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マル激トーク・オン・ディマンド更新しました。


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■マル激トーク・オン・ディマンド 第433回(2009年07月25日)
密約問題が示す無法地帯と化した日本外交の現実
ゲスト:河辺一郎氏(愛知大学現代中国学部教授)


<プレビュー>
http://www.videonews.com/asx/marugeki_backnumber_pre/marugeki_433_pre.asx

 戦後の日本外交を象徴すると言っても過言ではない、核兵器の持ち込みをめぐる日米間の密約が、皮肉にも日本外交の実態を白日の下に晒し始めている。
 60年の日米安保改定時に、核兵器を搭載した米艦船の寄港や領海通過を日本が容認したとされる「密約」は、過去にライシャワー元駐日大使の証言や機密指定が解かれ公表された米公文書資料によって、その存在が何度となく取りざたされてきた。
 しかし、このたび村田良平元外務次官らが密約の存在を正式に認めたことで、密約の存在を否定し、非核三原則を国是として掲げてきた日本政府の外交政策の正当性が、いよいよ問われる事態を迎えている。なんと言っても日本は、唯一の被爆国として戦後一貫して核兵器に反対し、核軍縮に努めることを国内外に向けて高らかに謳ってきた国だ。にもかかわらず、その国が実は自国への核兵器の持ち込みを容認し、しかもその事実を50年間も隠し続けていたということになるからだ。
 日本政府は依然として、密約の存在も、核持ち込みの有無も言下に否定するばかりで、半世紀もの間、その存在を否定し続けてきた理由を説明しようとしない。そのため日本では、米軍の核持ち込みが容認されているという現実の上に立って、これからの安全保障を議論することすら、できないでいる。
 国益を守るためには、自国民や他の国に対して外交交渉のすべてを明らかにできない場合もあり得るだろう。その意味では、密約そのものを全面的に否定すべきではないかもしれない。ただし、それは一定の期間を経た後に、必ず事実が明らかにされ、その正当性が検証されることが大前提となる。この期に及んでも、密約の存在すら認められない日本政府や外務省の立場を見ると、そもそもこの密約が真に国益を守る目的で秘密にされてきたかどうかすら、怪しくなってくる。
 日本外交をウォッチしてきた愛知大学の河辺一郎教授は、日本は外交の舞台で核軍縮に関してイニシアチブをとったこともなければ、国連の核兵器に反対する議決に対しても、率先して反対もしくは棄権をしてきたのが現実だという。安全保障政策においてアメリカの核の傘に依存する日本にとって、核軍縮はもはや外交上の大きな関心事ではなかったのだ。むしろ、核の傘を提供してくれているアメリカの意向を慮ることこそが、日本外交にとっては唯一無二の重要課題であり、こと外交に関する限り、それ以外のことは真剣に考える必要すらなかった。
 つまりアメリカの核の傘に守られているからこそ、そしてそれが密約という形で担保されているからこそ、日本は表面上は非核三原則や核廃絶や平和主義を訴えることができたが、実際にその真贋が問われる外交交渉や国連決議の場では、実は日本外交は何度も馬脚を現していたということになる。知らぬは日本人ばかりなりということか。
 河辺氏は、日本の外務省が事実上法を超越した存在として、国会のチェックすら及ばない状態にあることに、日本外交が国民から乖離したり暴走したりする原因があるとの見方を示すが、その一方で、その責任は外務省だけはなく、外交政策のチェックや検証を怠ってきた外交の専門家やジャーナリストにもあると指摘する。
 来る総選挙で民主党が勝利し、政権交代が実現した時、日本のチェック無き外交の病理を断ち切る千載一遇のチャンスがめぐってくる。しかし、今のところ外交政策や外務省のあり方が選挙の争点になる気配は全く見られない。残念ながらこれが今の日本の実情のようだ
 今回は密約問題を入口に日本外交が抱える問題を河辺氏と議論した。また、国連の専門家でもある河辺氏に、民主党の国連中心主義への評価を聞いた。  


<今週のニュース・コメンタリー>

・韓国国会がクロスオーナーシップ法をめぐり紛糾
・現実路線に軌道修正か。民主党が政策集を公表
・太陽光発電、買取制度の詳細が明らかに
・解散から総選挙まで41日?


