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故意に政治的に不適切な映画『ミュンヘン』を撮るスピルバーグ監督に、「パ トリオットとしての自己形成」が必然的に「社会的な辻褄の合わなさ」を伴う という「実話」を見る
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【実話ベースという罠と近代のキレイゴト】
■ここ二年ほど実話ベースの「戦争映画」を観る機会が多い。1971年8月に起 きた韓国空軍特殊部隊の軍事反乱を描くカン・ウソク監督『シルミド』 (03)。94年4月から約三ヶ月で80万〜100万人が殺されたルワンダ大虐殺を描 くテリー・ジョージ監督『ホテル・ルワンダ』(04)。91年1月に始まる湾岸 戦争を描くサム・メンデス監督『ジャーヘッド』(05)。72年9月のミュンヘ ン五輪での「黒い九月」のテロに関連してイスラエルが編成した暗殺チームの 「苦悩」を描くS・スピルバーグ監督の『ミュンヘン』(05)。1945年4月に 沖縄特攻に向かって撃沈された大和を描く佐藤純弥監督『男たちの大和』 (05)
■スピルバーグ監督が言うように《[9.11以降]政治家がリベラルな価値観を 代弁しないから[映画作家が]自分を代弁しようとしている》(『ニューズウ ィーク』06年3月1日号)のかも知れない。期せずして我々は、「近代の臨界 点」に対する関心の分布を観察できる。
■近代の臨界点とは、立憲制や人権や民主政などの「進んだ制度」を持ち、か つ、〈生活世界〉での自立的相互扶助によって調達されてきた便益を〈システ ム〉化(市場化・行政化)した近代社会が、どんな意味で「キレイゴト」の枠 内に収まらないかに関わるものだ。
■そこには否応なく作り手の思想的な水準が刻印される。例えば上述した映画 の中で見るべき思想的境位を示すものは、『ホテル・ルワンダ』『ジャーヘッ ド』『ミュンヘン』である。『シルミド』と『男たちの大和』は、まるで19世 紀の遺物を眺めている気分になる。
■「戦争映画」といえども飽くまで娯楽や芸術に過ぎないと抗弁しても「免 罪」されない。娯楽や芸術の波及効果として抱かれる社会イメージの政治的 (=集合的決定を左右する)機能を無視できないからだ。現に我々は9.11の現 実を映画の機能的等価物として消費した。
■映画が現実を伝達したり、現実を変換したり、現実を代替したり、現実を補 完するのではない。ボードリヤールも言う通り、そこでは映画に求められる機 能が、横滑り的に現実にも求められるのだ。映画は、現実に何を期待すべきか を教える教育機能を果たしている。
■こういうとかつての「総動員態勢」を想起する向きもあろうが、大きな違い がある。対処すべき現実(国家間の最終戦争)があって、それに向けた動員が 図られるのではない。むしろ映画が、対処すべき現実というイメージを我々が 享受可能な形でセットアップする。
■映画の中で、我々と我々でないものの境界、人間と人間でないものの境界、 日常と日常でないものの境界、現実と現実でないものの境界、そして何よりも 映画でないものと映画との境界がアーティキュレイト(分節)され、それに従 う形で現実が境界づけられるのだ。
■誤解を排除するために言えば、「映画が我々を騙す」とか「誰かが映画を使 って我々を操縦する」などと警告したいのではない。映画作品単体の享受可能 性は作品単体によっては作り出せないからだ。かと言って現実が作り出すもの でもない。映画の外に現実はない。
■むろん原理的には昔からそうだった。我々は自らの体験のみで現実を構成で きない。他者(たち)の体験を自らの体験の等価物として受容することで現実 を構成する。現実は他者(たち)によって想像されたものであり、かつ他者 (たち)の体験も想像されたものだ。
■ただ他者の性格が変わった。自らの体験の等価物として他者の体験を受容す るとしても、他者はどこにいるのか。映画の中だ。他者によって想像された現 実をなぞって映画が作られるのではない。映画の中の他者をなぞって、現実の 他者が想像され、現実が想像される。
【実話に出会わせる他者の不在】
■スピルバーグ監督は『ミュンヘン』を実話ベースの映画(実話に触発された 映画)だと言う。冒頭に述べた通り、気が付くと実話ベースの「戦争映画」が 目白押しだ。だがこの「実話ベース」がクセ者だ。我々は実話を知っているの か。いつどこで知ったというのか。
■「胡蝶の夢」の如く「実話」を含めて現実は全て夢物語だと単純相対主義を 吹きたいのではない。実話はある。但し実話に出会うには他者に出会わねはな らぬ。だが映画の外に現実はなく、映画の外に他者はない。であれば我々は映 画の中で他者に出会わねばならぬ。
