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年末恒例の「渡辺靖×苅部直×宮台」鼎談、まもなく『週刊読書人』に!

皆さんお待ちかね、年末恒例の「渡辺靖×苅部直×宮台」鼎談が『週刊読書人』に間もなく掲載されます。例によって宮台発言の一部をピックアップしておきます。




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【宮台】震災前に書いた拙論「日本社会の再設計に必要な思考」が、震災直後に出た『朝日ジャーナル』(特集・日本破壊計画)に載りました。日本は既に終っているから再設計せよという話。当時は菅政権が末期状態でしたが、政治的混乱の原因を(1)総理の資質、(2)党の性格、(3)政治文化のどれかに帰属させる議論が専らだった中、(4)先進各国の共通の危機に起因すると考えろと論じた。ポイントは「グローバル化と民主主義の両立不能」です。グローバル化=資本移動自由化が進むと市場も国家もうまく機能しなくなり、民衆が不安に陥る。するとポピュリズムが席巻し、グローバル化への適切な対処から遠ざかります。新興国に追いつかれる産業領域では利潤率均等化の法則通り労働分配率が低下し、格差が拡大するから、産業構造改革と財政出動と増税が必要だけれど、既得権が脅かされると不安がる民衆が抵抗します。こうした各国共通事情を踏まえて、政治風土や党内ガバナンスや総理の資質を考えるべきなのに、スルーする議論ばかり。出版が震災後だった御蔭で多くの人に理解して貰えました。グローバル化と高度技術化が進んだ今、どの国も震災や原発災害の如き非常事態に対処できる統治形態にシフトすべきですが、日本はそうしたシフトがない。ウルリッヒ・ベックがチェルノブイリ事故の86年に出した『危険社会』(法政大学出版会)で、予測不能・計測不能・収拾不能なので利得期待値を計算できない未規定なリスクが、現代を覆うとしました。これにも日本は向き合わず、政府の委員会では未だに期待値計算をしている。ドイツの原子力倫理委員会が、期待値計算が不能な領域を「残余のリスク」として概念化したのと、対照的です。日本でのベック・ブームは何だったのか。
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【宮台】そう。さて「グローバル化と民主主義の両立不能性」と言ったけど、そもそも日本に民主主義があったのか。政治過程論や投票行動論が明らかにするように日本の政治文化は民主主義から遠い。戦後憲法の施行直後に文部省が配った「あたらしい憲法のはなし」。リベラル勢力が推奨してきたこのテクストに「多数決で決めたことは滅多に間違わない」とある。チャーチルの「民主主義は最悪の制度」云々を待つまでもなく、多数決で決めたことは大抵間違いです。民主主義の本義は「参加&自治」と「理性的討議&少数者尊重」。その本義が日本国憲法前文に書いてあるのに、憲法を国民に噛み砕く際に骨抜きにした。占領軍の意図なのか知らないが、戦後の初期段階で民主主義の概念が風化していた。丸山眞男に代表される戦後の近代派ないし啓蒙派の営みにどんな意義があったのか。
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【宮台】文化が制度を不可能すると。でも難しい問題がある。政治文化はあります。僕も〈任せて文句垂れる社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ、〈空気に縛られる社会〉から〈知識を尊重する社会〉へと「べき論」を述べてきた。でも『制服少女たちの選択』(94年)で反復したように「べき論」で社会は変わらない。ここで「文化が社会システムへの主体的な合理的選択だ」とする議論が注目されます。轢き逃げされた少女を通行人らが見殺しにした広東省の悦悦ちゃん事件。中国文化の粗暴が話題になったけど、こんな反論があります。日本人は勘違いしてる。日本人も中国で暮らせば中国人と同様に振舞う。日本人は礼儀正しいから列に割り込まないというのは嘘。中国で暮らしてみろ。列に割り込まなければ死ぬ。生きるには割り込む他ない。見殺しにしたのも同じだ。貧困地域では今でも口減らしのために子供が捨てられ、皆が見て見ぬふりをして通り過ぎる。冷たいと言うなら中国の貧困地区で貧困所得で暮らしてみろ。捨て子を全員引き受けて育ててみろ。薬も食物も買えずに死ぬ。文化といっても既に回っている社会システムを前提にした合理的適応戦略なのだと。社会の行動傾向は文化か合理的選択か。長い論争があります。アンソニー・ギデンズの構造化理論以降は両者に循環が想定されるので論争はもういい。問題にしたいのは、こうした循環があるなら文化の修正は「べき論」でなくソーシャルデザインによるべきことです。そこで僕は〈褒美を貰うべく行政に従う社会〉から〈善いことをすると儲かる社会〉へと提唱する。「補助金行政から政策的市場へ」とも言えるけど、只の「べき論」でなく、〈任せて文句される作法〉や〈空気に縛られる作法〉に淫する共同体を淘汰する戦略です。生ぬるい「べき論」から冷厳な「淘汰と選別」へ。ただし弱者を含めた万人が「淘汰と選別」に晒される事態を想定しない。共同体同士が、優秀で共同体思いのエリートを育成する競争を通じ、非ゼロサム的に切磋琢磨する社会です。
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【宮台】[原発の地元と地元以外リアリティは]決定的には違わない。基地の沖縄や、箱物の誘致で破綻した夕張市と同じリアリティ。自己決定で依存したと言いつつ(自律的依存)、抜けられない依存(他律的依存)に堕するのです。福島原発も立地当初のスローガンは「福島を仙台に!」。仙台の如く発展した暁には原発から卒業すると。夢物語でした。原発がなければ成り立たない社会に変質した。自由意志による契約と言いつつ実は選択肢がない「附従契約」状態。同種の警告をスーザン・ジョージやアマルティア・センが三十年以上前に発したのに愚昧すぎます。
