MIYADAI.com Blog

MIYADAI.com Blog
123456789101112131415161718192021222324252627282930

Written

モダンフェイズ・システムズのウェブサイトはこちら

アンチ・リベラル的バックラッシュ現象の背景【追加】

投稿者:miyadai
投稿日時:2006-03-14 - 22:30:46
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(9)
Letter from Yochomachi さん、トラックバックありがとうございます。

《こういうことは、思っていても口に出してはいけません》(Letter from Yochomachi)

「排外主義的愛国主義者には低学歴か低所得が多い」というのは、本文にもございます通り、実証的なデータ分析の結果です。分析手順は、実際に博士論文を読んでいただきたく思います。

博士論文は公開されますので、じきに首都大学図書館で閲覧できるようになります。彼の博士論文は、日本とアメリカとドイツとオーストラリアの四か国に限定して、多様なデータ分析をしています。

ただし、心情倫理に基づく拝外主義的愛国主義を煽る論壇誌を読むのが拝外主義的愛国主義者の内でも專ら高学歴や高所得に偏り、リベラルな論壇誌を読むのがリベラル層でも低学歴や低所得に偏る、といったような事実が存在する場合に限り、リベラルな論壇誌を読む人たちの方が低学歴だったり低所得だったりするということがあり得ないわけではありません。

ですが、イメージ・メイキングな書き方であることは文脈から自明でしょう。本旨は、論壇誌を読む読まないに関係なく、各国に共通して、「拝外主義的愛国主義者には、低所得か低学歴が多い」という一点にあります。

ちなみに、ジョージ・クルーニー監督の映画『グッドナイト・アンド・グッドラック』にも描かれている通り、こうした受け手調査を宣伝作戦に利用するという戦略は、米国ではしばしば見られます。政治的に中立な科学的手法に基づくデータを、政治的に利用するということです。

しかしこれを簡単に批判することはできません。人文科学や社会科学の領域では、学問的な発見や考察は、多かれ少なかれ、政治的な波及効果を必然的に伴うものだからです。ただ、どんな手法に基づく観察なのか、どんな理路に基づく考察なのかを、追尾可能に開くのがポイントです。

因みに私が審査に関った博士論文の執筆者には全員、リライトした上での出版を勧めています。今回もむろん例外ではありません。実現すれば、政治的にはセンセーショナルでしょう。しかし学問的であることには一点の曇りもないということが、あり得るわけです。

あと、以下の本文にもオマケ分を追加していますので、「続きを読む」をクリックしてください。

***********************************************************




以下は、今準備している本の冒頭十分の一以下の「サワリ部分」に相当します。
書名は未定ですが、決まり次第お知らせいたします。
版元は双風舍で、六月には出版されます。