<関連番組>

■マル激トーク・オン・ディマンド 第256回(2006年02月23日)
日米偽装同盟はここから始まった
ゲスト:西山太吉氏(元毎日新聞記者)

■プレスクラブ (2009年07月13日)
核密約を否定した政府答弁は修正を
河野太郎 衆院外務委員長記者会見

■プレスクラブ (2009年03月17日)
西山太吉さんらが密約文書の開示を求めて提訴
投稿者:miyadai
投稿日時:2009-07-26 - 17:40:56
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マル激トーク・オン・ディマンド更新しました。


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■マル激トーク・オン・ディマンド 第432回(2009年07月18日)
やっぱり日本にも保守政党が必要だ
ゲスト:杉田敦氏(法政大学法学部教授)


<プレビュー>
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 自民党政権が、いよいよ土壇場を迎えているようだ。東京都議選の惨敗で、このままでは次期衆院選での敗北が必至という状況を迎えながら、自民党内ではいまなお内輪揉めが続き、窮余の一策さえ打ち出せないでいる。そこにはもはや、半世紀にわたり日本を治めてきた長期政権政党の姿は見いだせない。
 しかし、より深刻なのは、自民党が自らの政党としてのアイデンティティを見失っているかに見えることだ。この期に及んでも、党内から聞こえてくる声は、誰の方がより人気があるかといった表層的な議論ばかりだ。政権交代のチャンスをうかがう民主党は政策面、とりわけ安全保障政策面での党内不一致が取り沙汰されることが多いが、自民党に至っては伝統的保守政党なのか、小泉改革に代表される新自由主義政党なのか、はたまた何か別の物なのかさえ、定かではなくなってしまっている。これではもはや政党の体を成していないと言っても過言ではないだろう。
 1955年の保守合同で保守勢力としての歩みを始めた自民党だが、そもそも自民党が政治的な意味で保守政党だったと言えるかどうかは再考を要する。再配分を主張する勢力は政治学的にはリベラルもしくは社民勢力と呼ばれ、保守の対局に位置づけられるが、政治学者の杉田敦法政大学法学部教授は、自民党は自らが政治基盤を置く農村への再配分を主軸とした政策を実行してきた政党であることから、世界でも特殊な「再配分保守」という位置づけになるという。
 戦後直後の日本はまだ農村社会であり、自民党は農村に政治的基盤を置き、農村開発を通じて再配分を行うことで国民の広汎な支持を獲得してきた。その後、高度経済成長とともに、自民党は池田内閣の所得倍増計画に見られるような、市場重視の伝統的保守主義に軸足を移していくが、市場経済がもたらす利益は公共事業によって農村に還元するという再配分政策だけはその後も続いた。政治思想的には伝統的保守を標榜しながら、実際は再配分政党であり続けたことが、自民党の特色だった。
 しかし、農産物の自由化や大型店舗法改正などアメリカからの規制緩和要求が強まる中で、農村の疲弊は避けられないものとなる。その後1990年代の低成長時代に入ると、そもそも地方に最配分するための財源が底をつき始め、自民党型再配分政治の統治モデルがいよいよ立ち行かなくなる。
 そこに登場したのが自民党をぶっ壊すをスローガンに颯爽と登場した小泉元首相だった。国民の高い支持に支えられた小泉政権は、自民党の伝統的な利益再配分政治を一掃し、新自由主義へと舵を切った。それが功を奏し、自民党は少なくとも一時的に農村政党から都市政党への脱皮に成功したかに見えた。
 しかし、小泉政権の新自由主義的政策は、それまでの再配分で「一億総中流」と言われるほど所得の平準化が進んでいた日本で所得格差を急拡大させ、公的補助の削減によってセーフティネットからこぼれ落ちる困窮層を急拡大させた。小泉政権以後の自民党政権では、改革の負の面が一気に吹き出し、構造改革路線も立ち行かなくなる。しかし、かといって今更農村政党に戻ることもできず、自民党は政策的には「八つ裂き状態」(杉田氏)に陥ってしまう
 その間隙をついて、それまで必ずしも方向性が定まっていなかった民主党は、小沢一郎代表のもと、再配分に主眼を置いたリベラル政党としての方向性を固めていく。また、農家の戸別所得補償制度などを主張することで、小泉改革の下で自民党が置き去りにした農村票を丸々奪うことに成功する。
 しかし、自民党が迷走するのも無理からぬ面があった。保守というからには保守すべき対象が問われる。冷戦下の保守勢力が保守すべき対象は日米同盟であり、自由主義経済であることは自明だった。しかし、今日の日本の保守勢力が保守すべき対象が何であるかについてコンセンサスを得ることは決して容易ではない
 来る総選挙の結果、民主党政権が誕生した場合、日本では事実上初めてのリベラル政権の誕生ということになる。人間の理性を過度に信じ、正しい政策を行えば必ず社会は良くなると過信する傾向があるリベラル政権には、対抗勢力として、伝統や慣習の中に蓄積された叡知を信頼する保守政党が必要だ。自民党が保守政党として再興し、民主党政権の暴走をチェックするとともに、有権者に別の選択肢を提示することは、日本の議会制民主主義の安定のためにはどうしても不可欠だ。
 政権交代がいよいよ現実味を帯びてきた今、日本の保守政党に求められる条件とは何かを、杉田氏と考えた。  