 ソーシャル・キャピタルに根ざしたコミュニティは、ハーバーマス的には〈システム〉への相対的依存から〈生活社会〉の相対的自立へという共同体自治の推奨です。(1)安全保障の観点から推奨するギデンズ、(2)決定正当性の観点から推奨するベック、(3)美学的観点から推奨するラッシュの対比が有名ですが(ギデンズ、ベック、ラッシュ『再帰的近代化』而立書房 97年)、温かいから共同体が大切なのではない。平時に回る〈システム〉が壊れた非常時、〈生活世界〉こそが生命線になるという安全保障が分り易い。飽くまで合理性の見直しです。共同体といえば思考停止を意味する日本とは違う。ソーシャル・キャピタルこそ非常時の生命線。その欠如が如何に恐ろしいか。我々はやっと学びました。
 [ルイ・メナンドの]『メタフィジカル・クラブ』は、リチャード・ローティの「アムネスティ・レクチャーズ」が嚆矢です(ロールズ他『人権について』みすず書房 98年)。人権の形而上学に学者たちが淫するけど、米国では1965年まで黒人も女も人間じゃなかった。誰が人間なのかという境界設定は形而上学じゃなく感情教育の実践問題だと。それを「プラトンからデューイへ」と彼は表現した。無効な「べき論」から「ソーシャル・デザイン」による淘汰へという僕の議論も同じです。人々の行動原則を変えるには何が必要かを問うのがプラグマティズム。それが日本でもリアルになりました。まさにプラグマティズムが見直されるべきで、僕のゼミでもジョン・デューイの『経験と教育』(講談社学術文庫)を読みます。
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【宮台】[現実生活と抽象原理の間を架橋するべく歴史を学ぶの]であれば、行動原則の変更にどんな過程が必要かに関連して、プラグマティックな教育実践を通じたエリート概念再構築を提案したいと思います。柳田國男を読み直して一昨年に没した小室直樹師匠を思い出しました。極貧の母子家庭に育ち、近所の人の助けで高校に行き、京都大学入試の交通費まで出して貰って理学部数学科に入った。神童として共同体から特別扱いをされて帝大生から帝国官僚になった日本的エリートと同じです。昨今は経産官僚らの国民愚民視が問題ですが、柳田的エリートは愚民視どころか負債意識を背負うがゆえに公的貢献動機を持った。公的貢献意識を持つ「べき」などと叫んでも駄目。プラグマティックな教育実践で負債意識を埋め込むしかありません。
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【宮台】人心掌握のポピュリズムとして[自分の過去を忘却しないという巧みなメッセージを送ることで]過去の記憶に訴える橋下戦略は有効だけと、単に批判しても済みません。僕なら「形にこだわる〈伝統家族〉から、機能にこだわる〈変形家族〉へ」と言う場面だけど、かつて機能したモノを、実体として再建するのは、社会的文脈が変わったから不合理です。見かけは昔と違っても機能的に等価な仕組が必要です。
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【宮台】参加的自治のルート[が昔はあったのに壊れたからポピュリズムになるという議論]ですね。ならば行政の役割を変えねばなりません。原発問題、基地問題、箱物問題に共通する需要サイドの「自律的依存ならざる他律的依存」を話したけど、供給サイドに目を転じると行政の不合理が目につく。日本は役人の人口比が小さいのに政府の借金が最も大きい。理由は事業効率の悪さ。〈褒美を貰うべく行政に従う社会〉と言いました。特措法を作り、特別会計を確保し、天下り先としての特殊法人や公益法人を通じて、業界にカネをばら撒く補助金行政。カネの切れ目が縁の切れ目。だから特措法の延長だらけ。イノベーション動機に乏しい。70年代に福祉国家政策が破綻して「小さな政府」が議論された際、欧米では補助金行政をやめる動きが生じ、かわりに「補助金行政から政策的市場へ」の動きが生まれた。行政は〈善いことをすると儲かる社会〉を作り出すルールメイカーになった。事業主体は民間だから金はかからず、イノベーション動機も働く。アメリカではレーガン政権でNPO補助金が打ち切られ、かわりに自ら資金を賄うソーシャル・ビジネスが誕生した。日本では国交省が土木予算をつぎ込む公園建設も、アメリカではNPO。日本のNPOは補助金漬け。それを自明視する市民が問題です。
 ここに更にハードルがある。アメリカでは会社とNPOの間に回転ドアがあり、人材もノウハウも往来します。でも上下両院合わせて三万人のロビイストが政治を動かすアメリカ。メガNPOがルールメイクに影響力を行使し、大規模な広告や広報で寄付金を集める。かくしてNPOと社会的ニーズが乖離します。ルールメイクが民主的じゃない訳です。
 そこで住民投票や国民投票に合わせて開発された北欧の「コンセンサス会議」が注目されます。議論するテーマ毎にコーディネーターをバトンタッチし、顔が見える範囲でワークショップを積み重ね、住民投票を通じてルールメイクする。日本で住民投票というと産経や読売が批判するポピュリズムの衆愚政治を想起するけど、そうした恐れがあるからこそ、住民投票が開催される1年後に向けて、議会でのステイクホルダーの手打ちと区別された中身のある議論をやり、住民同士が相互に陶冶し合って民度を上げる。そこでの行政の役割は、ワークショップに必要な場の提供や情報公開です。日本は「補助金行政から政策的市場へ」の第一段階をクリアした後、「ロビイングからコンセンサス会議へ」の第二段階のクリアが必要。第一段階のクリアさえ目処が立たない日本では気が遠くなります。