***********************************************************
●すべては「想定内」

■編集部■ 「バックラッシュ」とは何なのかを、一般の人に知ってほしいというのが、この企画の狙いです。そして、バックラッシュを知るのにあたり、もっともよい事例がジェンダーフリーなのではないかと考えました。
■宮台■ 社会学のオーソドックスな枠組みから言うと、ジェンダーフリーは、ジェンダーレスではありません。ジェンダーレスは「社会的性別の消去」だけど、ジェンダーフリーは「社会的性別に関わる再帰性」であって、「ジェンダーフリーだから、ああしろ、ここしろ」という直接的メッセージは本来出てきません。まあ、再帰性という概念を知らない無教養者の中で、後述するような不安な層が騒いでいるだけの話です。
■しかし、不安こそは、すべてのバックラッシュ現象の背後にあるものです。「流動性不安」すなわち、過剰流動性による不安です。過剰流動性ゆえに、自明性への疑いが出てきて、アノミーすなわち「前提不在による混乱」に陷るのです。例えば、集権的再配分による「弱者への手当て」について、「本当にソイツが弱者なのか」という疑いが出てきて、再配分否定のネオリベ的な優勝劣敗図式のサポートへと短絡するのが典型です。
■ところが、同じ疑念こそが、今日的な再配分政策である「第三の道」──「弱者への手当て」でなく「動機づけを持つ者への手当て」──のバックボーンになっていますので、話はやっかいです。もっと言えば、先進各国における福祉政策や再配分政策全体の、「第三の道」的なスキーム変化自体が、流動性不安のあと押ししてきた側面があります。
■例えば、「第三の道」的な自立支援が一般的になった今日、自立努力や参加意欲を示さないまま行政的に支援されるように見える人々に対し、2ちゃんねるなどの場で「テメエが弱者かよ」と噴き上がるケースが目立ちます。そういう大衆的な心性が、「第三の道」を通り越して、ネオリベ的な再配分否定図式を翼賛しています。噴き上がる連中には弱者が多いですから、自分の首を絞めていることになります。実に皮肉な事態です。
■昔からフランクフルト学派の人たちが言ってきた通りで、権威主義者には弱者が多い。これは統計的に実証できます。私の在職する大学で博士号を取得した田辺俊介君の博士論文『ナショナル・アイデンティティの概念構造の国際比較』(2005)が、ISSP(国際社会調査プログラム)の1995年データを統計解析しています。それによるなら、排外的愛国主義にコミットするのは、日本に限らず、低所得ないし低学歴層に偏ります。
■要は『諸君』『正論』な言説の享受者は、リベラルな論壇誌のそれより、低所得か低学歴だということです。この問題に、私が年来言ってきた「丸山眞男問題」を重ねられます。教育社会学者の竹内洋氏が最近『丸山眞男の時代』(中公新書)を出しましたが、丸山の戦後啓蒙がなにゆえ今日この程度の影響力に甘んじるのかを分析しています。この問いは姜尚中氏との共著『挑発する知』(双風舍)で私が述べたものと同じです。
■その答えを一口で言えば、丸山がインテリの頂点だったために、亜インテリ(竹内氏は疑似インテリと表記しますが)の妬みを買ったから、となります。実は、この図式は、丸山自身が、戦時ファシズムへの流れを翼賛した蓑田胸喜の日本主義的国粋主義の成り立ちを分析して示した図式と同じです。ご存じの通り、丸山はマンハンム流の[知識人/大衆]二元図式を踏まえ、[インテリ/亜インテリ/大衆]三元図式を提案しました。
■丸山眞男によれば、亜インテリこそが諸悪の根源です。日本的近代の齟齬は、すべて亜インテリに起因すると言うのです。亜インテリとは、論壇誌を読んだり政治談義に耽ったりするのを好む割には、高学歴ではなく低学歴、ないしアカデミック・ハイラーキーの低層に位置する者、ということになります。この者たちは、東大法学部教授を頂点とするアカデミック・ハイラーキーの中で、絶えず「煮え湯を飲まされる」存在です。
■竹内氏による記述の洗練を踏まえていえば、文化資本を独占する知的階層の頂点は、どこの国でもリベラルです。なぜなら、反リベラルの立場をとると自動的に、政治資本や経済資本を持つ者への権力シフトを来すからです。だから、知的階層の頂点は、リベラルであることで自らの権力源泉を増やそうとします。だからこそ、ウダツの上がらぬ知的階層の底辺は、横にズレて政治権力や経済権力と手を結ぼうとするというわけです。
