の英語圏進出だった。
■共通して、手慣れた風情で撮影する主人公が描かれると同時に、苛ついた風情でモデルに邪険に接する姿が描かれる。この苛つきの理由は、単なる腹の虫の問題なのか。サルトル『嘔吐』にも比すべき実存問題なのか。その描き方次第で、映画の正否が決まってくる。
■実際、冒頭シーンに限らず、構造的な類似がある。主人公が写真家として既に成功しつつあるのも、似る。夢を叶えつつあるのに主人公がどこか苛つき、或いはダルそうなのも、似る。性愛の刺激を刺激として感じなくなりつつある(終わりなき日常!)のも、似る。
■ダルい日常が非日常的な裂け目によって転態し始めるのも、似ている。それぞれの主人公が「まとも」になりたがる所も、似ている。非日常的な裂け目として、『ぼくを葬る』では自分の死、『欲望』では他人の死(殺人死体の目撃)が持ち出される所だけが、違う。
■これは連載で繰返し紹介した通過儀礼図式そのものでもある。ダルい日常から「離陸」し、非日常で「混融」し、再度日常に「着地」する。着地面は、「新たな構え」を以てする日常の受容だ。ところが双方の映画は何かが全く違う。それを論じるのが今回の目的だ。

【「一皮めくれば…」の失墜】
■ベルリン・ベネチア・カンヌの三大国際映画祭で最高賞を受賞した1912年生まれのアントニオーニ監督は、1940年代から50年代半ばにかけてのネオリアリスモ運動から出発した。ネオリアリスモの巨匠ロッセリーニ監督と組む脚本家としてまず有名になった。
■アントニオーニ作品を分析する際、この出自が大きな鍵になる。初期アントニオーニのみならず、初期フェリーニも初期ヴィスコンティも、ネオリアリスモから出発した。前々回紹介した中平卓馬・森山大道・荒木経惟ら『provoke』派の写真家たちも、そうだった。
■ネオリアリスモは、ありのままの現実を活写する運動だった。映画で言えば、手持ちカメラ、長回し、自然光、素人役者、実際の街を用いる。『ローマの休日』(54)の観光文化主義的風景も「一皮めくれば」貧困・廃墟・疎外に満ちている、という描き方になる。
■『ローマの休日』とネオリアリスモ映画の同時代的な対照自体が象徴するように、そこには「表/裏」コードがあった。1950年代半ば迄の戦後日本も、市民社会の外観も「一皮めくれば」戦後混乱期的なものが噴出するという「表/裏」コードに支配されていた。
■因みに、市民社会的なものが浸透しきった後の日本では、かわって「強者/弱者」の階級コードが登場(60年頃〜)、やがて疎外図式から階級的文脈から脱落して「大人/若者」の世代コード(65年頃〜)へと代替された(宮台真司他『サブカルチャー神話解体』(93))。
■欧州でもこうした社会変化を背景に、「一皮めくれば」モチーフが只のギミックになる。即ち、ネオリアリスモの終焉だ。中平が、近代のレジームを切り裂く真実を追求したのに、真実がレジームの共犯者に過ぎない事実に覚醒して自己崩壊したというのも、頷けよう。
■興味深いことにアントニオーニ監督『欲望』はそのこと自体をエピソードとして繰込む。主人公が多勢の労務者に混って工場から吐き出される場面から映画が始まる。身をやつして労働者を撮影する彼と編集者とのダルい遣り取りが「一皮めくれば」の頽落ぶりを示す。
■それを含めて『欲望』は、ネオリアリスモという出自に対する自己批評に満ちている。それは後で再説するとして『欲望』を紹介する。公園でアベックの写真を撮ると、女の方が体を差し出してまでネガを欲しがる。偽物を渡して写真を引き伸ばす(blow-up:原題)。
■なんと遠景に殺人死体と銃口が見える。だが現場に行くと死体は消え、家に戻ると写真が消え、街で見かけた女を追うと女が消える。追う道すがらライブハウスで揉みくちゃになり、再び公園に戻ると、白塗りのモッズ族がテニス試合のパントマイムをしている──。
■実は、私が生まれて初めて書いた映画批評が「『欲望』:不在あるいは仮死の祭典」だった。大学二年だった1979年に東大駒場のキャンパス誌『恒河沙』に掲載した。(因みに、私が生まれて初めて観た劇場映画が『ローマの休日』だったことも言い添えておく。)
■そこで書いたことをそのまま再説しよう。この映画の基本モチーフは「ある筈のものがない」こと。オープニング&エンディングタイトルの抜け字、然り。消える死体、消える写真、消える女、然り(これらが消えると、殺人死体の存在を証明するものが全て消える)。
■そしてエンディングに登場するモッズ族が演じるパントマイム。ある筈のボールがなく、ラケットがなく、ネットがない。この映画には総じて「ある筈のものがない」。そう。我々は初めから「存在しないものを在るかのように演じて」いただけ──主人公の気づきだ。