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【宮台】[NPO運動はもともと草の根共同体だったのにメガビジネス化したという悩みは]そうですが、日本はそれを悩む所まで距離がある(笑)。日本では「補助金ぶら下がりマインド」を淘汰する設計が必要です。ちなみに僕は中沢新一さんやマエキタミヤコさんと「グリーン・アクティヴ」というプラットフォーム作りに参加しました。グリーンの一点で価値をシェアできればどんな団体や個人も関われる場を提供する。コンセンサス会議の場の提供。多様な団体が随時連合し、得意領域毎にコーディネータを交替し、ワークショップを開く。ワークシップを開けばOKという訳じゃない。皆で議論すればいいことが決まるなんて戦後民主主義的な錯誤です。愚民が話し合っても愚民のまま。どうすればワークショップを有効化できるかのノウハウが大切です。主題毎に交替するコーディネーターが努力して、中身のある討議に必要な専門家、つまり科学の民主化に貢献するミドルマン(ポール・ラザースフェルト)を連れてくる。コンセンサス会議のポイントは非専門的な参加者全員が決定に関与することだからです。専門家にどうすれば素人が異議申し立てできるか工夫する。「専門家でもないクセに」と愚昧な揶揄をする一部2ちゃんねらーの如き馬鹿を徹底淘汰する。僕は世田谷区でこれを現実化しようと思いますが、実践を通じて浮上する問題が多々あり、学びもあるでしょう。ポッパーが言うピースミール・ソーシャル・エンジニアリングです。うまく行くことが確実な実践しかしないなら、不合理な既得権益が生き残ります。コンセンサス会議が発想されたのは、ヨーロッパでさえ議会がステークホルダーの手打ちの場所だからです。議会で権威ヅラする「専門家」をワークショップに呼んだら素人の異議申立てに耐えられなかったりする。ワークショップを通じて形成されたネットワークが新しい課題に取り組んだりもする。加えて大切なのは、コンセンサス会議と住民投票の組合せがあると、議会も中身のある議論をしたがること。いざとなれば議会の決定の妥当性を衆目の前で転覆できるので、議会も緊張感を持たざるを得ない。僕が神保哲生さんと十年以上関わってきた「マル激」のようなネットメディアが、政府と東電の嘘を垂れ流したマスコミを緊張させるのと同じですね。
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【宮台】[博士学位を持った御用学者という存在をどうするかについて]先に触れた、「オピニオンリーダー」概念を作ったラザースフェルトが、50年代前半に「ミドルマン」概念を提起します。定義は苅部さんが指摘されたのと同じです。ミドルマンは博士学位を持つ専門家だけど、学会をリードするよりも、学会の現在をピープルに繋ぐ媒介役です。ミドルマンがテレビや新聞などマスコミに入っていくことで「科学の民主化」がなされ、それをベースにした討議で「民主の科学化」がなされる訳です。
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【宮台】[原発関連の地に足のついた議論として開沼博『フクシマ論』に加えて]武田徹さんの『「核」論』増補版も良い(『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』中公新書ラクレ)。開沼博さんもそうだけど、原発立地の歴史を調べた人は、原発政策の社会過程が少しも特別でなく、日本のどこにでもある過程だと弁えます。東電や経産省を批判するだけじゃどうにもならないと分かっているから、にわかエキスパートの勇ましさに出遅れ気味になる。その気持ちが分かるから、僕は当初から、東電的・経産省的コミュニケーションが日本中に蔓延していると言ってきました。東電を批判する朝日新聞も、十年間で広告費が半減したのにネット版価格を配達版と揃える言語道断はどうなの。販売店が困ると言い訳するなら、原子力ムラが困るという言い訳と変わらない。
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【宮台】渡辺さんの指摘通りティーパーティー運動とオキュパイ運動に共通なのに、日本のプレカリアート運動にないのが、共同体自治への志向。まあアメリカの建国精神そのもので、メガ政府であれメガ金融であれ、巨大で不透明な何かに依存することを否定する。日本のプレカリアート運動は、生きづらさを何とかしてくれという依存的センチメントから離脱できない。ネット右翼にもネット左翼にも共通する浅ましさです。
 ところで、共同体自治への志向は、アメリカでもヨーロッパでも国家の信用低下問題にかき消されがちです。資本移動の自由がなければ新興国の発展はあり得ないが、資本移動が自由だと相対的にリスクの低い方にどんどん資本が逃げがちです。何か微妙なことがあると金融派生商品から逃げるばかりか通貨からも国債からも逃げる。企業の投資係数(単位産出あたりの投入)が上昇するので増税も財政出動もできません。例えば一昨年、アメリカのガイトナー財務長官は日本に対して「財政出動→景気回復→輸入増加→市場拡大」を望みました。でも債務増大を嫌う日本政府が財政出動しない。そこで仕方なくTPPによる規制緩和を通じて米国企業の市場拡大を企図するようになった。これだと日本は更にデフレ化して景気回復が遠のきます。相似形の逆説をどこの政府も抱える。そんな中で共同体自治を論じても迂遠な感じ。ここにも逆説があります。資本移動自由化の下でどんな統治形態が有効かを慎重に議論すべきなのに、それができない。
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【宮台】アガンペン流に言えば、グローバル化がもたらす不安ゆえのポピュリズムや、不透明性ゆえの行政官僚制の否定的猛威を、クリアするには、統治ユニットを縮小する共同体自治化か、独裁制しかない。中国の学者らと話して、国家のバーゲニング・パワーが一層重要になると思いました。中国は2015年から人口減が始まります。ハイテク産業化しても労働集約的生産性に依存する中国。人口減による生産力低下を技術革新でカバーできないとマズイ。そこを尋ねると、未知の領域だから不透明だが、楽観できると言います。EU加盟国のGDP全体の2%に過ぎないギリシアの問題でこれだけ世界経済が沈むのだから、中国が沈めば全世界が沈むことは自明で、それゆえ先進各国は最先端技術を中国に贈与するはずだと。我々も「日本が沈むと世界が沈むんだから世界は日本を助けろ」と言ってみたい(笑)。でもアメリカに対してさえ言えないのが歯がゆい。