■これが、大正・昭和のモダニズムを凋落させた、国士館大学教授・蓑田胸喜的なルサンチマンだというのが丸山の分析です。竹内氏は露骨に言いませんが、読めば分かるように同じ図式を丸山自身に適用する。即ち、丸山の影響力を台無しにさせたのは、『諸君』『正論』や「新しい歴史教科書をつくる会」に集うような三流学者どものルサンチマンだと言うのです。アカデミズムで三流以下の扱いの藤岡信勝とか八木秀次などです。
■要は、文化資本から見放された田吾作たちが、代替的な地位獲得を目指して政治権力者や経済権力者と結託し、リベラル・バッシングによってアカデミック・ハイアラーキーの頂点を叩くという図式です。丸山によれば、戦前の蓑田胸喜による一連の活動がそうしたものの典型です。そして竹内洋によれば、ブント的噴き上がりを田吾作の心情倫理に過ぎぬと断じた丸山も、元ブントを含めた田吾作らによって同じ図式で葬られます。
■これは、日本的な現象でもあります。というのは、各論で紹介する通り、亜インテリのポジションは、必ずしもインテリにとって逆機能的に働くとは限らないからです。逆に言えば、1960年代までの日本では確かにマンハイム的な[知識人/大衆」図式が機能するように見えましたが、それは欧州で機能してきたのとは文脈が違うということです。簡単に言えば、日本では欧州にあるような意味での知識人へのリスペクトが、ない。
■単純化すれば日本では「知識人も大衆もみんな同じ田吾作だ」と誰もが思っているのです。維新以降の「一君万民」図式に基づく統治も理由の一つですが、更に遡れば江戸時代における「士農工商」図式に基づく統治も理由の一つになります。「士農工商」図式の特徴は、身分の高いはずの武士の大半には財力も文化的享受機会もなく、身分の最下であるはずの商人の一部に財力や文化的享受機会があるという「地位非一貫性」です。
■ただ、かつてはムラビトにとって帝大生が「おらがムラの誉れ」であり、帝大生にとっては「故郷に錦を飾る」ことが立身出世の動機だったことが、重要です。こうした「共同体的メカニズム」の中で、あくまで見かけ上[知識人/大衆]図式が機能していたというのが、実情でしょう。逆に言えば、こうした「共同体的メカニズム」が空洞化すると、欧州では今も機能する[知識人/大衆]図式が、日本では機能しなくなるのです。
■かくしてアカデミズムの頂点が重要機能を果たすリベラルな論理が失速する。国粋が突出し、愛国が失速する。心情倫理の自己犠牲が優先し、冷徹な国益計算に基づく戦略が失速する。リベラルでありかつ冷徹な国益計算に基づく「冷酷なハト」の論理においてはアカデミズムの頂点たる実力が物を言いますが、こうした知的な戦略分析になれば亜インテリに出番はない。彼らの出番は『諸君』『正論』的な心情倫理の競争だけです。
■蓑田胸喜みたいな形で国論を左右するほど顕在化するのは何十年おきですが、構造自体はコンスタントです。そのことは学会に身を置けばわかります。[知識人/亜インテリ/大衆」の日本的な三項図式はどこにも見いだせる問題なのです。即ち、オーソライズされたアカデミック・ハイラーキーの頂点に立てない、アカデミズムの大半を占める者たちは、学内であれ国内であれ、代替的地位獲得競争にあさましくも勤しむしかない。
■こうしたコンスタント・ファクターである「代替的地位獲得競争」に、スペシャル・ファクターである今日的な「流動性不安」が絡むことで、ジェンダーフリーのような内政問題から、対北朝鮮や対中国の外交問題まで含めて、リベラルなものへのバックラッシュが起こっている──。それが私の分析です。そこではジェンダー・フリー論者も「冷酷なハト」も共に、叩く側から「恵まれた連中」に見えているというのがポイントです。
■その意味で、いま述べてきたような「丸山眞男的なものの顛末」を知り、その理由を考察してきた者にとっては、いま起こっていることは、ホリエモンじゃありませんが、完全に「想定済み」です。だから昨今のバックラッシュについては少しも驚いてないし、何の怒りもありません。あえて言えば、多少情けないとは思いますが、そうした情けなさは日本の近代史にはつきものです。これが、最初にいっておくべき私のスタンスです。
■ちなみに、実際に日本全体が急速に国粋主義化し、軍部へと権力が集中するにつれて、すでに戦前の段階で蓑田胸喜は用済みになり、敗戦後は首を縊ります。「新しい歴史教科書をつくる会」の顛末も似ています。男女雇用機会均等化から援助交際化まで含めて、実社会のリベラル化が進むように見える中で勃興した「つくる会」は、小泉自民党的な右傾化の中で用済み化し、いまや会では「田吾作のつばぜり合い」があるに過ぎません。
■以上を踏まえて、以下では各論に入って、詳細に分析してみましょう。

