MIYADAI.com Blog

MIYADAI.com Blog
123456789101112131415161718192021222324252627282930

Written

モダンフェイズ・システムズのウェブサイトはこちら

承前4

承前3につづく

宮台 近代社会の社会システムでは、以前とは違ったことが起ります。たとえ〈社会〉の外側に〈世界〉が拡がると観念される複雑な社会でも、近代以前には〈社会〉のクロックと〈世界〉のクロックがシンクロしました。日の出と日の入が典型ですが、〈世界〉の時間に合わせて〈社会〉を営むしかなかったのです。社会が複雑になってくると、至る所にサブシステムができて、それぞれ特別なクロックを持った作動領域になります。そうなると、人が〈世界〉のクロックなんぞに共振されちゃたまらない。ランディさんのおっしゃる通り、近代社会では僕たちが〈世界〉から隔離されがちになるわけですね。
 複雑な〈社会〉が回るには僕たちが〈世界〉から隔離される必要があります。以前の社会のように僕たちが〈世界〉に開かれていたのでは〈社会〉が回らない。だから、複雑な〈社会〉になるほど、僕たちから〈世界〉への敏感さが免除されるどころか、敏感さが制約される。それが近代社会です。近代社会にはまだ二通りの人間がいる。一方に〈世界〉との接触の記憶を鮮やかに持つ人がいる。他方に〈世界〉から隔離されて〈社会〉に閉ざされた状態しか知らない人がいる。前者は「超越系」、後者は「内在系」になりやすい。
 〈社会〉の外に出て〈世界〉と接触できる人から見ると、レヴィ=ストロースやランディさんがそうですが、〈社会〉と〈世界〉はとりたてて区別すべきものじゃなく見えます。でも〈世界〉と接触した経験がない人から見ると、〈社会〉と〈世界〉の区別は巨大です。だから、とりわけプラトン以前の初期ギリシャ哲学で繰り返し主題化されてきたように、〈世界〉と自在に接触できる人かどうかで、人間の質が決定的に異なるのです。端的にいえば、〈社会〉の中しか見えない人間にはヘタレが多い(笑)。何かというと不安や不信で右往左往するのです。〈世界〉と接触する力を持つ人間は、不安や不信でおたおたせず、内発性に基づいて前に進みます。ハナ・アーレントなら「依存か自立か」と仕分けします。
 プラトン以前の初期ギリシアは自立を推奨し依存を退けました。〈世界〉に感染する力のある者は〈社会〉の原理――意味や立ち位置――に縛られず内発的に前に進めます。この内発性とは〈世界〉に感染する力です。こうした力のない者は意味や立ち位置を気にして〈社会〉を生きるしかない。初期ギリシアのアテネでは市民が全て重装歩兵でファランクス(集団密集戦法)という戦闘形態をとったことが、こうした価値観をもたらしました。社会システムのあり方が変われば価値観を社会的に維持するのは難しくなります。でもかつてそうした価値観がかつて存在したと知ることは実存的指針にはなります。折口信夫もそうした価値観に憧れた。社会を生きながら星々によって貫かれているようなあり方です。

田口 (省略)

宮台 ランディさんがおっしゃったことで重要だと思ったのは、多くの人は星々を見て、山に登って、海を見渡して、「ああこれでまた明日から仕事がばりばりできるぞ」みたいになることですね。僕は以前からそれをシャワールームに喩えてきました。週に一度シャワーを浴びてはまた汚れた仕事場に戻るようなあり方。別に悪くない(笑)。でもそれは〈社会〉自体が想定し、〈社会〉が自らに積極的に組み込んだレクリエーション装置です。確かに多くの人は〈世界〉との接触というとリゾートをイメージする。でも大乗・小乗・密教という区分を使えば、認識としては出鱈目だけど、大乗的な入門編としていいかなと。

田口 (省略)

宮台 僕はある時期まで今とはまったく違う考えを持ってたんです。僕のような「超越系」の人間は、やっぱりどこかおかしいんだろうと。神経症みたいなものかもしれないと。普通の人間は「内在系」なんじゃないかと。そういう普通の人間のほうがむしろ自由なんじゃないかと。そう。近代社会を生きる上では「内在系」のほうが自由なんですよ。そういうふうな考えがあったからこそ、ブルセラや援交する女子高生を「まったり革命」の名のもとに擁護したんです。

田口 (省略)

