西尾幹二のトンチキな見解への批判(笑)を含む文章です
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行為(別様の選択可能性)が「罪=過去言及」を生み、関係(選択不能な事実性)が「責任=未来言及」を生む、というロジックを、映画『マイ・ファーザー』に見出す
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■九〇年代末にスワッピング・サークルを取材した。自分が本誌に提案した。幾つか驚くことがあった。そのうち一つが、参入動機が極く少数のパターンに整理されることだった。ネットのせいで有象無象が参入するようになる以前だったこともあるだろう。
■印象的だった参入動機がある。どちらかの浮気発覚から浮気合戦になる。喧嘩が絶えない。そこで気付く。喧嘩するのはなぜか。嫉妬するからだ。嫉妬するのはなぜか。(多くの場合)愛しているからだ。嫉妬で別れるのは、愛ゆえに別れるのと同じ。これは逆説だ。
■愛ゆえに別れるという逆説。この逆説を回避したがる賢明な夫婦が、嫉妬を、愛の絆を強化するべく逆用しようとスワッピングに乗り出す。そうした夫婦が集うサークルは、愛の濃密さと業のダルさが入り交じった独特の匂いを醸し出す。そこには再帰的関係がある。
■前回、家族をありそうもない共通前提を共同で維持する演技空間だと定義した。「お兄ちゃんたらダラシナイんだから」「お前は嘘がつけないからな」等の役割期待から「我が家は何でも話し合いで解決する」等の共通ルールまで、反事実的な共通前提を維持する。
■反事実的な共通前提の維持が「家族/非家族」の差異を作り出す。共通前提はかつての血縁関係や共住共食と違い、成員外の誰もが知る合意事項ではない。成員だけが内容を知り、前提維持への個人的なコミットメント度(家族契約!)が各自の「家族度」を決める。
■その意味で、血縁関係や共住共食がなくても、夫婦は家族だ。だが共同で維持される共通前提は、選択したものではなく、むしろ選択できないことで全選択の背景をなすような選択前提だ。だから選択前提の虚構ぶりが明らかになった途端、全選択が不可能になる。
■先のような動機でスワッピングに参入する夫婦は、「ある晴れた朝、突然に」こうした破綻を経験した。「家族/非家族」の差異化に用いる共通前提への個人的コミットメントは破棄された。定義では家族解散──。「にもかかわらず」、二人は別れない選択をした。
■その際、嘘を予感しながらも一緒に居続けた、または、嘘がばれてから喧嘩しながらも一緒に居続けた、という事実の共有が、別水準のありそうもなさ──新たな共通前提──として見出されている。但し今度は、自然発生的な虚構でなく、敢えてする事実の共有だ。
■新たな共通前提は、敢えて別れない選択をした瞬間、同時に選ばれた。今度の共通前提は再帰的だ。浮気合戦や痴話喧嘩の「地獄」は、旧約の離陸面から新約の着地面への跳躍に必要不可欠な「祭り」だったのだ(選択前提をも選択の対象とすることを再帰化と言う)
■ラクロの小説『危険な関係』を嚆矢に、浮気合戦や痴話喧嘩を経由した「関係の再帰化」モチーフはフランスの小説や映画で何度も反復されてきた。日本でも島尾敏雄の自伝小説『死の棘』以降、小説や映画で反復された。最近のものが前回触れた映画『空中庭園』だ。
■ここで読者に質問。地獄「にもかかわらず」二人が敢えて別れなかったのはなぜか。ろろん「それでも愛していたから」という答えが想像できる。だが同じ条件がありながらも、実際には別れる夫婦が大方だ。とすれば実際には何が生じているか。今回はこれが主題だ。
【何を知らない子孫が罪を負う?】