●日本の新自由主義はねじれている

■編集部■ 二〇〇五年夏の選挙前に宮台さんは、農村型保守/都市型保守/都市型リベラルという三つの項からなる見取り図を提示しました。この見取り図は、昨今の政治やメディア、そして文化の状況を見通す手がかりを与えてくれます。さらに「バックラッシュ」を吟味する際にも、重要な参照項になると思います。そこで、あらためて見取り図の趣旨をわかりやすく説明してください。


■宮台■ 小泉自民党になって二年ほど経過したときに目立ってきた現象が、ポピュリズムです。私はもっと特定して「不安のポピュリズム」と呼びます。要は、不安をたやすく煽られるタイプの連中が、非常に増えてきたように見えるのです。並行して、小泉首相の「断固」「決然」がもたらす痛快さや格好よさに吸引されてカタルシスを覚える類のディプレッシブ(抑鬱的)な連中が、大規模に生まれてきたようにも見えます。
■人々の不安を煽り、鎮められるのは俺だけだと侠気(おとこぎ)を示すのが、「不安のポピュリズム」です。第一世代のフランクフルト学派が示した通り、これは急速な都市化や郊外化がもたらすアノミー(前提不在化状況)を利用した定番の動員戦略です。これを踏まえると、小泉自民党で顕在化した「不安のポピュリズム」の、背景をなす前提不在化状況は、十年以上前から進行しています。「つくる会」に象徴されるものです。
■これが、以前から書いてきた「保守地盤の地殻変動」のことです。旧保守すなわち「農村型保守」は、共同体的メカニズムをベースにした団体的動員を軸とします。これは、旧革新も同じこと。具体的には、土建屋的動員、宗教団体的動員、労働組合的動員です。郊外化──特に80年代以降の「第2次郊外化=ニュータウン化」──で、共同体的メカニズムやそれが支えていた〈生活世界〉が空洞化すると、団体的動員も空洞化します。
■入れ替わりに都市無党派層が増えます。都市といっても地理的な都会ではありません。共同体的メカニズムや〈生活世界〉の空洞化が生み出す「孤独な群衆」(リースマン)をこう呼ぶのです。この都市無党派層は、前述の通り、過剰流動性によるアノミーに陷ります。昔なら市民運動等に吸引されたはずの彼らが、冷戦体制崩壊後の──特に90年代前半の村山内閣時の──左翼陣営の弱体化ゆえに、「つくる会」へと吸引されます。
■これが、保守地盤の地殻変動です。ちなみに、左翼陣営の弱体化も、同じ共同体的メカニズムの空洞化によってもたらされます。この空洞化はコンビニ化やファミレス化に象徴される「ニュータウン化」によって進み、90年代前半以降の平成不況による雇用体制の変化で後押しされることになりました。土建屋的動員にせよ、宗教的動員にせよ、組合的動員にせよ、団体的動員を頼ってきた政治勢力は対処を迫られることになります。
■保守陣営や宗教陣営は対処に成功しますが、革新陣営が失敗します。宗教陣営の動員は元々都市部の「故郷喪失者たち」(ルックマン)を母体とするので、さして問題ない。また保守陣営は「不安ゆえに『断固・決然』に吸引される都市無党派層」すなわち「都市型保守」を母体とするようになる。これが前述した地殻変動です。革新陣営だけが、冷戦後の左翼弱体化や共同体的メカニズムの空洞化に、抗う術を持たず、退潮します。
■その象徴的な帰結が、二〇〇五年の秋の総選挙結果に見られました。これについては公式サイト「ミヤダイ・ドットコム」をはじめ、多くの場所でコメントしています。要は、小泉自民党の「不安のポピュリズム」による「都市型保守」の動員に対して、民主党は「都市型リベラル」の有効な動員戦略を示せなかったということです。都市無党派層を取り合う「イメージ選挙」の戦いに、民主党は完敗したということになりますね。
■理由は二つ。第一に、今日的選挙が、都市無党派層を「都市型保守」と「都市型リベラル」とで引き合うイメージ選挙であることを、前代表を含めて民主党執行部が理解していなかったことがあります。第二に、政治心理学の立場から言うと、豊かな社会では、人々が何を不安に思うかは共通でありやすいのに対し、何を幸せに思うかが多様に分岐しやすく、「不安のポピュリズム」のコストパフォーマンスが高くなるということです。
■第二点を補足すると、米国や昨今の日本のように、人々が過剰流動性に晒されて、ただでさえ不安になっているような所では、なおさら「不安のポピュリズム」が有効になります。「不安のポピュリズム」が世論を席巻するという状況を回避するには、欧州のように「不安の煽り」への負けやすさをもたらす過剰流動性を回避する策を堅持するか、各島宇宙毎に細分化した「幸せイメージ」に手間暇かけて棹さして行くしかありません。
■付言すれば、団体的動員の効力は減衰の趨勢にあるものの、前回と今回の総選挙とでは、自民党と民主党の基礎票は変わりません。今回の特徴は、普段は選挙に行かない都市無党派層が、典型的にはギャルなどを含めて大挙して選挙に出かけ、大方が小泉自民党に票を投じたことです。広島六区でのホリエモンの予想外の健闘が象徴的です。だから、イメージ選挙だというのは「都市無党派層の動員が勝敗を決する」ということです。
■選挙の直前にたまたま広島六区の人々に話を伺う機会がありました。面白かったのは、大抵の人が亀井静香氏の圧勝を予想しながらも、自分の二十歳代の息子や娘がホリエモンが遊説しに来るとワザワザ写真を撮ったりすることを話題にしながらも、「ヤジウマ根性と投票意識は別で、選挙では亀井氏に入れるだろうさ」と言っていたことです。でも投票結果を見ると、ヤジウマ根性と投票意識が別ではなかったということになります。