宮台 そう思ってました。だから、彼女たちのなかに、「内在系」であるがゆえに流動性を軽々サーフィンして生きていけるような、僕から見るとあり得ないような「自由な存在」を見ていたんです。俺もそういうふうになれたら素晴らしいなと憧れてたんですよ(笑)。

田口 (省略)

宮台 でも、九七年の酒鬼薔薇事件から少年犯罪ラッシュが続いた頃、援交する女子中学生や女子高校生たちが「メンヘラー」になっていくんですね。それで僕は分析し直す必要にせまられました。分析し直してみると、ブラセラ&援交女子高生たちは、第一世代・第二世代・第三世代にに分かれるんです。ブルセラ&援交現象が拡がり始めた92年に高校生になる77年生まれからが第一世代。援交がピークをすぎた96年に高校生になる81年生まれからが第二世代。ウェブサイト出会い系が拡がる2001年に高校生になる86年からが第三世代です。第三世代についてはちょっとスキップします。
 第一世代と第二世代の間には断絶があります。前半の子たちは「内在系」じゃなく、むしろ「超越系」が多かったんですよ。いわば日常を普通に生きているだけでは収まらない子。幸せにしているだけでは幸せになれない子。だから周囲から自意識や好奇心や冒険心が強いと思われている「とんがりキッズ」。彼女たちは非日常的な全能感にアクセスしようとしていて、援交がカッコイイことだったのね。そんな彼女たちはとても豊富な「自己物語」を持っていました。「なんでそういうことをしてるの?」と尋ねると、しゃべることが山のようにあって、とまらない(笑)。

田口 (省略)

宮台 そうそう、そういうやつ。ところが第二世代の子たちになると喋らなくなるんです。当初、僕は援交する子たちから自意識がなくなったのだと思いました。でも間違っていました。実は、端的に援交がカッコワルくなったことが大きい。理由の第一は、援交がフォロワーに拡がって、先端的な子がやってるイメージじゃなくなったこと。第二は、94年のデートクラブ一斉ガサ入れ以降、それまでセックス抜きで援交していた子たちがテレクラに流れて元々のテレクラルールに適応してセックスしはじめ、価格破壊が起ったこと。価格が安いのはカッコワルイ。第三に、96年から「お部屋族」化が起こり、街でガンガン遊ぶ「安室奈美恵」的な生き方が陳腐化し、街での居場所稼ぎの必要が減ったこと。第四に、カッコワルくなってるのに「まだ」やってる子は、95年からオンエアされる『エヴァンゲリオン』の碇シンジみたいな「生きにくい系」だというイメージが拡がったこと。
 つまりね、援交が、自由のシンボルから不自由のシンボルに変わったわけ。先端的な子というよりも自傷的な子がやるというイメージに変わったんですね。これは「超越系」の子が撤退したという意味では必ずしもない。むしろ「超越系」であることが、カッコイイものからカッコワルいものへ、先端的なものから自傷的なものへ、と変わっちゃった。そのせいで、「超越系」の中でも、周囲からリスペクトされて集団をひっぱる子は援交から撤退し、周囲からダサいと思われている「生きにくい系」が援交するようになりました。
 僕が「メンヘラー化した」と言うときに、主に注目するのは、この第二世代です。第一世代の子たちは「頭がいい超越系」ですから、「援交が輝いた時代」が終わって万能感が頓挫した結果、一時的にはメンヘラー化しました――当時取材した子たちの多くがそうなりました――が、まあ世間の基準からいえば過剰に身を持ち崩さず、あるいは持ち崩した後に立ち直っています。彼女たちは今ではたぶんランディさんの本とかを読んで……。

田口 (省略)

宮台 「メンヘラー」になって、おクスリ漬けになったり精神科リピーターになったりしたのは、当初の僕が「自意識がない」と思った子たちです。結局「都市的現実」を軽々サーフィンして生きていける「内在系」なんてそれほどいなかったのですね。僕にとって「希望の星」が消えたけど、入れ替わりにやるべき別の仕事が見えた。“そうか。「内在」だけで生きていけない人間がむしろ多数なんじゃないか。だったら僕のやるべきことはいっぱいあるぞ”という感じ。そのことが伏線になり、99年の読者自殺で僕の勘違いを修正するべき責任を感じて、『美しき少年の理由なき自殺』『サイファ』で方向転換した。
 確かに「内在」だけで生きていけるように見える人間がいることはいます。でも僕の考えではそれが実は前提に満ちているんですね。一定の環境条件に支えられてはじめて可能なことであって、条件が変わると途端に挫折しちゃうんですよ。ラッキーな条件に支えられて「内在」だけで生きてきたような人間は、〈社会〉と〈世界〉の二項図式についての免疫がないので、「老いらくの恋がやばい」のと同じで、突如〈世界〉に触れると、死んじゃうことを含めて過剰な方向にいっちゃうんじゃないか、というのが僕の観察ですね。