■パントマイムは「存在しないものを在るかのように演じる」こと。ラストシーンではミメーシス(感染的摸倣)が生じたかの如く主人公がパントマイムに加わる。そう。これからも我々は「存在しないものを在るかのように演じる」しかない──もう一つの気づきだ。
■加えてライブハウスの挿話。ヤードバーズが演奏する。アンプの不調に苛立ったジェフ・ベックがギターを叩き壊すと、千切れたネックの争奪戦になり、主人公がゲットするが、店を出た途端に棄てる。主人公は「どうでもいいことを、さも重要そうに演じている」。
■さて20年ぶりに見直して、大切なことに気づいた。高集光レンズと高感度フィルムを用いた極端な絞り込みで前景と後景を同時に捉える「パンフォーカス」は、長回しやロングショットと並ぶ、ネオリアリスモの定番だが、主人公が公園で男女を撮影するのも実はパンフォーカスだ。
■だからこそ、前景にフルショットの女が写るその後景、遠くの茂みにピントが合い、茂実の蔭の死体が見える。ネオリアリスモ的には後景(背景)に真実がある──と思いきや、ある筈の死体はなく、彼の体験の真実性を証明するもの全てが消えてしまう。自己批評だ。

【「ノスタルジー」から「過去の自覚的捏造」へ】
■『欲望』が表現するのは、「一皮めくれば」どころか「一皮オンリー」になった世界だ。虚構と虚飾の一皮をめくれば、ありのままの現実が現れる筈、という中平卓馬的な期待は無効化した。ありのままの現実さえも、虚構と虚飾の1コマとして横並びになった世界だ。
■『ローマの休日』的な「虚構の現実化」に抗って「現実の現実化」を目指したネオリアリスモが挫折した後、『欲望』的な「現実の虚構化」に向かう──。この道程は、『サブカルチャー神話解体』でも詳論したネオリアリスモ出自の荒木経惟が辿ったものでもある。
■ことほどさように、「虚構の現実化」ならぬ「現実の虚構化」こそは、60年代後半を濫觴とする「近代成熟期=後期近代」(70年代から今日まで)の意味論だと言い得る。例えば『恒河沙』に文章を寄せた頃、私は鈴木清順『殺しの烙印』(67)にも同じ匂いを感じた。
■この作品を最終作とする日活ニューアクションに、フィルムノワール、ネオリアリスモ、ヌーヴェルバーグの影響が流れ込むのは周知の事実だから、手法的に似るのは当然だが、主人公の佇まい自体も似るのである。主人公の宍戸錠が、理由なく苛立ち、焦燥するのだ。
■《No.1は誰だぁ!》の台詞に象徴される、いるのか否か分からぬNo.1を倒そうとする営みの「不在を予感した空回り」感は『欲望』と共通だ。しかも「不在を予感した空回り」は否定されるどころか、むしろダンディズムとして肯定される。これも『欲望』的だ。
■ヴァナキュラな匂いを脱臭したビルヂングとアドバルーンとトヨペットクラウンから成り立つ無国籍都市「東京」の、静かでガランドウな感じも、『欲望』のロンドンと似る。この静かでガランドウな感じは「一皮オンリー」になった深さを欠く世界の手触りだろう。
■この「後期近代の意味論」は今も廃れていない。それを示すのが最近上演された平田オリザ脚本・演出、金杉忠男原作『上野動物園再々々襲撃』(06)(『再襲撃』としての金杉忠男演出による初演が87年)である。この芝居も「終わりなき日常」問題に照準している。
■小学時代の同級生の葬式後、かつての仲間が喫茶店に集う。悪ガキ時代の「記憶」と平板な中年生活の「現在」との間の自由な往還。やがて彼らはかつての夢──上野動物園の駱駝を盜んでマドンナを乗せる──の実現に向けて立ち上がる。正に「現実の虚構化」だ。
■「昔は良かった」的なノスタルジーではない。その証拠に、記憶が皆で食い違う。ここに平田の加筆がある。マドンナ北本菊子は日光の学年旅行や海辺の修学旅行の思い出を語るが、彼女は本当にそこに居たのか。幸せな専業主婦かピンサロ嬢か。誰も定かではない。
■それでいい。「過去の捏造」によって「現在の粉飾(現実の虚構化)」をせずして、《つらく寂しい現実》(劇場パンフに寄せた平田オリザの文章)を生きる術はない。ここには、現実解釈の前提となる過去自体が選択されたものだ、という再帰性への自覚がある。
■社会システム理論では再帰性への自覚は、反省(の一種)だ。21世紀の『上野〜』では反省的自覚をベースにした「過去の捏造」がむしろ積極的に奨励される。現在の輝きがないのと同様、実は過去の輝きもないのだが、幸い人は記憶を加工できる。寺山修司的だ。
■「終わりなき日常」は、存在しないもの(存在しない過去)を在るかのように演じるパントマイムを通じた「現実の虚構化」抜きに、生きられない。全てが再帰的になった後期近代を反省的に生きるならば、死を前に「一皮めくれて」かけがえのない現実が姿を現すこともない。後期近代を反省的に生きるのが倫理だとすれば、オゾンの反倫理性が際立つ。