■街の風景が昔と変わずとも、若年世代が年長世代と昔ながらに一つ屋根の下で暮らしていても、意識は都市化していく。見えるものが変わらずとも、見えないものが変わる。九〇年代末、酒鬼薔薇事件に触発されるかのように全国各地で頻発した動機不明の少年凶悪犯罪を取材したときのことを思い出しました。現地の人々は「風景は昔と同じでも、昔と違って隣近所がどんな問題を抱えるのか全然分からなくなった」と述べていました。
■当時の私は「一つ屋根の下のアカの他人」問題と表現しました。一つ屋根の下にいても各家族成員は個室化し、インターネットや携帯を使って別々の世界にコネクトする状況。同じ町内会に属していても、家ごとに出自や階層やハビトゥスが異なる状況。家族の中で、地域の中で、「同じ世間」を共有することがなくなります。これがニュータウン化による共同体的メカニズム空洞化の具体相であり、都市無党派層の増大の背景です。
■所属の縛りから外れているという意味で、マンハイムの言う「浮遊するインテリゲンチャ」ならざる、「浮遊するパンピー」。彼らの中でもとりわけ、不安感や抑鬱感に囚われた「幸せではない層」が、不安や抑鬱感に駆られる結果、「断固・決然」に無防備に吸引され、或いは「弱者」のような再配分カテゴリーを全面的に猜疑するようになる。この類が「都市型保守」です。小熊英二の言うように、天皇に関心がないのが特徴です。
■こうした「都市型保守」は日本独特ではありません。二十年前の欧米にも生まれ、ネオリベ(新自由主義)の母体になりました。でも、日本独特の事情もある。冒頭で一部触れましたが、第一に、「都市型保守」が二十年遅れの今頃になって大きな力を発揮するようになったことであり、第二に、それゆえに欧米ではネオリベへの反省から「第三の道」が生まれたのと違って日本ではネオリベ化と「第三の道」化が並行することです。
■因みに、70年代までの「大きな政府」による弱者再配分政治(社会福祉政策)が「第一の道」。これが国家財政破綻とモラルハサード(タダメシ食い化)を招いたとの反省に立つ80年代からの「小さな政府」による優勝劣敗政治が「第二の道」。これが教育や医療など公的領域の空洞化を招いたことから、弱者再配分政治でも優勝劣敗政治でもない「動機づけのある者」への再配分政治を目指すのが、90年代からの「第三の道」。
■ところがこれは欧米の話。日本の場合、中曽根内閣が新自由主義を標榜したにもかかわらず、現実には経世会の土建屋的再配分政治が続いて財政が逼迫し、小泉内閣でやっと「小さな政府」による優勝劣敗政治が現実化しました。とはいえ二十年前の米英流の優勝劣敗政治が行われているわけでなく、「弱者の手当て」から「動機づけの手当て」へのシフトを踏まえた集権的再配分が、福祉行政や教育行政等の分野でなされています。
■その結果、興味深いことに、英国のように「ネオリベによる荒廃」に懲りて「動機づけの手当て」を選んだのでなく、「弱者への手当ての不明朗」に懲りて「動機づけの手当て」を選んでいるという歴史的経緯ゆえに、冒頭に紹介した通り、「動機づけの手当て」が、弱者バッシングや談合バッシングや「馬鹿の一つ覚え」的な合理化などの「ネオリベ的心性=不安のポピュリズム」と結合するという、独特の事態が展開しています。
■いわば、多様性を許容する、民度の高い「動機づけの手当て」ではなく、多様性を許容しない、民度の低い「動機づけの手当て」になっています。このオブセッシブ(強迫的)な尻叩きが、おなじみの日本的な腐臭を漂わせているわけです。そうした日本的な自立支援や参加支援に対し、「そうした方向での自立や、そうしたものへの参加はイヤだ」というタイプの退却が生じていて、それが昨今「ニート」と呼ばれているわけです。
■元々「ニート」は「動機づけの支援」(自立支援や参加支援)をしても乗って来ない若者を指す英国の言葉です。乗って来ない理由は階級やエスニシティなどに基づく「社会的排除」だと考えられています。アファーマティブアクション論者(動機つけの支援!)ニコラ・サルコジ内相の強権的発言で激化したフランスの移民暴動も同じ図式で説明されています。欧州では、「ニート」概念が「社会的排除」概念とセットなんですね。
■纏めると、財政の逼迫や談合の腐敗で「小さな政府」方向に舵が切られるという「二十年遅れのネオリベ」路線が、旧英国と同様に「不安な都市民」を悪循環的に量産し、彼らが「弱者叩き」や「談合叩き」に勤しむという流れのなかに行政の「動機づけの支援」(自立支援や参加支援)が置かれるという民度の低い政治状況ゆえに、役所改革や大学改革が日本的腐臭の漂う保身的役人の「田吾作のつばぜりあい」になっています。
■即ち「動機づけ支援」が“おろおろおたおたするがゆえに「断固・決然」に吸引される「不安な都市民」を悪循環的に量産する「ネオリベ」への反省”から生まれているのでなく、逆に“おろおろおたおたして「断固・決然」に吸引される「不安な都市民」を追い風にする”ので、強迫的な臭いや保身的腐臭が漂います。だから「動機づけ支援」とアンチリベラルなバックラッシュがシンクロするという珍事態が起こっている訳です。
■そのコロラリーが、小泉的なものの継承者と目される安部晋三の周辺に八木秀次などのバックラッシュ勢力が蝶集するという現象です。話を戻すと、第二次郊外化(ニュータウン化=コンビニ化)の帰結として九〇年代に「不安な都市民」が都市部に限らずキャスティングボートを握った結果、彼らに媚びるタイプの「不安のポピュリズム」が力を持つようになり、「断固・決然」とバックラッシュのシンクロが起こっているのです。