田口 (省略)

宮台 さっきジャック・マイヨールに触れたとき「北」と「南」の話が出ました。「北」と「南」のどこが違うのかってことなんです。〈世界〉という全体性との接触を憧憬するロマン派の中にも、峻厳な山並やリアス式海岸に象徴されるような北方的なものや北欧的なものに関心を持つ勢力と、シチリアやマルタ島といった南欧的なものに関心を持つ勢力と、ふたつあるんですね。僕は若松孝二監督のある映画の企画の相談を受けたときに……。

田口 (省略)

宮台 そう。そこで再び「北」と「南」をめぐる同じ疑問につきあたります。なぜあの少年は母親を殺した後、自転車を何百キロもこいで「北」に逃げたのかという謎。歴史を振り返っても、事を起こして社会の中でいられなくなったときに、「北」に逃げる連中と「南」に逃げる連中がいるんですよ。実は「南」に逃げるやつは『ソナチネ』じゃないけどヤクザが多い。「北」に逃げるやつは過激派みたいなカタギの思想系に多いようですね。

田口 (省略)

宮台 ロマン派の問題もあって、これは何なのかなって考えてきて、何となくこうじゃないかなと思うことがあるんです。キーワードば「人の海」ですね。ランディさんが『7-days in BALI』にも書かれているように、「南」のインドとか東南アジアを旅行する経験が与えることは何かというと、「人の海」の中に沈むという経験です。日本や欧米にいるときには自明だったはずの「個人の尊厳」という観念が急速に漂白されて「ここで俺が死んでも誰も気がつかないんだろうな」と感じる。しかしそれが不思議と幸せな感覚なのですね。
 「北」のツンドラで死んでも誰も気がつかないでしょう。でも意味が違う。氷や雪の中で静かに凍死していく感覚と、人の海の中にホワイトノイズのように消える感覚は違います。「北」に行っても「南」に行っても、自分の輪郭を成り立たせてきた〈社会〉のイメージが溶解して、未だ経験したことのない全体性のイメージが立ち現れるのは、確かに同じです。でも〈社会〉のイメージが溶ける仕方が違う。「北」では〈世界〉の絶対性が立ち現れ、その前で〈社会〉が相対的なものとして縮んで消えていく。「南」では〈社会〉の絶対零度が立ち現れ、その前で既知の〈社会〉が幻のように霞んでいく。
 たぶん田口さんもそうでしょうが、僕は「南」系なんですよ。〈世界〉と接触しようと思うとき、人がいない「北」に行こうと思うことはありません。「南」ですよね。人だけでなく魚も亀も鳥もごまんといます。魚や亀や鳥は自分とはまったく違った時間を生きている。それだけじゃなく、そこに生きる人も自分とは違った時間を生きているのです。こうした違った時間同士が重なりあい、まるで真夏の森のなかの蝉の声のような趣きです。さっきホワイトノイズといったのは、そうしたことを意味します。人や植物も含めた生き物たちの異なる時間が醸し出す交響が〈世界〉を告げ知らせる、それが「南」ですね。

田口 (省略)