<今週のニュース・コメンタリー>

・河野外交委員長 密約で政府答弁の変更求める
・都内タクシー 車載カメラの映像を警察に提供へ


<関連番組>

■マル激トーク・オン・ディマンド 第391回(2008年09月27日)
自民党システムの終焉
ゲスト:野中尚人氏(学習院大学教授)

■マル激トーク・オン・ディマンド 第331回(2007年08月03日)
データから見えてくる「やっぱり自民党は終わっていた」
ゲスト:森 裕城氏(同志社大学法学部准教授)

■マル激トーク・オン・ディマンド 第307回(2007年02月16日)
西部邁流、保守主義のすすめ
ゲスト:西部邁氏(評論家・秀明大学学頭)
投稿者:miyadai
投稿日時:2009-07-18 - 15:34:40
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紀伊國屋書店新宿本店−じんぶんや 第52講「14歳からの社会学」開催中!

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に (単行本(ソフトカバー))
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【じんぶんや 第52講「14歳からの社会学」 選者:宮台真司】

紀伊國屋書店新宿本店5Fにて開催されているブックフェア「じんぶんや」
今回で52回目を数える名物企画の選者に満を持して宮台真司さんが登場します。
ベストセラー『14歳からの社会学』に絡め、いまだからこそ読みたい、
読んでおきたい本を選書いただきました。

5Fフェア会場では各書籍に宮台さんが寄せてくださったコメントを
まとめた冊子もご用意がございます。
冊子は数に限りがございますのでどうぞ
お早めにお越しください。



日 時:7月7日(火)〜8月8日(土)
場 所:紀伊國屋書店新宿本店5F
〒163-8636 東京都新宿区新宿3-17-7
お問い合わせ:03-3354-0131(代表)


(以上、文責は主催者側です)

http://bookweb.kinokuniya.jp/bookfair/prpjn52.html


投稿者:miyadai
投稿日時:2009-07-17 - 21:25:13
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マル激トーク・オン・ディマンド更新しました。

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■マル激トーク・オン・ディマンド 第431回(2009年07月11日)
ミツバチが知っていて人間が知らないこと
ゲスト:中村純(玉川大学ミツバチ科学研究センター主任教授)


<プレビュー>
http://www.videonews.com/asx/marugeki_backnumber_pre/marugeki_431_pre.asx