●新保守主義とは何か

■編集部■ 日本「も」都市浮動票の取り合いにシフトしている、という話がありましたが、それはグローバリゼーションの流れを日本も後追いしているととらえていいのでしょうか。宮台さんが「都市型保守」という言葉を使い、「新保守」という言葉を使わなかったことと関係すると思うのですが。
■宮台■ 「新保守主義」はネオコンサバティズム(以下、ネオコン)の訳でもありますが、日本語ではズレています。今日「ネオコン」という言葉に蔑称のニュアンスがあるけど、あえて言うと「ネオコン」とは「頭の悪い新保守主義者」。あえて区別すれば「新保守主義」とは再帰的保守主義で、その中に特殊米国的な転向保守主義者である「ネオコン」が含まれるけど、日本では「新保守主義」概念がちゃんとは合意されていません。
■マンハイムによれば保守主義自体が本来再帰的(選択前提を自覚的に選択しているという意味)なものだから、「新保守主義=再帰的保守主義」とするなら、この積み増しされた新たな再帰性を定義しなければなりません。また、元々は「新保守主義」は「ネオコン」の訳だということもありますが、「ネオコン」自体に9・11以降の拙劣さとは別様の賢明な可能性が本来あり得たのかどうかも、検討してみる値打ちがあります。
■ことほどさように言葉がゴチャゴチャして申し訳ありませんが、私自身は各所で述べてきた通り、ブッシュJr.を翼賛した「ネオコン」は本来「頭のいいネオコン」であり得た(のに馬鹿で終わった)と思っています。因みに『権力の予期理論』を書いた89年以降、竹下政権で活躍していた小沢一郎が「新保守主義」を自称した時代ですが、私自身も「新保守主義」を自称し、雑誌『宝島30』などにもそのように紹介されました。
■こうした経緯もあり、今も私は「頭の悪いネオコン」ではない「新保守主義=再帰的保守主義」を自称します。ブッシュJr.の取り巻きと区別して下さい。では保守主義は元々再帰的なのに、それに再帰性を積み増しするのはなぜか。これは近代過渡期(モダン)と近代成熟期(ポストモダン)の差異によります。即ち、〈システム〉の外側に〈生活世界〉があるとは信じられなくなった時代の保守主義が「再帰的保守主義」なのです。
■マンハイムは『歴史主義・保守主義』で「保守主義とは再帰的伝統主義だ」と言います。伝統主義とは、自明性や慣れ親しみの地平上で、昔やっていたようにやってしまうこと。これに対し、再帰的伝統主義とは、伝統主義がもはや自明でなくなったがゆえに「これぞ伝統だ」と人為的に言挙げして人々の選択を呼びかけるものです。彼は、保守主義とは、再帰的伝統主義たるゆえに、近代主義の有力な立場の一つなのだとしました。
■20世紀の前半に主張されたこの立場はある前提の上に立っています。当時は〈生活世界〉の外側に急速に〈システム〉が拡がる時代。即ち、自立的相互扶助によって調達されてきた便益が急速に市場化行政化される時代。とはいえそこでは〈生活世界〉──慣れ親しみが支配する生活領域──の存在が信じられており、〈生活世界〉を共有する「我々」がしばしば〈システム〉へと出かけて生産や購買をすると考えられていました。
■比喩的に言えば〈生活世界〉は「帰る場所(Heimat)」というイメージです。帰るか帰らないかは確かに「選択の問題」になってはいますが、帰る場所の存在自体は「与えられたもの」と捉えられています。別言すれば「我々という複数主語の自明性の上で我々の選択や個人の選択が可能になる」と考えられています。近代過渡期(モダン)における保守主義=再帰的伝統主義はそうしたものです。これは謂わば〈配慮〉の思想です。
■ハイデガーは人間が人間である条件を〈配慮〉に求めます。他者からどう見えているのかを気遣うことです。〈配慮〉するには他者の視線をとれなければなりません。ミードの言う「役割取得」であり、パーソンズの言う「視界相互性」です。かかる役割取得や視界相互性を支えるのが〈生活世界〉です。〈生活世界〉が空洞化すれば役割取得や視界相互性の可能性は減少し、〈配慮〉は難しくなり、人間であるのが困難になります。
■保守主義=再帰的伝統主義の思考は〈生活世界〉〈配慮〉といった欧州的意味論の圏域にあります。これは重要なので覚えておく必要があります。というのは、新保守主義=再帰的保守主義=「再帰的」再帰的伝統主義は、かかるリソースがもはや使えなくなった時代(近代成熟期[ポストモダン]の欧州や日本)ないし使えない地域(米国)においてこそ意味を持つからです。〈生活世界〉の空洞化による〈配慮〉の不可能性です。
■この不可能性に対して「ルールによる踏み絵主義」を持ち出すのが、宗教的共和を約したメイフラワー協約の伝統下にある米国的伝統です。同じ前提を持たない共同体同士ないし人間同士が、最低限の明示的ルールに合意することで、ルールに書いていないことについては自由にする。逆に、明示的ルールに合意しない共同体や人間を、コミュニケーションの相手とは認めないどころか、抹殺したりもする。これが米国的な伝統です。