宮台 二つの軸がありますね。人の海があるか、人が孤立しているかという軸。肥沃か、肥沃じゃないかという軸。さっき僕がいった「南」は、人の海と肥沃さとがある場所で、「北」は、人が孤立していて肥沃さがない場所です。田口さんの行かれたウクライナは、「北」は「北」でも、人が孤立していながら肥沃な場所です。それとは別に、アフリカの大半は、「南」は「南」でも、人の海がありながら肥沃さが欠けています。それでいえば、日本は、人の海があり、かつ肥沃さもありますから、それ自体僕がいう意味での「南」です。単に〈社会〉の零度が見えなくなっているだけです。ポリネシアンの影響が強いと言われるのも、単に文化伝播の問題ではなく、人の海と肥沃さが両方あるという〈社会〉形態から来ています。
 人の海[−]で肥沃さ[−]を「北A」とします。人の海[−]で肥沃さ[+]を「北B」とします。人の海[+]で肥沃さ[+]を「南A」とします。人の海[+]で肥沃さ[−]を「南B」とします。こうした〈社会〉分類は宗教社会学で重視されます。「南A」の典型がポリネシアです。自然が豊かなので、自然は「非競合的」な公共財になります。そういうところでは女という財も「非競合的」に扱われ、性愛規範が緩くなります。女の労働力の希少性が高くないところでは、俗に言う「やっても減るもんじゃない」という性質が前面に出る訳です。
 ところが「北A」では逆に、食うためには多くの労働力が必要で、労働力の希少性から女という財が希少になって「競合的な財」になるので、性愛規範が厳しくなります。「北B」だと、食うために必要な労働量は多くないので、労働力の希少性はありませんが、人が疎らなので物理的にシェアしずらくなります。「南B」は人口が密集するので、労働力の希少性ではなく労働機会の希少性が焦点化されて、売買春化しやすくなります。
 こうした違いを含めて「南」と「北」の違いを再確認すると、さっきの定義では「北」とは人がいない場所を言うので、実は砂漠も含まれることになります。人の海に揉まれて生きるがゆえに社会的承認力も社会的制裁力も強い「南」では、規範のキツいユルいに関係なく人は〈社会〉を気にして生きるしかないけど、人が疎らで社会的承認力も社会的制裁力も小さい「北」では、こうした承認と制裁の力を〈社会〉の外にある存在、すなわち超越神ないし唯一絶対神へと、投射しやすくなります。
 この超越とか絶対というのは神学的には契約の片務性を意味します。人間と取り引きしないし、取り引きしたように見えて一方的に破るということです。これに対し、人間と取り引きする「御利益神」があります。「南」では、社会的承認力や社会的制裁力の延長線上に「御利益神」を創造しますから、自動的に多神教的なコスモロジーを構成します。部族が違えば違った神がいて、あれこれ離合集散を繰り返し、シンクレティズム(宗教的習合)が進んだ結果、「人がいっぱいいて、いろんな神がいて」というイメージになります。

田口 (省略)
投稿者:miyadai
投稿日時:2007-08-27 - 18:33:16
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)

承前3

田口 (省略)

宮台 僕が改憲派なのはご存じですよね。

田口 (省略)