 今年の春、農作物の花の受粉に使用されるミツバチの不足が全国各地で伝えられた。花粉交配用ミツバチは、特にイチゴやメロンなどのハウス栽培作物に欠かせないため、海外から繁殖のための女王蜂を輸入することで安定供給を図っていたが、輸入の8割を占める豪州産女王蜂に伝染病が発生し、輸入が止まったため需給に混乱が生じたことが、今回の日本におけるミツバチ不足の直接の原因だったようだ。
 しかし、ミツバチの大量死や減少は、日本だけでなく、世界各地で多発している。特に米国では、蜂群崩壊症候群(CCD)と呼ばれるミツバチが巣箱から突然消えていなくなる現象が3年前から各地で発生し、農業生産に大きな打撃を与えている
 ミツバチの消滅や大量死の原因には諸説あるが、ミツバチ研究の第一人者である中村純玉川大学ミツバチ科学研究センター主任教授は、全米で起こったCCDについては、人間がミツバチを農業用の資材として酷使したことで、ミツバチに過度なストレスがかかったことに原因があったとの見方を示す。
 アメリカでは花粉交配用のミツバチは農業生産に欠かせない家畜として、開花の時期に合わせて巣箱ごと全米各地をトラックで長距離移動させられる。しかも、単一作物が植え付けられた広大な農地での受粉作業は、ミツバチにとって栄養バランスの悪い食事以外の何ものでもない。
 移動の疲れに栄養不足など過重なストレスがかかったミツバチが、ダニ、ウイルス、農薬など既知の外敵への抵抗力を低下させていた可能性も否定できない。実際、アメリカではミツバチの栄養と衛生状態を改善した結果、今年はCCDの発生はほぼ治まっているという。
 ミツバチの大量死が顕著だったアメリカには、そのような特殊な事情があったと見られる一方で、アメリカほどではないものの、やはりミツバチの不足や減少が発生している日本や欧州では、ネオニコチノイド系農薬に原因の一端があるとの見方が有力だ。
 ネオニコチノイド系農薬は、人体に有害な有機リン系農薬に代わる新種の農薬として開発され、近年その使用が急激に増えている。人体への影響はないが、昆虫の神経系に打撃を与える特徴を持つとされる。
 欧州ではネオニコチノイド系農薬を使用した農地の周辺でミツバチの大量死が報告されたため、現在フランスやオランダなどでは全面禁止され、EU全体でも禁止の方向に向かっているという。
 日本ではカメムシ被害によってコメの等級が下がることを避けるために、稲田でネオニコチノイド系の農薬が広範に利用されるようになっている。カメムシ被害に遭った稲は、コメに微少な斑点がつく。しかし、食味上何の影響もない斑点米の僅かな混入でコメの価値が下がってしまうことを避けるためにネオニコチノイド系農薬が大量に使われ、ミツバチを含む生態系に多大なストレスを与えている現状は、果たして合理的と言えるだろうか。また、科学的には人体には影響しないとされるネオニコチノイドでも、一定量を超えて使用されれば、影響があるとの指摘もある。
 このように世界的なミツバチの大量死は、単純な因果関係で説明できないが、一つはっきりしていることは、農業が産業化し、ハウス栽培などでミツバチを工場の機械の一つのように扱うようになったことと無関係ではないことだ
 アメリカでのミツバチの酷使はもとより、ネオニコチノイドについても、ミツバチの受粉期は農薬の散布を避けるなどの小さな工夫で、ミツバチへの影響を最小限に抑えられる可能性はある。
 昨今のミツバチ大量死は、農業においても生産性と効率のみを追求するあまり、ミツバチを農業資材としか見なくなった人間が、その程度の配慮さえできないまでに利己的になっていた現実を、訴えかけている。
 またネオニコチノイドも、「人体に影響がない」との能書きで近年一気に利用が広がっているが、仮に人体への影響がないことが本当であったとしても、それだけで大量使用することは、生態系の他の生物のことを全く無視しているとの誹りは免れない。それがミツバチに打撃を与え、更にそれが農業生産に影響を与えることで、結果的に回り回って人間に大きな不利益をもたらしていることになる。
 社会性動物であるミツバチは、女王蜂を中心に一つのコロニーを形成し、コロニー内では数千から数万の働き蜂が、それぞれ明確に決められた自分の役割分担を果たす。ミツバチはまた、高度なコミュニケーション能力を持ち、例えば8の字ダンスは良い蜜の在り処を他の蜂に伝える伝達手段なのだという。人間はそのような高度に進化したミツバチさえも、効率的農業生産の道具としてしか見られなくなっているようだ。
 地球の生態系では、被子植物の多くがミツバチの受粉に頼って生きている。互いが互いを必要とする生物相互関係の中でミツバチも植物も進化を遂げ、動的平衡が保たれてきた。その精妙なバランスを身勝手な論理で人間が崩したことが、ミツバチ消滅が起きた真の原因と考えるべきかもしれない
 しかし、ミツバチの生態の逞しさや複雑さを見ていると、環境に対して開かれているが故に環境の影響を受けやすいミツバチよりも、環境を克服するために環境から自らを隔離し、生態系との相互関係を失ってしまった人間の方が、なぜか脆弱な存在にすら思えてくる。
 中村氏は、だからこそ人間はミツバチの視座を持つことが大切だと説く。人間を中心に据えるのではなく、他の生き物の立場に立って生態系のあるべき姿を再考すれば、生物多様性の本当の意味が自ずと見えてくるはずだと言うのだ。
 今世界でミツバチに起きていることや、ミツバチの類い希な習性や生態から、我々人間は何を学ぶべきかを、ミツバチ博士とともに考えた。