■この「ルール(による踏み絵)主義」前提として、個人同士が契約する「結社主義(associationism)」と、結社同士が契約する「連邦制(federalism)」が、帰結されます。両者を合わせて「トックビル主義(Tocquevilleism)」と言います。これが、異なる宗教的信念を持つ者たちが集まって国家を形成するための──宗教的共和のための──知恵なのは見やすい。そこでは善(宗教的良心)と正(共和のためのルール)が分離します。
■これを共同体主義の欧州、結社主義の米国という具合に対比できます(但し共同体主義(communitarianism)が結社主義を含む意味で使われることもある)。米国的な結社主義は「ルールさえ守れば何でもあり」という個人主義的なリバタリアニズムと親和的です。「ルールを踏まえぬ者には断固たる措置を取れ」という主張を内政で展開すればネオリベラリズムとなり、外交で展開すれば転向保守主義者としてのネオコンになります。
■ところで、一歩引いた視線から眺めると、この対比に罠があります。伝統共同体──〈生活世界〉や〈配慮〉の圏域──がリソースとして存在しないなら「ルール(による踏み絵)主義」になるしかない、という必然性は、実はありません。近代成熟期(ポストモダン)には、この罠に敏感である必要があります。この罠に鈍感な連中を私は「頭の悪いネオコン」と呼んでいます。それこそ、ここにも謂わば「第三の道」あり得ます。
■即ち、もはや「帰るべき場所(Heimat)」が自明でなくなった近代成熟期にはルール主義しかあり得ないとは、必ずしも言えません。では、もう一つの道とは何か。自明でなくなった自然共同体でもなく、ルール主義的な結社でもないような、選択共同体という道です。自然共同体ではないから境界線は自明でなく、とはいえ、結社ではないから境界線に合意して参入するのでもない。謂わば「人為的な自明性を生きる共同体」です。
■「自然的な自明性を生きる共同体」ではなく、「人為的な非自明性に合意する結社」でもなく、「人為的な自明性を生きる共同体」です。自然的な自明性を全く信頼できなくなった──〈システム〉の外が消えた──近代成熟期において、「頭の悪いネオコン」が人為的な非自明性(ルール)への合意を迫るとすると、「頭のいいネオコン」は従来存在しなかった自明性をアーキテクチャの戦略的設計によってもたらそうとします。
■この立場は、イメージ的には共同体主義と結社主義の中間です。もっと正確に言うなら、立ち戻るべき〈生活世界〉の自明性が空洞化した近代成熟期(ポストモダン)において、結社主義と区別されるものとしての共同体主義を維持しようとすれば、これしかないという立場です。巷でコミュニタリアンリベラルと言うとノージック流の結社主義を意味しがちなことに鑑みれば「もう一つのコミュニタリアンリベラル」だと言えます。
■以上のような意味で私は「頭の悪いネオコン」とは区別される「新保守主義者」です。ずっとそう自称してきた意味をお分かりいただけましたか。前述した通り「ルール(による踏み絵)主義」と「逸脱者への強権発動」の組合せにおいて「ネオリベ」と「頭の悪いネオコン(米国流転向保守主義者)」とは同一です。内政焦点か外交焦点かという違いがあるに過ぎません。だから、私は「ネオリベ(新自由主義者)」ではありません。
■但し書をつけると社会福祉政策への批判から出てきた新自由主義は優勢劣敗主義です。だから共同体主義に反すると見えます。でも微妙です。新自由主義的なセルフヘルプ思想は家族共同体や性別役割分業の護持を同時に主張します。むしろ行政の介入によって家族や地域の自立的相互扶助メカニズムが空洞化するのを恐れ(ることを政府介入への反対の根拠にし)ます。新自由主義者は、平気で「伝統」や「共同性」を押しつけます。
■リバタリアニズムが、元々アナーキズムと同義で用いられていたことにも象徴されるように、結社主義の枠内での中間集団主義(サンディカリズム)と親和的(ノージック!)なのと比較すれば、ルール主義を主張しながらいかがわしい「自然共同体」を押しつけようとしがちな新自由主義(ネオリベ)は、ポピュリスティックな政策パッケージではあっても、思想としての一貫性や深みを完全に欠くことを理解する必要があります。
■共同体主義(コミュニタリアニズム)という場合も、元は合意に基づく人為的共同性を賞揚する結社主義に対抗して、合意以前的な自然的共同性を賞揚する立場ですが、前述した通り、巷では結社主義の意味で使う人々が少なくないだけでなく、「自然的共同性を人為的に押しつける」という思想的語義矛盾を犯して恥じない新自由主義的な立場──「つくる会」はこれです──もコミュニタリアニズムに数えられたりするので、混乱しています。
■ことほどさように、自由を支える前提価値へのコミットを要求する再配分肯定的なリベラリズム、自由至上主義的に再配分を否定するリバタリアニズム、主体が主体たりうる共同体的根拠への敏感さを要求するコミュニタリアニズム、という米国思想の非排他的な三者関係の中で、福祉国家主義、新自由主義、第三の道(新しい社民主義)、新保守主義、という政策パッケージの意味を理解するのは、専門家にもなかなか難題です。