宮台 なるほど。田口さんの指摘される「9条護憲」と「スピリチュアルなもの」の結びつきは今後顕在化するでしょう[太田光&中沢新一『憲法九条を世界遺産に』という形でその後に顕在化]。ランディさんのおっしゃった、現実的なものとスピリチュアルなものとが結びつく危険については、一九四〇年代にドイツのヘルムート・プレスナーという思想家が「ロマン主義の陥穽」という形で指摘しています。それはドイツのナチズムがいかにして立ち上がったのかという疑問に対する答えとして述べられています。ただし検閲を恐れてプレスナーはナチズムのナの字も用いていませんがね。
 プレスナーの答えは、ドイツの初期ロマン派が後期ロマン派へと短絡されるプロセスの延長線上にナチズムが出てきたというものです。すると問題は、初期ロマン派が出てきたのはなぜかと、後期ロマン派へと短絡されたのはなぜか、に分割して答えることができる。前段は、ロマン派的感受性がそもそもどういうふうに立ち上がったのかということです。
 ロマン派的感受性とは、一口で言えば「部分に全体を見出す感受性」のことです。だからしばしば主観主義と同義で用いられます。「アバタもエクボ」という奴ですね。これは、ロマンチック・ラブ(ロマン派的恋愛)において「ただの俗なる女に崇高さを見出す」現象が注目されたことに由来する、誤用です。正しくは、主観主義かどうかに関係なく、全体性に帰依する作法のことです。
 ヴァルター・ベンヤミンならば、部分性に宿る全体性のことを「アウラ(オーラ)」と呼びます。彼はアウラ概念を「神性降臨」から引き出しています。神が降りるという観念ですね。神とは全体性です。厳密には超越性という特殊な全体性です。超越性とは〈世界〉――ありとあらゆる全体――の外にあることを言います。神が〈世界〉を作ったのなら、論理的に神は超越でなければなりません。神が降りる場合、〈世界〉の中の事物――これを超越に対して内在と言います――に降臨します。降りる対象はシャーマンだったり自然現象だったりする。超越である神には、論理的にみて我々がアクセスできるはずがない。だからこそ、数多ある内在の中でも特殊な事物だけが超越への通路になるとされます。
 ロマン派的感受性は形式的には「神性降臨」の反復です。ただ厳密な「神性降臨」とは一ヶ所だけ違う。降臨するのが超越(〈世界〉を超えた神)という特殊な全体性ではなく、〈世界〉という全体性であるところです。トーマス・マンの『魔の山』じゃありませんが、峻厳なる山並とか荒れ狂う海原であるとかに、〈社会〉を超えた〈世界〉を見出すのです。僕はよく「〈世界〉からの訪れ」という言葉を使います。これはまさにロマン派的感受性そのもの。このロマン派的感受性がどうして「時代の意味論」として結実したのでしょう。
 プレスナーの回答はこうです。彼によればドイツは不幸な場所です。なぜならばヨーロッパの他の地域に存在したような人々の宗教性――超越への志向――を受けとめる受皿がなかったからです。理由は、ドイツは長い間四分五裂した領邦国家で、宗教勢力が領邦国家の王という世俗になびくことで生き延びるしかなく、宗教権力のご都合主義的な腐敗堕落のせいで人々がキリスト教的なものへの期待を抱けなくなったからです。でも人々は宗教性を必要とします。プレスナーは理由を述べませんが、僕的に言えば〈世界〉の根源的未規定性――前提を欠いた偶発性――を比較的無害な形で受容するには、全体性を想像することが必要だからです。「神さまの意思だから」といった体験加工がその典型ですね。
 プレスナーは、社会を生きる人々の大半には宗教性への志向があり、それを受けとめる宗教が存在しない場合、ロマン派的感受性――「峻厳なる山並」や「荒れ狂う海原」が〈社会〉を超えた〈世界〉を示すという類い――が生まれるのだとします。そこでは〈世界〉が、我々のアクセスを拒む全体性として――不可能なものとして――想像されます。だから「峻厳」であり「怒濤」なのです。これが初期ロマン派的感受性です。これが短絡され、「ドイツ民族」「アーリア第三帝国」「ヒトラー」が崇高だといった形で、単なる内在に過ぎないものを全体であるかのように想像する作法、すなわちアクセスできる内在として――可能なものとして――全体を想像する頽落した作法が、拡がります。こうした頽落形態こそが、ナチスにつながる後期ロマン派的感受性です。
 この説明図式はと応用範囲が広い。戦後日本にも使えます。どこの社会にも全体性を志向する人がいます。僕は「超越系」と表現します。全体を志向しなくても済む人々もいます。「内在系」と表現します。読者のために分かりやすく言うと、内在系は「いい社会になればみんなが幸せになれる」と考える。ところが超越系は「どんなにいい社会になっても幸せになれない人がいる」と考える。僕は超越系です。超越系にとって幸せは退屈です。幸せな家族をぶち壊して怒濤の経験をする中に、濃密なドラマがあるんじゃないかと思ったりする。順風満帆な性愛に苛立ち、めちゃくちゃ自堕落な関係を生きてみたりする。
 超越系をみると人間が不条理な存在だと分かります。人間が不条理な存在であるのを賞揚する主意主義的な立場を「右翼」と言います。資本主義を否定する左翼/肯定する右翼。再配分を肯定する左翼/否定する右翼。そうした枠組が通念でしょうが誤りです。再配分を全面肯定する「右翼」がいるからです。北一輝や石原莞爾がそうでしょう。自民党がそうだったでしょう。「右翼」とは、たとえ再配分を肯定しても、それだけでは幸せになれない人がいることを認めかつ賞揚する立場なのです。そこには宗教的次元が関係します。日本の場合、北一輝や石原莞爾や宮沢賢治のように法華経が大きな役割を演じてきました。超越系とは、読者のために分かりやすく言えば、全体性に帰依したがる立場のことです。
 支えるものと支えられるものとの関係が崩れ、あらゆるものが正統性を欠いた恣意的な事実性として現れる。それが近代成熟期=ポストモダンです。何か全体的なものに資するべくアレがありコレがある、とは思えなくなった社会です。したがってポストモダンとは、超越系にとって辛い時代です。戦後、大東亜共栄圏がダメになった。やがて、天皇陛下もダメになった。昨今では、日本国民も何のことやら分からない。愛国を騙る政治家も安倍晋三のようなクソだらけ。いったい自分たちの全体性に対する志向を何に向けたらいいんだ。そう考えると、三島由紀夫や石原慎太郎ならずとも、超越系は苛立たざるを得ません。
 そこで、行き場を失った全体性への志向=超越的志向が、憲法9条や平和主義に向かう。本当は「祈り」の対象にしてはいけない政治的形象を「祈り」の対象にしてしまう。その意味で「受け皿の不在ゆえに頓挫した超越的志向を誤射する」というプレスナーのロマン派的感受性の規定が当てはまります。だからランディさんのおっしゃる「スピリチュアルと憲法9条との結合」は不思議なことじゃない。旧枢軸国と言われた所では、急速な近代化を達成するために後期ロマン派的な疑似超越の形象を利用しまくった後、敗戦によって疑似超越の形象が除去されたため、超越的志向が行き場を失う急性アノミーが襲ったのです。この急性アノミーが日本では非現実的平和主義や全体主義的左翼運動をもたらします。
 旧連合国の連中から見ると、旧枢軸国の連中は、単なる内在に崇高な超越を見出すという意味で、全能感への願望の切断に失敗した小児病患者に見えます。フロイト的な立場から言えば神経症的不安です。旧連合国から見ると旧枢軸国には神経症患者がごまんといる。この連中をどうしたらいいんだろうか。それを考えてきた思想の系列をフランクフルト学派と言います。だからフランクフルト学派はフロイト派と近縁なのです。僕がいま言ったような流れを完全に理解してる人は、日本ではあまりいなくて、マルクス主義の一派のように見做している人が多いでしょう。
 そんなことはどうでもいい(笑)。問題はそこから先です。「九条みたいなちゃちなものに全体性を投射してどうするんだ、おまえ」っていうツッコミは重要です。でも「じゃあ、僕たちの超越的志向の妥当な受皿ってなんなんだろう」と、やっぱり僕みたいな超越系の人間は考えちゃう。精神科を受診する「心理学化した人々」もいるかもしれないけど、僕みたいな領域で仕事をする連中は社会政策的な解決を志向します。社会のこういうボタンを押せば歩留まり8割――周囲に迷惑をかけずに超越系の人々の8割が満足してもらえるんじゃないか――みたいに考えるんです。ガバナンス志向ですね。その意味で「批判よりも安堵」だと思っています。