<今週のニュース・コメンタリー>

・児童ポルノ法改正: 行政の裁量拡大に無警戒な政治の惨状
・なぜ今、供託金引き下げなのか


<関連番組>

■マル激トーク・オン・ディマンド 第405回(2009年01月07日)
だから男はみんなできそこないなんだ
ゲスト:福岡伸一氏(青山学院大学理工学部教授)
投稿者:miyadai
投稿日時:2009-07-12 - 15:29:15
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僕の1999年ベスト1『日曜日は終わらない』(高橋陽一郎監督)が一夜限り公開。

皆さん!!
直前の告知で申し訳ありません。

僕の1999年ベスト1映画として『絶望 断念 福音 映画』でも紹介させていただいた、真の意味での幻の名作が、なんと今夜一夜かぎり、関係者のご尽力によって、公開されます。

高橋陽一郎監督は、まったりとした個人宅上映会に招待させていただいたりしたこともある、NHKの天才ディレクターです。

あの、急逝された林由美香さんが、この世に存在するのか存在しないのか分からない不思議な役柄で出演していらっしゃいます。

以下のホームページにおける告知をご覧ください。
ミヤダイ・ドットコムの過去ログにもある、この映画への言及も、大きく紹介されています。

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  本日、ポレポレ東中野にて
  高橋陽一郎監督『日曜日は終わらない』(出演:水橋研二、林由美香)
  が一夜限りの特別上映!(7/5(日)21:00より)

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こんなに素晴らしく、美しい、死にたくなるような映画(正確にはハイビジョンドラマ)を見られる機会は、滅多にありません。
映画が好きな皆さんは、なにをおいても、出かけてご覧になってください。

ちなみに僕自身は、この作品を、60回以上観ております。
(ごめんなさい、高橋陽一郎さんから直接ビデオテープをいただいているんです)

「嗚呼、テレ日トシネマ−雑記−」さま、トラックバックでのお知らせ、ありがとうございました!
以下は、ミヤダイ・ドットコムの過去ログ(上記リンクから辿れますが、きわめて長大)からの抜粋です。


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宮台:僕はもともと屋上が大好きなの。だからヤクザ映画でもピンク映画でも屋上が出てくるたびに興奮した。さっき言った若松孝二の『ゆけゆけ二度目の処女』もほとんど全編屋上の映画。ヤクザ映画でもピンク映画でも、屋上って非常階段と同じ意味で「中途半端」で変ちくりんな場所。だから、普段起こらないことが起こる、っていうモチーフ。

熊坂:「中途半端」ってのは?