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【宮台】中国ではナイのソフト・パワーに役人も学者も大学生も強い関心を寄せます。中国は2030年までにアメリカのGDPをたぶん追い越すけど、この経済力に釣り合う文明的輝きを持てるかどうかという関心です。ナイの発想では、経済力が文明的輝きを伴って初めて軍事に匹敵する国の柱になる。単にコンテンツ産業の外貨獲得力に関心を寄せる日本は大ボケだけど、中国は日本のコンテンツが持つ魅力の秘密を国策的に究明し始めました。文明的輝きには価値の発信が必要だけど、中国にできるのか。価値発信と言えばスティーブ・ジョブズが亡くなった。「Think different」(違ったやり方で考えよう)という口上が有名だけど、意訳は「君たちは間違っている」。一般のマーケティングだと、まず新製品を示し、次に「速度3倍、ストレージ5倍…」と宣伝する。ジョブズは「違う、君たちがコンピュータに期待していた眩暈を帯びた輝きはそんなことじゃなかったはずだ」とオルタナティブな価値を訴える。皆がそうかも…と思った瞬間、「だったらコレだ」と製品を示す訳です。昨年BMWの執行役員を取材をしました。お蔭でBMWの電気自動車を半年間モニター中です。彼も同じ科白を言います。電気自動車は家電だという話が真実なら、先進国の車産業はどのみち新興国に追いつかれて利潤率が低下、労働分配率も下がる。回避するにはプレミアムな価値に訴える車を作るしかない。プレミアムな価値を探索する階層は社会貢献的な価値に関心を持つ。だから逸早く1500時間労働制や時間貯金制や農業支援金を導入し、どこより早く環境対応を打ち出してきた。バイエルン発動機という社名に相応しい地元貢献であると同時に、プレミアムカーのプロバイダとして合理的だと。似た話があります。ドイツのフィードイン・タリフ(全種全量固定価格買取制度)では、従来的電気料金の5〜6倍の価格で自然エネルギー電力を送電会社に買い取らせますが、それで電気料金は6割増以上に上がった。それでも国民が納得する理由を尋ねたら、ドイツ緑の党副党首ベーベル・ヘーンさんは、先進国は新興国が発信できない価値を発信して市場を開拓しないと「先進国として」生き残れないと言います。戦後処理でドイツが独特の個人補償図式を採用した理由に似ます。福山前官房副長官との共著『民主主義がなかった国、日本』に書いたけど、COP3京都議定書の意味も、新興国が現段階で発信しにくい「子々孫々のために環境を守る」という価値を発信し、新興国が手付かずの領域へと産業構造改革を遂げること。政治的に市場を作るという意味でまさに政策的市場が目的。だから温暖化懐疑説の決着は重要じゃないんです。中国政府はそれに気づき、共産党独裁制を利用して風力発電と太陽光発電に莫大な投資を始めた。頓珍漢な日本は周回遅れ(笑)。
 ところで共産党独裁が注目される中国だけど、武装警察を中心とする公安ゲバルトも重要です。大統領の許可なしでCIAが要人を暗殺できたクリントン政権前のアメリカを思い出します。大統領の許可なしで暗殺OKだったのは、大統領権力の弱さじゃない。大統領に塁が及ぶことなくゲバルトを使えるのですからね。中国やかつてのアメリカの、対行政的な政治権力の強さは、予算権と人事権だけでなく、ゲバルトの掌握がポイントです。翻って日本をみると、霞ヶ関の予算権と人事権さえ政治が掌握していない。とほほです。
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【宮台】暴力団排除条例が全都道府県にできました。本来は国法化すべきだけど、市民に組員の差別を命じる内容で人権に反するから国会審議を回避しました。地方議会も警察庁に舐められたものだよ(笑)。昭和30年代に関西で育った僕には自明だけど、売春のような決してなくならない商売が非合法だと、トラブルに際して警察を呼び出せず、ヤクザが出てくる。警察も自分たちが入れないから、ヤクザを情報屋にする。また共同体にはあぶれ者がつきもので、ヤクザは彼らに裏共同体の受皿を与えてきた。少年院を出た爪弾き者でも電話番や運転手として組員にする。でも92年の暴力団新法施行後は不可能になって彼らが野放しになった。組員や右翼団体員なら上に話をつけて制御できるけど、元組員や元右翼が銃器を携帯してウロウロしても制御できない。秩序維持において警察とヤクザは持ちつ持たれつです。警察はヤクザに情報を貰う代わりに非合法行為を見逃し、非合法行為を見逃す代わりに銃器押収の手柄のためにヤクザに協力して貰う。こうして危機的カオスを防止してきたんです。ところが歌舞伎町で暴力団を一掃した後はどうか。力の空白のせいで上海系と福建系の組織が抗争して青竜刀で斬首する大変な事態になった。旧来の秩序維持装置を壊すなら、それが果たしてきた諸機能の代替装置が必要です。(1)売春など非合法商売の場面での紛争処理をどうするか。(2)これら領域からの情報取得をどうするか。(3)共同体から排除された者の包摂をどうするか。(4)かつてストーカー問題がそうだったけど警察が「被害が出るまで動けない」とする領域での被害防止をどうするか。代替措置を手当てしないと、従来の裏世界よりもアングラに潜る。結果、人がたくさん死にます。
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【宮台】ロシアが選挙不正問題で揺れていますが、メドベージェフとプーチンが退いたらロシアが秩序立つのかと言えば、めちゃくちゃになるに決まっています。
    • 以上--
投稿者:miyadai
投稿日時:2011-12-15 - 09:21:56
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第9回尾崎咢堂杯演説大会(11月13日開催)を告知いたします