田口 (省略)

宮台 なるほど。ランディさんのような超越系の人間から、内在系の人間がどう見えるのか。実は議論の対象になってきているんですね。たとえばデビッド・フィンチャー製作総指揮の『ロード・オブ・ドッグタウン』という実話ベースの映画がある。三〇年ぐらい前に、スケートボードの基本的な技術をすべて編み出した四、五人の少年たちがいました。アメリカは西海岸のベニスという貧しいさびれた町の下層階級の連中です。夏休みにバカンスで留守になった金持ちの家に忍び込んで、水のないプールのなかで、いろんなスケボーの技術を編み出していき、それを世界に広げていった。
 対照的な三人の少年が出てきます。サーファーから分派したこの連中は基本的に全員〈世界〉と接触できる連中です。そうじゃないと「限界を超えて」サーフィンやボードができない。彼らは死を怖れる普通の人間にはできないことをやる。なぜか。「限界を超える」ことの快楽があるからです。まずトニーという少年。三人の中で最も優れたスケーターです。彼に注目してカネを出そうとする資本が群がります。ボードやウエアの広告に出ろ、雑誌の表紙に出ろ、という具合に。トニーはそれに迎合し、億万長者になります。対照的なのがジェイ。優秀なボーダーだったけど、資本への迎合を不純だとして一切拒絶します。スケボーに酔うのは〈世界〉の原理であって〈社会〉の原理じゃないと。でも最終的には食えなくてストリートギャングになっていく(笑)。
 この二人を観察するスペイシー・ペラルタという少年がいます。彼はジェイとトニーの間で揺れる。最初はジェイのように拒絶するけど、途中からトニーのようにスポンサーシップを得て雑誌の表紙を飾る。そのペラルタが長じて、4年前『DOGTOWN & Z-BOYS』というドキュメンタリー映画を作り、今回は脚本を提供して『ロード・オブ・ドッグタウン』という劇映画ができました。両作品に共通して“〈世界〉に接触できる人間が〈社会〉で金持ちになったりウマク生きるために他人の操縦に憂き身をやつすのは、不純か”って問いがある。娯楽映画なんで、最後は“〈世界〉に接触するという共通体験を持つ仲間じゃないか”と、唐突にユニティ(統一性)が実現し、問いは答えられずに終わるわけです。
 サーフィン映画で思い出すのが、ジェームズ・キャメロン監督の奥さんキャスリン・ビグローが監督した『ハートブルー』。サーフィン映画とギャング映画が雑ざったジャンル不明の作品です。キアヌ・リーブス演じるFBI捜査官と、『ゴースト』のパトリック・スウェイジ演じるギャングのボス。そのギャング・チームが普段はサーファー・チームなんです。二人とも天才的な運動神経があるけど対照的。片や〈世界〉との接触体験を豊富に持つパトリックにとっては〈世界〉こそ重要で〈社会〉はクソ。だから銀行強盗でもなんでもやる。キアヌはサーファー・チームに潜入することで、パトリックから次々と〈世界〉との接触体験を与えられ、職務を忘れてパトリックに心酔する。ところがどうしても〈社会〉を撤てられない。ジャック・マイヨールとエンツォ・マイヨルカの対照ですね。
 古くなるけど、ワーグナーとニーチェの対照にも同じ図式が見られます。ワーグナーは、ナチスドイツの好んだ後期ロマン派を代表する音楽家。ドイツ民族の崇高なる精神共同体を引喩するような音楽を繰り返し作りました。ニーチェはワーグナーが嫌いでした。正確には、愛深きがゆえに憎しみも深し。ニーチェはワーグナーのロマン派的感受性に憧れた。でも同時にワーグナーの極端な俗物性が我慢できなかった。音楽家、特にオーケストレーションを実現する音楽家は、建築家と同じで、あらゆるリソースを動員しなきゃいけない。いろんな人に取り入り、いろんなところから金を集める。人を騙しながら手足のように使い、建築家だったら建物を建てるところをオペラを作るんです。
 ニーチェはそれを「不純だ」と見なしたんですね。どうなんでしょう。〈世界〉に接触できる人が〈社会〉にまみれることは不純でしょうか。あるいは、より効果的に〈世界〉に接触するために〈社会〉的資源を狡猾に動員することは不純でしょうか。あるいは、ニーチェの如きプラトニズムが純粋なのでしょうか。初期ギリシア的なものをノイジーなものだとして終わらせたプラトン自身の評価にもつながる話です。僕の結論ははっきりしている。生半可な奴だけが「不純だ」として嫌うんです。