●なぜ都市型リベラルが力を持たないのか

■編集部■ 日本での都市型保守が、アメリカ的な意味での新保守主義的なものに、たどり着くのではないかという意見もあるかと思います。それに対する処方箋のようなものは、あるのでしょうか。
■宮台■ 質問の趣旨は分かります。「農村型保守」を退潮させた、共同体的メカニズム崩壊や〈生活世界〉空洞化を埋め合わせるべく、「都市型保守」は「ルール主義」と「断固たる措置」の組合せを心情倫理から主張しがちですからね。だから「頭の悪いネオコン(新保守主義者)的」という意味でなら、日本の都市型保守を「新保守主義」と呼べます。ただ僕自身「新保守主義」の言葉をもう少し広く使いたいことは申しました。
■今後も社会的流動性が増大していく方向に向かい続けるかも知れない。そうであれば、流動性不安を後押ししつつ利用する小泉自民党的な「不安のポピュリズム」は、低コストでパフォーマンスを上げられる合理的な動員戦略であり続け、従って「都市型保守」は最有力であり続けるでしょう。「都市型リベラル」を増やすには、「都市型保守」にいかに対抗するかという観点から戦略をデザインするしかない、と私は思っています。
■分かりやすく言えば「都市型保守」は「都市型リベラル」よりもエントロピーが高い。だから放っておけば、過剰流動性下では「都市型保守」が優勢になる。逆に言えば「都市型リベラル」を増やすには、過剰流動性を止めるか、過剰流動性を逆利用してエントロピーを下げるしかない。後者からプリゴジンの散逸構造論的な「自由エネルギー散逸(エントロピー増大)の効率化を利用した秩序化(エントロピー減少)」の戦略を構想できます。
■栗本慎一郎氏が『パンツをはいたサル』でポランニ流の経済人類学を援用しつつ、社会なるものは元々「蕩尽(祭り)のための秩序化」だと述べたことがあります。この神話的図式自体の正否はともかく、クラウゼヴィッツ流の戦争論(総動員体制論)やアレント流の初期ギリシア的自立論などの「戦争のための秩序化」をも含めて、「効率的散逸のための秩序化」という図式を使う議論は跡を絶ちません。これが重要なヒントです。
■過剰流動性を下げるための欧州的戦略については別の場所で詳述してきましたから、ここでは過剰流動性を逆利用してエントロピーを下げる戦略について述べるならば、具体的課題は“「不幸は自明だけれど幸せは自明ではない」という前述した「ポストモダンの摂理」に抗って(或いは利用して)いかに幸せイメージに向けて動員するか”という問題になります。そういう問題意識もあって私は性愛現象に長らく注目して来ました。
■私が援助交際を素材にして「性の自己決定論」を十年以上前に展開したのは(『〈性の自己決定〉原論』)、パターナリズム(父性的温情主義)批判が目的でした。ルーマンによれば「愛」とは「相手が喜ぶことをする(言う)」ように動機づける「コミュニケーションの触媒」ですが、日本では「相手が喜ぶと否とにかかわらず相手のタメになることをする(言う)」ことを「愛」だと見做すパターナルな意味論が支配しています。



(以下は本をお読み下さい)。