■ペーター・シュナイダー原作、エジディオ・エロニコ監督・脚本『マイ・ファーザー』(03)は「にもかかわらず」を徹底的に焦点化する。アウシュビッツで双子を中心に三千人を生体実験して殺害したヨゼフ・メンゲレの、息子を主人公とした実話ベースの映画だ。
■人呼んで「死の天使」メンゲレを父に持つヘルマン。父ゆえに苦難の人生を送ってきた。数限りないイジメ。世間の指弾。だから名前も変えた。彼は1977年、ブラジルはマナウスに潜伏する父メンゲレを訪ねる。父からの謝罪を引き出すべく。32年ぶりの再会だった。
■数限りなく聞かされた悪行を挙げ、父の反省を迫るヘルマン。だがメンゲレは遺伝学者として国家からの指令に従っただけだとして罪を認めない。それどころか、アマゾンの密林で周囲を指さしつつ、生存競争=優勝劣敗の原則を引合いに出して、自らを正当化する。
■自分は「人間」を傷つけたことはないと豪語する父に絶望した息子は、父を撲殺しようとするが、どうしても果たせない。ブラジルに同行した友人と共謀して父をブラジル警察に摘発しようとするが、これも、警察が父の支援者とグルで、友人は逮捕されてしまう。
■父の前に立つと、信じてきた人間主義が儚くも相対化されてしまう。打ちひしがれた息子はドイツに逃げるように帰り、一切の顛末を沈黙する。それから八年。マナウスの墓地の白骨死体がメンゲレだとのリークがある。息子は沈黙を破り、それが父だと発表する。
■現地には世界中のマスコミとユダヤ人らが殺到する。群衆の一人が、父親が人殺しなら息子も同罪だと叫ぶ。ホテルに籠る息子をユダヤ人被害者集団団に雇われた弁護士が訪い、父の死が擬装ではないかと疑いをぶつける。息子は贖罪の如く八年前の顛末を語り始める。
■ラストに主題が集約される。弁護士は息子が「贖罪の如く」語るのを認めず、問いつめる。《父親を庇護ったのでないなら、なぜ八年も黙ってた》《私の父だから》。そしてむろん、息子だから名乗り出た。観客は問われる。深き絶望「にもかかわらず」息子が八年後も父子関係を解消しないのはなぜかと。
■「死の天使」ぶりを確認した「にもかかわらず」父子関係を続ける(続けざるを得ない?)息子。監督は「子孫が罪を負う理由を考えるための寓話だ」と語る。子孫が罪を負う理由?何も知らない子孫が罪を負うのか?私はヴァイツゼッカー大統領の演説を思い出す。
【罪は個人(行為)に由来、責任は集団(関係)に由来】
■1985年5月8日、敗戦記念日の連邦議会で、西ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは「1945年5月8日〜あれから四十年」と題した記念講演を行う。「戦争を知らぬ世代」も戦争責任を負うべしとする格調高い演説として、ご存じの向きも多かろう。
■彼は以下のように語る。《若くて犯罪の計画と実行に加わらなかった私の世代でも、実際に起こったことを知らずに住ませようと試みた者が多すぎました。…[年長世代でも]知らなかったとか夢にも思わなかったなどと言って弁明した者が多すぎました》。
■こうも述べている。《[当時成人だった]ドイツ人は誰でも…ユダヤ人移送列車が通ることに気付かなかったはずはないのです》。《彼ら[戦争を知らぬ世代]も…過去がもたらした結果に関わらざるを得ず、それについて責任を負っています》。
■だが巷の誤解と違い、彼はドイツ国民の「集団の罪」を認めない。また「戦争にの謝罪」もしない。因みに東西&統一ドイツは、旧交戦国との間に講和条約を結んでおらず、「対国家賠償」はしていない。代わりに内外のユダヤ人やロマに「対個人補償」をしてきた。
■ヴァイツゼッカーの論理は一見すると難解だ(実は簡単だが)。理解するには彼が下敷きにするヤスパースの1946年講義『罪の問題』の論理を知る必要がある。そこでヤスパースは人間の罪を四分類した。㈰刑事的罪、㈪政治的罪、㈫道徳的罪、㈬形而上的罪、だ。