■冒頭に挙げた各種の「戦争映画」の中で他者に出会えるだろうか。他者(た ち)に出会えなければ「実話」概念には意味がない。他者(たち)が実話を知 っているからだ。だが、多くの「戦争映画」で、我々が出会えるのは、「無害 な他者」(という自分)でしかない。
■マイケル・バー=ゾウバー&アイタン・ハーバー『ミュンヘン〜オリンピッ ク・テロ事件の黒幕を追え』(原題『赤い王子の追跡』83年)やアーロン・J ・クライン『ミュンヘン〜黒い九月事件の真実』(05年)を読む者は、あるい は、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞したケヴィン・マクドナ ルド監督『ブラック・セプテンバー〜ミュンヘン・テロの真実』(99)を観た 者は、映画『ミュンヘン』の相対的無害さに驚嘆しよう。
■『ミュンヘン』は娯楽映画の例に漏れず、主人公アヴナー(暗殺チームのリ ーダー)やチーム仲間たちに関わる「通過儀礼図式」を反復する。即ち「離陸 ⇒混融⇒着地」だ。混融がもたらす離陸面と着地面の落差が、アヴナーの「気 づき」として描かれるのである。
■混融を与えるものは、暗殺の失敗(巻き添え)であり、友愛的にコミュニケ ーションしたことのある相手の暗殺であり、何よりも暗殺者自身が暗殺に脅え 震える恐怖だ。かくしてアヴナーは「テロがテロを呼ぶ復讐連鎖」に気づき、 モサドを離脱するに至るのだ。
■これに対し、先のノンフィクションやドキュメンタリーには自己形成物語= 教養小説(Bildungsroman)的構成は存在しない。この「些細な」違いが作品の 印象を大きく変える。復讐連鎖への気づきは大切だ。だがその大切さがどれほ どのものかが、実は自明ではない。
■誤解を避けるべく言えば、これはノンフィクションかフィクションかという 違いには関係ない。どちらの場合も「通過儀礼図式」を用いて社会次元から実 存次元へと──社会問題から人格陶冶問題へと──問題変異させた段階で、受 け手の注意は全く別物へと向かう。
■良いか悪いかは即断できない。そこで注意を外された焦点が何であるのかを 精査する必要がある。『ミュンヘン』は七年越しのプロジェクトだと言うが、 映画公開目前の昨年10月4日、イスラエルの新聞『Yadioth Ahronoth』が興味 深い記事を打っている (http://www.imec.org/index.php?option=com_content&task=view&id=14261&itemid=1)。
■故ラビン首相の元スポークスマンで前述の『赤い王子の追跡』共著者でもあ るハーバーが、ドイツ政府の極秘検死報告によれば、テロリスト8人中5人、殺 害されたイスラエル選手11人の内9人が、ドイツ警察の狙撃兵に射殺されたと 推定されると、公式に認めたのだ。
■同じ記事でハーバーは、人質に犠牲が出てもテロリストを射殺することにイ スラエルが合意していたこと、モサドの暗殺チームに殺された者たちの過半 が、真のテロ関係者の捕捉が難しいが故に、テロと関係ないと分かっていて暗 殺対象に選ばれたと明らかにした。
■時間的に言えば、映画『ミュンヘン』がこうした事実を故意に隠蔽して作ら れたとは断定できない。但し以前から噂はあったし、テロから七週間後のハイ ジャックによってテロリスト3人が釈放されたのは、テロ対象から自国を外し てほしいドイツがイスラエルに無断でPLOと取引した結果だと先のノンフィ クションやドキュメンタリーが述べてきている。
■加えて先のドキュメンタリーは、ドイツ政府が、狙撃兵による射殺などの真 実を知る可能性がある3人の、厄介払いをした可能性もあるとも述べている。 ことぼとさように、テロ事件の顛末は、イスラエル対パレスチナという二者関 係には、すっきり収まり切らない。
■加えて、ハーバーが明らかにした事実を前提にすると、暗殺チームによる 「テロ関係者」の殺害は復讐ではなかったことになるのが重大だ。映画『ミュ ンヘン』にも描かれるように、モサドが銃殺ではなく派手な爆殺を望んだこと を考え併せると、こういう話になろう。
■イスラエル政府は、テロリストがイスラエル選手らを殺したという虚偽の口 実をもとに、テロに関係ないことを知りつつPLO関係者を爆殺することで、 PLO首脳陣に暴力行為を手控えるように恐怖を植え付けることを目的とし て、暗殺チームを編成したのだ、と。
■復讐連鎖図式が壊れると「復讐連鎖図式への気づき」を人格陶冶として描く 『ミュンヘン』の物語的構図が完全に壊れる。復讐連鎖図式による警句は尤も らしいが、映画が題材とする事件に当て嵌まらない。映画はここでも「人畜有 害」なノイジーな要素を排除する。
【『ミュンヘン』批判は近代人を切り刻む】
■だが『ミュンヘン』を意図的な反パレスチナ映画だと断じるのは早急だろ う。復讐連鎖の不条理を理由に主人公が最終的にモサドと縁を切るラストシー ンに世界貿易センタービルが映るが、イスラエル政府=アメリカ政府的なやり 方を、疑問に付す意図がよく伝わる。