第9回尾崎咢堂杯演説大会

憲政の父・尾崎行雄(咢堂)。その演説は国民を魅了し時代を動かした。
今、咢堂生誕地・相模原で現代の青年が世界、日本、社会を説き、震災後の日本の歩む道をパネリストが熱く語る!

日 時: 2011年11月13日(日)
会 場: 神奈川県相模原市「杜のホールはしもと」
開 会: 13:00~
第1部: 演説大会(13:20~)
第2部: パネル討論会「日本の歩む道」(14:50~)
       丸山和也氏(弁護士)
       宮台真司氏(首都大学東京教授)
       松沢成文氏(前神奈川県知事)
       林 義亮氏(神奈川新聞社論説主幹)
       石田尊昭氏(尾崎行雄記念財団事務局長)

参加費: 無料
投稿者:miyadai
投稿日時:2011-10-07 - 11:24:45
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映画『サウダーヂ』公開記念「サウダーヂナイト・空族祭」を告知します

「サウダーヂナイト・空族祭」

今年最大の問題作、映画『サウダーヂ』の公開を今秋に控える映像制作集団「空族」が六本木の地下で大集会を決行。空族ゆかりのミュージシャン・DJたちとともに繰り広げる大騒ぎのサタデーナイト。

■日時:10/8(土)17:00開場/17:30開演
■料金:予約¥2,500(会場HPで予約受付中)
    当日¥2,800(予約ともに1ドリンク別)
■会場:六本木「SuperDeluxe」
    Tel. 03-5412-0515 / http://www.super-deluxe.com/
    東京都港区西麻布3-1-25 B1F

□企画:計画漏電実行委員会
□主催:boid


LIVE:

Stillichimiya
東京ピカデリー
おにんこ! feat. BIGBEN(Stillichimiya)
日比谷カタン × HIKO(from GAUZE)
湯浅湾
伊東篤宏+中原昌也+山崎巌+田我流(Stillichimiya)
黒パイプ