 なぜ〈社会〉にまみれるのを嫌うか。むろん、そんなことで崩れる程度の〈世界〉との接触体験なのかというのもあるけど、もっと論理的な問題もある。〈社会〉なんかどうでもいいと言うのだったら、関わって関わらなくてもグライヒギュルティッヒ(等価)であるはず。それを不純だとかゴニョゴニョ言う時点で、逆に“なんで〈社会〉にそんなこだわってるの?”とかえって反問されてしまいます。ヨーロッパでは、プラトン以降のこうした主題に関する思考の伝統はかなり分厚い。そうした分厚い思考伝統に触れると、“〈世界〉に接触できる人が〈社会〉にまみれることは不純か”という、僕だけでなくいろんな人がつきあたる疑問に対する解答のパターンが、すでる示されていることが分かります。
 日本は同じく旧枢軸国だけど、ドイツの人たちに比べると、日本の人たちは自分たちが何を感じ考えてきたのかという歴史に無自覚で、過去の失敗について反省が甘いから同じ失敗を繰り返す。ボン基本法と日本国憲法の国民的な扱いを見れば差は歴然としています。たとえばフランクフルト学派を見てみる。旧枢軸国にありがちな超越的志向。これをダメだというだけじゃ始まらない。全体性への志向を持ってしまった超越系の人はどうしたらいいか。危険な全体性の比較的安全な代替物として、アドルノならば「美学」を、ハーバーマスならば「理想的コミュニケーション状況」を持ち出します。
 アドルノは「美学」に反するものとして近代に懐疑的で、ハーバーマスは「理想的状況」を実現するためのゲームのプラットフォームとして近代に肯定的だという違いがあるけど、問題意識は共通です。しかも近代において「美学」や「理想的状況」が不可能であることも先取りされている。つまり後期ロマン派を否定し、初期ロマン派に回帰しています。日本ではそうした問いがあったか。残念だけと皆無です。だから憲法9条のような具体物が崇高なものとして立ち現れるのです。それじゃ後期ロマン派と区別がつきません。こうした理路を突き詰めてきた者から見ると、日本の人は初歩的な錯覚に陥りやすいと言えます。
 違った観点に繋げます。『ダ・ヴィンチ』連載で6年間〈世界〉と〈社会〉という対立図式を使ってきました。契機は97年の酒鬼薔薇事件で「脱社会的存在」という概念を使ったこと。〈社会〉にコミットする理由を持たない連中のことです。凶悪少年犯罪を取材すると、〈社会〉にコミットする理由を持たない連中が増えているのが分かります。〈社会〉にコミットしているか否かのメルクマールは、平気で人を殺せるかどうか。僕らが人を殺さないのは、殺してはいけない理由に納得するからじゃない。殺せないように育ったからです。だから殺そうと思っても殺せず、あるいは殺そうという選択肢を思いつかない。
 これは道徳教育のおかげじゃありません。コミュニケーションにおける他者からの承認抜きに自分が自分であり得ないような成育環境に育ったからです。逆に「脱社会的存在」の増加は道徳教育の失敗じゃありません。コミュニケーションにおける他者からの承認抜きに自己形成を遂げ得るような成育環境が拡がったからです。そした成育環境が拡がれば、自動的に〈社会〉より〈世界〉が重要であるような若者たちが増えてくることになります。すると、「ダ・ヴィンチ」での連載のサブタイトルが「〈社会〉から〈世界〉へ」だから、素朴には僕が「脱社会化」を奨励しているように読めます。だからこそ「〈社会〉から〈世界〉へ」プラス「〈世界〉から〈社会〉へ」なのだと結論する前に、注釈があります。
 論理的問題ですが「脱社会的」だからといって必ずしも〈社会〉に敵対するべき理由が与えられるわけじゃない。にもかかわらず現実には一部の「脱社会的存在」が敵対します。それはなぜか。「脱社会化」した存在は、〈社会〉にコミットしませんから、本当は何でもできます。天使にも悪魔にもなれます。でも現実問題として多くの「脱社会的存在」が、たとえ暫定的な理由であれ人を殺しません。めんどうくさいからか。それもあるでしょう。罰がつらいからか。それもあるでしょう。でも「殺せるけど、絶対に殺したくない」ということが重要じゃないかな。僕が「往相還相」というとき、それが頭にあります。僕自身やや「脱社会的」なのもあり、「人を殺しちゃいけない理由はない」と書いてきました。

