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感動的だからこそ政治的に適切ではない『グッドナイト&グッドラック』

投稿者:miyadai
投稿日時:2006-04-20 - 10:49:01
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(4)
■「実話に基づく映画」が目白押しだが、曲者だ。映画を見る前に関連本を2〜3冊読んでいたらどうか。ミュンヘン五輪で殺されたイスラエル選手11人の内9人がドイツ警察に狙撃されたと知っていたらどうか(『ミュンヘン』)。部族間虐殺に繋がるフツ族とツチ族の対立が植民地政策による傀儡政権化に由来すると知っていたらどうか(『ホテル・ルワンダ』)。三年前にミッドウェー海戦で負けた理由が既にして大艦巨砲主義だったと知っていたらどうか(『男たちのYAMATO』)。全く違った印象になろう。知らなければ「人間ドラマ(の素晴らしい演出)」に感動できるイイ映画だが、知っていたら「人間ドラマ」によって重要な学びの可能性が覆い隠されていると感じよう。かように「実話に基づく」は政治的だ。
■マッカーシズムと果敢に戦った伝説的キャスターのエド・マローを描く『グッドナイト&グッドラック』が内外の賞を受賞するが、同じ問題がある。文脈情報を知らない人はマローの正義漢ぶりに感銘し、そんな人になりたいと思いもする。文脈情報を知る人は「マローが出てくる程度では解決不能な今日的問題がある」と感じる。何が覆い隠されているか。
■第一の問題はマッカーシズムとは何だったのかだ。貧相な男のルサンチマン的上昇志向がもたらした問題か。違う。マッカーシズムの反共ヒステリーと9・11以降の反テロヒステリーには重大な共通性がある。米国に社会的ヒステリーが生じ易いのは宗教的共和国としての由来に関係する。異なる宗教の人々が共和すべく、宗教的良心(善)は括弧に入れ、根本ルールを踏まえるか否か(正)に政治を集中させる。それが結社主義と連邦主義の結合体をもたらした。むろん「ルールを踏めば何でもあり」だけでは社会が回らない。そこを「宗教的善意への信頼」で埋め合せてきた。昨今のネオリベ的優勝劣敗主義でも米国社会が回るのも、公的部門に膨大なNPO活動(を支えるカリタスの伝統)があるからだ。こうした成り立ちのせいで、「ルールを踏めば何でもあり」的開放性故に「ルールを踏まぬ輩」への排除的ヒステリーが帰結され易く、「宗教的善意への信頼」故に米国流宗教的善意と両立しないと見做された対象への排除的ヒステリーが帰結され易い皮肉がある。
■第二の問題は真実の報道と営利の追求は背理するかだ。冒頭マローのスピーチが背理を宣言する。だがマローの『シー・イット・ナウ』(53〜58年)が53年から55年までの初期には20%以上の視聴率を稼ぐ日が珍しくなかったことを忘れるべきでない。番組はCBSとアルコア(スポンサー)のイメージアップに大貢献した。必要なのは営利主義批判の念仏でなく、「真実の報道が人気を博した時代」から「真実の報道が不人気に終わる時代」への変化が何に基づくのかを考察することだ。まず企業の営利化ではなくテレビの大衆化が(同じ営利主義の下で)企業戦略を変えさせた。59年にテレビ保有世帯は9割になるのと同時にクイズ番組が4割の視聴率を稼ぎ始める。庶民全体を相手にする以上マローの不人気化は時間の問題だった。次に、確かに横町の大衆が知的番組を見る時代があった。それは社会問題の大半が「強者/弱者」図式で切れた時代だ。そこでは大衆が自らを「弱者」と規定する。日本で言えば空港問題も公害問題も過疎問題も全て同じ図式で扱えた。それがドキュメンタリーの時代だ。豊かな社会になれば大衆の自己規定も変わる。日本で言えば宗教も売春も「強者/弱者」では扱えなくなる。分析には専門的図式が必要になり、個別問題に共通した背景を摘抉するには膨大な手間暇が必要になる。
■結論。マッカーシズムへの処方箋は、米国社会のヒステリー化傾向を緩和するための条件と、真理追求と営利追求が両立するような条件を、模索した上で(再)構築する所にある。人間ドラマが大衆的感動を呼ぶマローの如き存在の再来を待望しても左翼的空念仏でしかない。人間的感動と政治的思考が簡単に両立しにくいことを思い知らせてくれる良い映画だ。