■刑事的罪の処罰者は「国家」、科せられるのは「刑罰」。政治的罪の処罰者は「戦勝国」、科せられるのは「賠償&権利制限」。道徳的罪の処罰者は「良心」、科せられるのは「悔い改め」。形而上的罪の処罰者は「神」、科せられるのは「無力の自覚」だ(因みに形而上的罪とは、仲間たちが殺されて自分だけ生き残った場合に感じる罪障感)。
■ヤスパースは四分類と別に「個人の罪/集団の罪」の区分を出す。国家が科す刑事的罪・良心が科す道徳的罪・神が科す形而上的罪は、「個人の罪」以外であり得ぬとしつつ、戦勝国が科す政治的罪だけが「個人の罪」はもとより「集団の罪」でもあり得る、とする。
■理由は三つ。第一は、政治体制に加担したから。第二は、加担せずとも受忍したから。第三は、加担も受忍もせずとも(たとえ抵抗しても)問題ある政治的現実の中で自己形成したから。この三番目は集団の道徳的罪「のようなもの」で、誰も逃れられないとする。
■そう述べるヤスパースは、他方前述した如く「道徳的罪は個人にしか問えない」とする。これは矛盾。この矛盾を解消すべく、ヴァイツゼッカーは「集団の罪」を認めない。現に、先に紹介したような、彼の挙げる「許せない弁明」は、大方「個人の罪」に関わるものだ。
■但し《彼ら[戦争を知らぬ世代]も…過去がもたらした結果に関わらざるを得ず、それについて責任を負っています》は違う。彼は「戦争を知らぬ世代」には「個人の罪」があり得ないと言うからだ。ここで彼は罪Schuldと責任Haftungを厳密に区別している。
■彼は「戦争を知らぬ世代」に「罪がなくても責任がある」と言う。罪とは「非難可能性」のこと。「別様の選択可能性」に対応するカント的責任概念に相当する。大人は別の行為を選択できた「はず」だから罪があるが、子供は「はずがない」ので罪がないというのだ。
■「罪がなくても責任がある」の意味について、彼は1995年元旦の朝日新聞で、自分の車を他人が運転して事故を起こしたら、自分に罪Schuldがなくても責任Haftung(ドイツの法律用語では民事賠償責任にHaftungを充てる)を負うのがいい例だ、と述べている。
■先に紹介したヤスパースの議論には、将来のドイツ政府による戦後賠償を、根拠づける意図があった。だが東西ドイツの分裂ゆえに、戦後賠償は棚上げとになった。代わりに、政府や州や私企業が、ユダヤ人に限らず様々な戦争被害者に個人補償を拡大中である。
■ヴァイツゼッカーの議論は二つ目的がある。第一に、これらの個人補償の将来的継続を「責任Haftung概念」で正当化する。第二は、にもかかわらず「戦争を知らぬ世代」を、ネオナチ的反発の生じやすい「罪Schuldの重荷」から解放する。実に周到な目的設定だ。
■西尾幹二『国民の歴史』が言う。《ドイツの巨額補償は、賠償ではなく、ナチ犯罪に対する「政治上の責任」の遂行である。したがってどこまでも「個人」の次元で処理されねばならない。「集団の罪」を認めない歴代ドイツ政府の立場は、ここでこそ貫かれねばならない。ナチ犯罪にドイツ国家は「道徳上の責任」を決して負わない。…ただしドイツ国家が「政治上の責任」を果たすために、財政負担をする》。この男は何も分かってない。
■正しくはこうだ。全ての罪は「個人の罪」。年長の各ドイツ人に罪はあるが、戦争を知らぬ若者たちに罪はない。だが責任なら、車を貸した所有者が事故の罪を問われなくても責任を問われるのと同じ理屈で、全ドイツ人=集団にある。だから政府が個人補償を行う。
■ヴァイツゼッカーは言う。《罪は個人に関わると見る…世界観は、個人主義的かもしれない。一方、責任の問題とは、不正義によってもたらされた結果に対する責任だ。この場合の責任は個人とは結びつかない。…ドイツ人全員が責任を負わねばならない》(前掲紙)