■前述した通り、イスラエル政府の振舞いは、恐怖心によって相手を制御しよ うとする語義通りの「国家テロ」と言えようが、主人公アヴナー自身が通過儀 礼の混融を経てまさにそうした認識に到達する「気づき」を描くことをこそ が、映画の基本モチーフを構成する。
■そのことに疑いがないとはいえ、私の周囲の親パレスチナ的な人々が指摘す る通り、映画には、意図的かどうか定かではないが、明確な印象操作 (impression control)の機能──抽象的に言えば境界設定(boundary setting)の機能──を見出せる。幾つか指摘しよう。
■アカデミー賞の外国映画部門にパレスチナ人監督作品として初ノミネートさ れた『パラダイス・ナウ』と比べれば分かるが、イスラエルの暗殺チーム成員 が殺戮の度に逡巡する存在として描かれ、パレスチナ人が逡巡なき存在として 描かれるのは、明白に偏倚だろう。
■だが映画は、前述の通り、暗殺チーム成員の迷いと逡巡こそが、離陸面と着 地面の間を繋ぐ混融を与える物語構造になっている。パレスチナ人側に同じ迷 いと逡巡があるとなれば、物語構造上主人公だけに与えられるべき実存上の特 権的位置が見失われてしまうのだ。
■これも誰しもが気づくことだろうが、イスラエル側の登場人物たちは、英語 を母国語としない私でも殆ど聴き取れる明瞭な英語を喋るのに対し、パレスチ ナ側の登場人物たちは、主人公たちと偶然の邂逅によって会話するシーンや記 者会見シーン以外はアラブ語を喋る。
■これは、米英人だけでなく多少英語が理解できる多くの国の人々に、専らイ スラエル側の登場人物に感情移入しやすくする非対称的な近接性を刷り込む機 能を有しよう。だが主人公の自己形成物語(Bildungsroman)を主要モチーフに する以上、これまた必然的なのだ。
■巷には、フランス人情報屋のミス(?)で主人公らと一つ屋根の下で過ごすこ とになったパレスチナ人青年に「ユダヤ人と同じ」故郷喪失者の苦難を語らせ るのを、親パレスチナ的だと見做す向きもあるが、勘違いだ。通過儀礼が要求 する混融をもたらすために過ぎない。
■かかる通過儀礼モチーフの自己形成物語の着地点を図式化すれば、「反パレ スチナ&反イスラエル」=「親・在外ユダヤ」となる。主人公は徹頭徹尾パト リオットだが、それは国家に忠誠を誓うこととは違う。ユダヤへの帰属とイス ラエルへの帰属は別だと言うのだ。
■これは、かつてユダヤ人ハナ・アレントが『イェルサレムのアイヒマン』を 巡る論争で見せた態度と完全に同一であり、彼女の立場に正当性を与えたマル ティン・ハイデガーの初期ギリシア的=主意主義的な──即ち「真正右翼的」 な──態度とも完全に同一である。
■繰返し示した通り自己形成物語への集中の副作用で政治状況の描写としての 適切性(political correctness)が大きく損なわれた『ミュンヘン』が、代 わりに獲得するのが、「イスラエルに移住しない在外ユダヤ人は非愛国的か」 という問いへの、否定的回答だ。
■これが前述の通り右翼思想の本義に則るものであるのはよいとして、私がこ こに見出すのは本人が在外ユダヤ人であるスピルバーグ監督の自己正当化だ。 彼自身の自己正当化のために意識的無意識的に反パレスチナのバイアスをかけ る態度に我々は何を見出すべきか。
■間違っても「実話」、まして「政治的教訓」を引き出してはならない。とは いえ、そこに凡庸な他者=監督のエゴイズムを見出すのも、容易いが生産的で ない。そうでなく、一人のパトリオットを生み出す自己形成過程が本質的に孕 む捩れと矛盾を見出すべきなのだ。
■連載でも繰返し述べてきた通り、スピルバーグ監督の映画作りは「辻褄の合 わなさ」を信条としてきた。その信条を彼は今回「パトリオットであることの 社会的な辻褄の合わなさ」に適用した。それは、確信犯としての再帰的な身振 りであるように、私には思われる。
■その証拠に映画に登場する唯一の楽園を見よ。情報屋ルネの父親で元レジス タンス闘志を思わせる「パパ」の、彩り豊かな果樹園に囲まれた屋敷。そこで は「互いの所属来歴を一切問わぬがゆえに」アカの他人同士が親密な大家族を 営む。その「パパ」とルネは、反国家活動をする者に対し立場を問わず情報提 供の便益を図る。そこでは全ての辻褄が合う!
■「パトリオットであることの社会的な辻褄の合わなさ」は近代社会がキレイ ゴトの枠内に収まり切らないことの象徴事例である。スピルバーグの身振りを 「居直り」と決めつける批判は、批判者当人を含め、近代社会を生きる万人を 切り刻む。逆に「辻褄の合わなさ」を自覚的に引き受けつつ「我々」を守る者 こそ、存在自体によって「実話」を体現しよう。
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