宮台:僕が昔に書いた文章があるんだけど、僕はずっと団地や学校の屋上にいたの。なぜ自分が屋上にいたのか。皆は、居場所のないヤツが屋上にたむろしたんですよ。不良も含めてね。

熊坂:あ、そうなんですか?

宮台:うん。僕は孤独な少年だったから。屋上で煙草吸ったり、アマチュア無線やったり、天体望遠鏡で星空…っつうか、女の子の家をのぞいたりしてた。で、なぜ屋上なのか。僕の考えでは、第一の理由は「機能的な空白」だから。たとえば学校で言えば、校庭は運動する場所だし、教室は学ぶ場所だし、廊下は歩く場所でしょ。

熊坂:あ、わかった。そういう意味で。

宮台:屋上って、とりわけ昔はそういう機能がなかった。だから「何もない場所」なの。

熊坂:「曖昧な場所」ってことですか?

宮台:「曖昧な場所」。だから「通行人」にもならなくて済むし、「勉強する人」にもならなくて済むし、「スポーツする人」にならなくても済む。「誰でもない人でいられる」ってのがあるわけ。

熊坂:はいはいはい。

宮台:あと、第二の理由は、屋上って、周囲に開かれていて、どこでも見渡せるし、街頭音も聞こえるでしょ。その意味で「開かれた場所」。なのに、屋上って「柵を越えたら死」じゃないですか。「どこかに行けそうで、どこにも行けない」場所なのね。
 だから場所自体がメタファーになるの。『ゆけゆけ二度目の処女』は、そこを凄く巧く使ってた。屋上って「開放的密室」なのね。開放されているのに密室で、密室なんだけど開放されてる。
 若松孝二で言えば、69年っていう年のメタファーなわけ。69年は「革命の時代」でもあったし「学園闘争の時代」でもあった。若い奴らが結構ハジけて、当初はどこにでも行けそうな感じがあった。けれど結局どこにも行けなかった。
 69年は「自由が輝いた時代」なんじゃなく、「どこかに行けそうで、どこにも行けない時代」。期待外れが巨大な抑鬱感を生んだ。抑鬱感がますます「ここではないどこか」を希求させて、希求がますます抑鬱感を増幅した。
 そういう意味で、屋上って「曖昧な場所」だし「両義的な場所」。それが第三の理由につながる。つまり、曖昧さや両義性が、民俗学的時空――辻や橋やトンネルみたいな――を与えるわけ。民俗学的時空は祝祭の場所でもあって、性別や権力関係が逆転させられる。
 たとえば、若松孝二の映画や当時のヤクザ映画でいうと、強いヤツと弱いヤツの立場が逆転する場所になるわけ。『ゆけゆけ二度目の処女』でも、レイプされた少女と、少女に恋をする管理人の少年が、彼らを陵辱したフーテン連中を惨殺するでしょ。
 その意味では別に屋上じゃなくてもいい。ラロ・シフリンの『冒険者たち』だと、城塞に覆われた無人島でドンパチするのを覚えていらっしゃると思うけど。非常階段や屋上や無人島や廃墟が舞台であれば、ふつうならば描けない凄惨な殺戮が生々しく描けるわけ。

日比谷:僕は、いじめられっ子だったんですけど。屋上と公園でよくいじめられました。

宮台:僕も、そう。

日比谷:やっぱり、そこだといじめやすいのかなって思ったんですけど。

宮台:いじめやすいんだよ。でも「一発逆転の妄想」も屋上を舞台にしやすいよね。

熊坂:僕は実家が内装屋じゃないですか。屋上があったんですよ。小っちゃいときから屋上が好きで、よく行ってたんです…しょっちゅう行ってて。屋上に対する思い入れは僕もあって。色んな屋上に行きました。それこそ。
屋上は、割と僕的には日常的には一人になる場所で。でも花火大会とかなんかそういうことがあると皆集まってくるんですよ。僕の家が、結構高かったから。見に来るの。近所の人たちが。皆でバーべキューしながら花火したりとか。
あとはまあ、僕が友達つれてきて、僕もいじめられた経験あるんですけど。友達が来るんですよ、屋上があると。屋上で遊びたいから。
屋上には、たくさん、色んな思い出があるってことなんですけど。