■ヤスパースは「ドイツ政府による」対国家賠償を「集団(成員全体)の政治的罪」で正当化しようとした。ヴァイツゼッカーは対国家賠償に代わる「ドイツ政府による」対個人補償を「集団(成員全体)の責任」によって正当化しようとした。実はそれだけのことだ。
【罪=過去言及。責任=未来言及】
■「子孫まで含めた集団の罪」はなくとも「子孫まで含めた集団の責任」はある。それがヴァイツゼッカーの論点だ。『マイ・ファーザー』のエロニコ監督が言う「子孫が負う罪」が、ヴァイツゼッカーが言う「子孫まで含めた集団の責任」に対応するのは、自明だろう。
■監督が罪の言葉を誤用した訳ではない。パウロの『エフェソの信徒への手紙』に見るように、個人が直接犯す罪と別に、食物連鎖の如く我々が互いに関わり合う(教会をなす)ことを忘れるという個人の罪がある。「集団の責任」を忘れる「個人の罪」があるのだ。
■ヴァイツゼッカーの罪と責任の対比は「過去への言及」と「未来への言及」との対比だとも見做せる。罪には賠償という「過去を修復する手打ち」が対応する。責任には補償という「未来のための意志」が対応する。罪の贖いは一回的だが(賠償)、責任は永続する。
■例えば西ドイツ&統一ドイツは「過去の克服」と呼ばれる取組みを続けてきた。㈰加害者追求、㈪個人補償、㈫再発防止、を柱とする。全てが「未来言及」を含む。因みに、社会システム理論家ルーマンは、過去言及は他者言及で、未来言及は自己言及だと言う。
■㈰〜㈫のどれも、未来の自己に言及する象徴行為なのだ。㈰は1979年に時効廃止、対象もナチに限らず大量殺害としたので追求は永続的だ。㈪は国家賠償と違って範囲が次々と拡大されてきた。㈫はネオナチ取締りを思想信条表現の自由に優先させる枠組を継続中だ。
■行為(別様の選択可能性)が「罪=過去言及」を生み、関係(選択不可能な所与の事実)が「責任=未来言及」を生む。罪は「過去清算=手打ち」を要求し、責任は「未来企図=不屈の意志」を要求する。関係とは、ドイツ国民たること、父の息子であること…云々。
■外的事情で「責任の遂行」しか選べなかったドイツは、皮肉にも、未来に向かう不屈の意志への信頼を勝ち得た。外的事情で「罪の清算」しか選べなかった日本は、皮肉にも、未来への如何なる意志をも信頼されぬまま終わった。未来言及の不在が招いた悲劇だ。
■そこで冒頭に戻る。『空中庭園』での家族は、互いに「家族契約の違反者」である「にもかかわらず」互いに絶縁しなかった。『マイ・ファーザー』でのメンゲレの息子は、父親が「死の天使」であり続ける「にもかかわらず」絶縁しなかった。いったいなぜなのか。
■即ち「絶縁できた」のにしなかったのはなぜか。「絶縁できなかった」からだ。矛盾ではない。正確にはこうだ。別の人間なら「絶縁できた」のに彼だから「絶縁できなかった」。絶縁しようとしたソノ関係こそ、彼の彼たる所以を構成するものだったからである。(大澤真幸の『論座』2005年7月号の論考はこの種の関係の選択を「先験的選択」と呼ぶ)
■別の人なら別の選択が可能なのに、本人だから別の選択が不可能であるよう「関係」。別の選択が不可能な「関係」の御陰で、その他の総ゆる選択が可能になる。だが別の人なら別の選択が可能だから、「『にもかかわらず』ソレを選ぶのはなぜか」と問われ続ける。
■そうした「関係」を欠けば、固有名自体の同一性が損なわれなくても──宮台が別人と入替わる訳でなくても──自分を何者でもないと感じる。他方、自分を入替え不能な何者かであると感じるのに不可欠な「関係」は、「責任=未来企図」の内発性をもたらす。日本は「過去の清算」をしないのでなく「(周囲が期待する)未来の責任」を負わないのだ。
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