DJ:

宮台真司
lastdaybikini(GJ + kayo + 袋とじ)
ラジオマルーン feat. 富田克也


投稿者:miyadai
投稿日時:2011-09-19 - 13:13:12
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2ヶ月前(7月21日)明治大学シンポでの宮台アピールの文字起し

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脱原発が陥りがちな罠にご注意を!
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■ 社会学者の宮台真司と申します。こんにちは。初めまして。国際ジャーナリストの神保哲生さんと一緒に11年前からインターネットの動画配信のニュース解説番組をやっておりまして、10年ほど前から折にふれて原子力発電の政策的合理性について議論をいたしております。
■僕がお話したいのは技術的合理性の問題とは別で、「原子力発電に技術的・経済的な合理性がないと証明されても、日本は原発を止められないが、その理由は何処にあるのか」です。2004年に六ヶ所村再処理事業の経済コストを問題視する議論が櫻井よし子さんや猪瀬直樹さんなど保守論壇で提起されて、無視されました。
■彼らは経済的合理性がないので六ヶ所村の再稼働をやめろ、もっと言えば核燃料サイクル事業は放棄しろ、という議論をしました。経産省でもこの方向で動く「市場主義派」の勢力がありましたが、残念ながらギリギリの段階で人事的に覆され、六ヶ所村再処理事業放棄という、当時は経産省の主流だった流れが頓挫したのです。
■それ以前から原発のコスト的・リスク的・環境的な合理性の議論がなされています。リスク的合理性については社会学者ウルリヒ・ベックがチェルノブイリ原発事故の1986年に出版した『危険社会』に書かれている。原発事故や遺伝子組換作物の花粉が開放系に放出されるリスクは、19世紀的リスクとは違うというのです。
■19世紀的リスクは保険を作れることに象徴される。つまり予測可能で計測可能で収拾可能です。事象の利得に生起確率をかけて全事象を合計すれば行動合理性を算定でき、ゆえに保険料も算定できます。ところが20世紀後半以降の予測不能で計測不能で収拾不能な新種のリスクの場合、妥当な保険が作れません。
■現行の原子力損害賠償法では原発一機当たりの保険は上限1200億円で、天災免責があります。これを「保険金支払上限なし」つまり青天井で、なおかつ「免責事項なし」にしたらどうなるか。フランスで試算がありますが、大きな事故がないフランスでも電気料金は3倍以上になります。
■日本は過去10年に限って事故だらけ。電源に占める原発シェアが3割ですが(フランスは8割)、電気料金の跳ね上がりは3倍ではすまないでしょう。こうしたリスクがまともに保険化されておらず、保険料として電気料金に上乗せされていないということは、原発のコストがちゃんと議論されていないことと同じです。
■コストについては、六ヶ所村再処理の議論の際、政府系の委員会が現有放射性廃棄物の再処理コストを算定したところ18.8兆円になりました。これは電気料金に算入されていますが、おかげで日本の産業用電気料金はアメリカに比べて5倍です。これで日本企業の資本流出が起きないのは奇跡だと言えましょう。
■日本の電気料金は総括原価方式といって、全コストに3%の利益を上乗せしたものを料金として請求する。これではコスト削減で利益も圧縮されるから、コスト削減動機が働かない。この方式を前提に東電は損害賠償コストを電気料金に乗せようとしています。狂気の沙汰です。資本流出による産業空洞化は間違いありません。
■これら出鱈目に取り囲まれる形で、原発の「絶対安全神話」が流布されてきました。要因の一つは1974年に田中角栄内閣の下で作られた「電源3法」の、とりわけ「エネルギー開発促進法」です。それによって、原子力発電所を立地させた村や町には、沢山の一般会計や特別会計からの補助金が出ることになったわけです。
■貧しい過疎自治体では、原発の安全性についての議論を全くしないまま、お金が貰えるからという理由で立地を決めます。こうして「原発とともに生きる生活」が始まる。すると反対世論が聞こえてくるので、「俺たちの日常にケチつけんのか」みたいな話になり、かくて賛成派と反対派に真二つに分かれた挙句、誹謗中傷の嵐。
■原発立地のために一般会計と特別会計からこれまでに支出されてきた総額は6兆円。これは原発コストに算入されていません。さらに先ほど申し上げた再処理コスト19兆円弱は、算定根拠が甘く、現有放射線廃棄物の再処理に実際どれだけのコストになるのか実はよく分かっていないのです。
■なぜなら核燃再処理システムが全く回っていないからです。核燃サイクルの最終処分は高速増殖炉です。プルトニュムを増やしながら原発を運転する。ところが高速増殖炉「もんじゅ」は16年間止まったまま。六ヶ所村の使用済核燃料は満杯。だから福島第一原発にも浜岡原発にも、水に浸けた使用済核燃料が大量にある。
■浜岡原発はたしかに止めました。菅さんの功績です。でも福島第一の5号機、6号機と同じように使用済み核燃料が水に浸かった状態で大量にある。そこを津波が襲えば大変なことになります。これが議論になっていないのは変です。原発を止めただけでは、残念ながら安全だと考えることができません。
■CO2についても、部分的プロセスだけ見ればC02は出ていないように見える。でも、ウランの採掘、精製、濃縮、運搬、原発建設、何十年に及ぶ冷温貯蔵、十数年がかりの廃炉。これらの全てを含めて考えると、残念ながら「全くCO2が出ない」という議論も戯言です。
■ちなみに原発の発電コスト「5.6円」は先に申し上げた理由で出鱈目ですが、加えて言えば、太陽光発電や風力発電のコストが急激に下がりつつあるので、昨年段階でアメリカでは太陽光発電の発電コストが原発を下回りました。今後も技術的進歩で、自然エネルギーの発電コストがどんどん安くなります。
■他方、チェルノブィリ級原発事故が起こる確率が、当初言われた1万年に1度から20年に1度に変わりましたが(笑)、それに伴って原発安全施設に対する要求も高まり、立地と建設の予算が鰻登りとなっています。原発の発電コストは、安いどころか高いし、これからどんどん高くなる。それが国際常識です。