日比谷:社宅の上が屋上だったんですよ。その意味で同じですね。やっぱ友達が遊びには来るんだけど、それはあくまで屋上に来たいんであって、僕と遊びたいわけじゃないんですよ(笑)。

熊坂:わかる。その感じはわかるなあ。わかるわかる。

宮台:結局、屋上って「ヤバイ場所」なんだよ。だから、ヘタにストーリーに取り込むと収集つかなくなっちゃうっていうのは、よくわかる。ただ、屋上っていうと「何かが起こる場所」っていうふうにわくわくしちゃうんです。
 でも『パーク アンド ラブホテル』では、むしろ何も起こらない場所、時間が止まる場所でしょ。いつ行っても「同じ風景」があり、いつ行っても「同じ匂い」がするっていう。でも、それもまた屋上の特性なんだよね。流動性よりも非流動性っていう。
 いつも「同じヤツ」がいるというわけじゃない。「同じヤツ」じゃなくて「同じようなヤツ」がいるの。都市社会学者の磯村栄一のいう、公でも私でもない「第三空間」。僕のいう、学校でも家でも地域でもない「第四空間」。だから映画をみて、なるほどと思った。

日比谷:出さんの"屋上観"として、ああいう割と落ち着ける場所に…

熊坂:そんなことはないけど…

日比谷:…にしたかったというわけではない?

熊坂:いや、今の話がまさにそれを示していて。多分、それぞれがそれぞれの思いとか経験を持って、色んな解釈を持てるんですよ。屋上って。曖昧であるがゆえに。だから、これからも、多分、屋上ってのは出てくるんだろうな、と思います。いろんな機能を持って。

日比谷:別にあれで全部、最初から最後まで、言いたいことを言ったわけではないってことですね。屋上について。

熊坂:屋上の一つの機能を持ってきた…ってだけじゃないですかね。

宮台:なので、ストーリーの中に屋上を活かさないということで、「屋上マニア」としての僕が思ったのは、なんかもっと凄いことがいろいろ起こってもいいのに、物足りないかなって(笑)。

熊坂:それは、わかりますけどね。

日比谷:美香(注:『PAL』登場人物)が髪を染められるシーンとかさ、マリカ(注:『PAL』登場人物)が自分の診断書を捨てちゃうシーンとか、あのシーンをやっていながら、皆、日常にいる、っていう、ああいう図式の中で使うっていう、ああいうポイントでは使われているわけじゃないですか。

熊坂:まあ、そうですね。美香とかねえ。

日比谷:そういう感じってところに留めたかったんですかね?ノート焼いちゃうのもそうじゃないですか。結構、ポイントになるとこは屋上には持ってきてるな、とは思ったんです。