田口 (省略)

宮台 殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それだけは絶対にしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜでしょうか。これは解かれなければいけない問題です。〈世界〉の根源的未規定性を受け入れ可能にする機能をもつ「宗教的なるもの」の真髄に関わる問題でしょう。ちなみに宗教のオリジネーターの多くが「脱社会的存在」だったと思います。天使にも悪魔にもなれる存在だったと思います。にもかかわらず、というか、だからこそ、常人には想像を絶したエネルギーで、あえて〈社会〉的なものに関われたと思っています。問いの解決が、認識として与えられるか、問いを超えるという実践として与えられるかは別にして、宗教的な問題に関わることなので、どうしても映画や文学に素材を探す必要がありました。だから「ダ・ヴィンチ」の編集部に連載企画を持ち込んだのです。
 連載ではすでに暫定的な答えに触れています。「奇蹟へと開かれた感受性」です。とはいえオカルトは関係ありません(笑)。レヴィ=ストロースが『野性の思考(原題:三色スミレ)』のなかに、三色スミレの花を見ていて構造の「ありそうもなさ」に貫かれるくだりがあります。キーワードは「ありそうもなさ」「奇蹟」です。彼は花に奇蹟を見たけど、人やその営みに奇蹟を見出す感受性が「脱社会的存在」を押しと留めるんじゃないか――そういう答案を書く映画や小説がいくつかあります。僕は完全にそれだけが正答だとは思いませんが、有力な解答の一つかなと。
 よく言う話だけど、一〇〇の偶然、一〇〇〇の偶然が重なって、僕が今ここにいる。不思議ですよね。1億匹の精子の中から、なぜその精子が選ばれて、僕として生まれたのかという問題もあります。生まれてからも、事故や事件を含めて、なんどか首の皮一枚でつながってきたという問題もあります。〈世界〉と〈社会〉を暫定的に区別しても、〈社会〉の中に〈世界〉を見ることもできます。あるいは〈社会〉を〈世界〉として――レヴィ=ストロース的まなざしで――眺めることもできます。
 ちなみに最古の社会では、ありとあらゆるものがコミュニケーションの対象たり得たので、〈世界〉は〈社会〉でした。この段階では「天と地(と地獄)」という垂直的観念はありません。それが、社会システムが複雑になるに伴い、〈社会〉の外に〈世界〉が拡がるという感受性が一般的になる。それとともに垂直的観念が出てきました。天空の星座が奇蹟であるように(マクロコスモスと言います)、僕らが営む社会のも奇蹟だ(ミクロコスモスと言います)という発想です。それとともに呪術とは区別された占星術が出て来る。そうした発想によって、レヴィ=ストロース的まなざしへの可能性が開かれたのでしょう。
投稿者:miyadai
投稿日時:2007-08-18 - 16:03:47
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(1)