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■いま僕が申し上げたことは2004年段階で原発関係者の知るところになります。先に紹介したように保守派内部でこのことがが議論されたからです。にもかかわらず原発政策は不変です。なぜか。元原子力村の住民に話を伺うと、「今更やめられない」から。2004年以降の原子力村では、安全に関する議論はタブーになります。
■「今更やめられない」という科白は東京裁判(極東国際軍事裁判)でお馴染みです。日米開戦直前、総力戦研究所という陸海軍若手将校と官民若手エリートが作ったシンクタンクがシミュレーションしたところ、日本が勝つ可能性はゼロパーセントという結果となりました。この結果は陸軍参謀本部と海軍軍令部に上げられた。
■にもかかわらず日米開戦はなされた。参謀本部や軍令部の理屈は「短期決戦ならば勝機あり」。でも出鱈目でした。東京裁判でA級戦犯らが、自分としてはどうかと思ったが、今更やめられないと思った、空気に抗えなかった、と証言するからです。日本の〈悪い心の習慣〉に支えられた〈悪い共同体〉は「永久に不滅」です。
■別に原子力村のことだけ言っているんじゃありません。インターネットのコミュニケーションを見れば日本のすみずみに広がっています。3・11以降、ご存じ通り、僕は「東電や政府の言うことを真に受けていたら大変なことになる」として、国内外の情報を大量にツイートさせていただきました。津田大介氏もそうでしたね。
■すると、二週間ほどのあいだ、宮台は煽るのか、デマを流すのか、という反応だらけでした。ところが、僕らが事故直後からマル激(インターネットのニュース解説動画番組)で提示してきた最悪のシナリオが、3月25日過ぎになると現実化していることがNHKや朝日新聞で報じられたら、こうした反応はすっかり下火になる。
■ここには先程の「俺たちの日常にケチをつけるのか」の如き〈自明性への依存〉が見られますが、加えて〈認知的整合性理論的な歪曲〉も見て取れます。僕は世田谷在住ですが、3月20日の終業式前後には小学校や幼稚園の約半数が疎開していました。疎開させた親たちの多くは僕や津田氏のツイートを見ています。
■僕も自分の娘たちをヨコの子も含めて山荘に十日間ほど疎開させました。当初は知り合いの寺に疎開するはずでした。戦時中の疎開みたいだと興奮していたら、前日になって母親たちが「やっぱり寒いのはイヤだ」と計画変更となったのでした。そういうやりとりをしながら、自分たちは幸いなのかもしれないと強く思いました。
■こういうやりとりが出来るのはソーシャルキャピタル(人間関係資本)があるからです。逆に言えばソーシャルキャピタルの貧しさゆえに疎開させられない家族もあった。僕の仮説では、この人たちの多くは、認知的整合性理論の仮説通り、疎開の必要性を結論する宮台ツイートに「デマ」のレッテルを貼って、しのいだのです。
■認知的整合性理論で有名なのは、ハイダーの認知的バランス理論と、フェスティンガーの認知的不協和理論です。いずれにせよ、自分自身の「変えられない属性」と矛盾しない方向に環境認知を歪めるという心理的な傾きがあるとします。宮台ツイートが「デマ」でないと、この人たちは自分を責めなければならなくなるんです。
■〈自明性への依存〉や〈貧弱な人間関係資本ゆえの認知的歪曲〉とは別に、〈所属確認のための陣営帰属&誹謗中傷〉という〈悪い心の習慣〉も見て取れます。典型が、3月25日前後まで殺到した「宮台はいつから反原発になったんだあ」というツイートです。愚昧を予想していたが、ここまで愚昧かと溜息が出ました。
■「安全か危険か」は確率論的なスペクトル。二項図式じゃ片付かない。ところが「絶対安全」を主張する原子力村と、「絶対危険」を主張するプロ市民に分かれて、誹謗中傷の嵐。どの程度安全で、どの程度危険か、それゆえにどこに弱点があり、どんな対策が必要か、といったサブスタンシャルな(中身のある)議論ができません。
■枚挙に暇がありません。「広瀬隆氏のこの指摘は大切だ」と言ったら、「てめえ、いつからカルト信者になったんだあ」と揶揄され、「小出裕章氏のこの指摘に注目」と言うと、「デマの温床じゃねえか」と揶揄されます(笑)。こうして、サブスタンシャルなコミュニケーションの可能性を遮断されるわけです。
■原発問題に限らず、インターネットとりわけ「2ちゃんねる」の世界などでは以前から見られる日本特有のコミュニケーションです。何を喋っても、〈陣営帰属&誹謗中傷〉の対象にして、中身の合理性や妥当性を議論しない。何のためか。一口で言えば、ホメオスタシス・オブ・ザ・セルフ(自己の恒常性維持)のためです。
■〈自明性への依存〉〈認知的整合性理論的な歪曲〉〈自己の恒常性維持のための陣営帰属&誹謗中傷〉は、昔ながらの〈悪い心の習慣〉。そのせいで、事実を完全に無視した大本営発表を信じ込み、疑う者を血祭りにあげる。同じく、原発絶対危険論を信じ込み、厳密な比較論議を回避する。愚昧そのものです。
■こうした〈悪い心の習慣〉が蔓延する社会空間で、原発政策についてだけ合理性や妥当性についてだけサブスタンシャルなコミュニケーションが出来たら、それこそ奇跡でしょう(笑)。繰り返しますが、いま申し上げた問題は、「原発をどうするか」以前に、「原発をやめられない社会をどうするか」という話なのですね。