熊坂:ええ、まあ、そうですね。ポイントは屋上に持ってきました。それは物凄く意図的に屋上に持ってきていました。

日比谷:そうだよね。ずーっとあのどどめ色に溜まっちゃった水がこぼれるのもそうだし。

熊坂:全部屋上ですよ。ポイントは。

宮台:NHKディレクターの高橋陽一郎が作った『日曜日は終わらない』っていう凄くいいハイビジョンドラマがあるの。権利関係が片付かなくてビデオやDVDになってないどころか、映画館でもかけられない。上映運動をやって1回上映したこともあるんだけどね。
 物凄い傑作なんだ。で、この『パーク アンド ラブホテル』と、屋上の使い方が似てるんですよ。屋上での散髪シーンとか、夕暮れの屋上の使い方とか。でも、似ているぶん、かえって違いが際立つところがある。
 高橋陽一郎って僕と年が違わないせいもあって「中途半端な場所」というコンセプトをつきつめるの。たとえば「現実だったのか夢だったのかわからなくなる」とか「それがいつだったのかわからなくなる」みたいに時間が変性しちゃう場所として描かれているのね。
 けっして大袈裟な描かれ方じゃない。でも、主人公たちがそこを通過するたびにリセットされちゃう。「あれは何だったのか」「どういう意味を持つのか」わからなくなっちゃう場所として描かれるわけ。それに比べて、やっぱり日常なんだよね、屋上の描かれ方が。
 だからこそ、さっき言ったような効果もある。今、町の中で、いつ行っても同じ空気感があって、人がたまっている場所があるか。磯村英一は、花柳界や色街なんかを例にして「馴染みの場所」っていったけど。そんな場所は今はないでしょ。
 だから、『パーク アンド ラブホテル』の屋上は、アジールはアジールなんだけど、磯村英一的なアジールだよね。誰もが立ち寄れって自分に戻れるっていう感じの。


日比谷:これは、ちょっと、これは僕の凄い印象…主観なんですけど。"ラストシーンで皆を追い返すための屋上"っていう感じに、僕は感じたんですけど。あのラストシーンのために、屋上というのがあるだけでも、僕の中ではそれを納得してしまって。宮台さんのご指摘も色々と感じるところはあるんですけど、あそこで「人間だったら帰りましょう」って追い返して、一人になって、また日常が繰り返される感じの象徴として、あの引きで、ロールが流れて、一人になっちゃうシーンが凄く好きなんです。物悲しいんだけど。僕には、リアルだった。ただ、宮台さんが言われたような、「もっと」という感じは、確かに屋上に突っ込んで考えれば、あることはある。

宮台:僕が「屋上映画」だと思って見るから問題があるんであって。今おっしゃったことは僕も感じます。りりィ(注:『PAL』艶子役)はあのパラダイスの主催者なんだよね。でも彼女は自分の人生を主催できたって思えない。だからある種の代償行為として屋上を主催する。悲しい代償行為って感じがするの。でもそれは「いけない」って意味じゃないんだ。多かれ少なかれ、人はそういう代償行為を生きているわけ。そんな中では、一番いいものを代償行為にしているなって思う。

日比谷:色々あって結局は役所に電話した後、屋上に上がって来たときに、何とも言えない笑顔で(屋上の風景を)見るじゃないですか?

熊坂:はい。

日比谷:あそこにある"屋上の風景"に結末というのがあって、「"ちょっとだけ"皆、成長した感じ」がある。それが僕にはすごくリアルで。でも、そんなにすぐ物事は解決しない感じが。

宮台:そうですね。

日比谷:全然解決してないんだけど、ちょっと変化したっていうところが、僕はすごく好きなんです。

宮台:でも僕に言わせるとね、解決しているの。なぜかって言うと、彼女の日々の課題は、さっき監督に言ったんだけど、「火が消えちゃった女たちの心に火を点けること」なのね。

日比谷:ああ。はいはい。

宮台:皆、火を点けられちゃう。あの主婦(注:『PAL』登場人物)もそうだけど、火が点いたから「バイバイ」なのね。彼女は、屋上を主催するだけじゃなく、ちょっと枠を広げて「花咲かじいさん」みたいな役割を果たすってところに自分の存在意義を広げてる。
 だから、ラストの彼女の顔も、その意味で言えば――僕の母が死んだばかりだからそう思うのかもしれないけれど――「もう自分は死んでもいいな」みたいな感じがあるのかなって感じました。火を点けるだけ点けて。明瞭な区切り感がありましたね。

熊坂:区切りはあるんですよ。決心はしたからね。ただ、まあ揺れるだろうな、とは思いますけれどね。色々あるだろうし。これからもね。
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投稿者:miyadai
投稿日時:2009-07-05 - 15:48:10
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