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■これら〈悪い心の習慣〉とは別に論じられるべきなのは、戦後日米関係に由来する〈去勢体験の埋め合わせ〉。日本の原発導入は〈去勢体験の埋め合わせ〉が出発点です。去勢体験とは、原爆投下による敗戦、米国製の新憲法、講和条約締結翌日に吉田茂首相がダレス国務長官に羽交締めにされて署名させられた安保条約です。
■北方領土に象徴される米国による外交捻じ曲げもある。元々ヤルタ協定&講和条約で日本は千島列島を放棄した。南千島と呼ばれた国後&択捉を含みます。放棄させたのは米国。これを前提に、歯舞&色丹の二島返還で日ソ平和条約を結ぼうとしたら、ダレスが「四島返還を主張しないと沖縄を返さない」と脅します(1955年)。
■無茶です。日本は米国の指図で国後&択捉を放棄した。それをソ連は知っている。そもそもヤルタ協定の米ソの手打ちなんだから。ところが放棄の3年後に、米国が国後&択捉は日本の領土だから放棄するなと脅してきた。もちろんソ連が飲む可能性はゼロ。それを承知で米国は無体な要求をした。日ソ間に楔を打ち込むためです。
■米国に言われるがままに外務省は「北方領土」という前代未聞の珍概念を考案し、政界からは対米自立の志向する鳩山一郎勢力が一掃されます。解決寸前だった日ソ領土帰属問題は米国の意図通りに暗礁に乗り上げる。これらは露骨な内政干渉で、事情を知る人たちには去勢体験として受け止められます。
■鳩山一郎的な対米自立志向・去勢体験克服志向の一環として、日本の原発導入に反対する米国を無視して、正力松太郎が英国製原子炉を導入しますが(1956年)、原子炉導入をめぐる日ソ接近を警戒した米国が、態度を一変、兵器転用がしにくい軽水炉技術の日本への提供を決めます。〈米国に依存した原発政策〉の始まりです。
■背景に、1953年の第五福竜丸事件以降、日本で反米・反資本主義の機運が高まっていたことがあります。かかる機運のもと、日本が米国から離れたところで原発導入を進めることを米国が警戒したわけです。かくして、「米国による去勢体験の克服のための原発導入」が、「米国に依存しきった原発導入」に捻じ曲げられました。
■こうした捻じ曲げの次第に加え、米国が最大の影響力を持つIAEA(国際原子力機関)の組織目標が日本の核開発の監視だということ--日本の核兵器保有を最も嫌うのが米国であること--もあって、日本の原子力政策が兵器転用可能性を睨んで推進されるという可能性は、タンポイ舎のおっしゃることに反して一切なくなりました。
■ただし、平和利用であれ兵器利用であれ核開発が「力のシンボル」であって、それゆえ〈去勢体験の埋め合わせ〉として国民や政治家から待望され歓迎されたことは、歴史心理的な事実です。その延長線上で、石原慎太郎の如きマッチョ政治家が、もはやあり得ない兵器転用を妄想しながら原発政策を支持してきた事実もあります。
■米国と一戦構えるならば別ですが、「今後の日米関係が重要だ」「日米同盟は今後も必要だ」とか言う保守陣営が、舌の根も乾かぬうちに「核の兵器転用可能性」を口にするのは、排中律--「AでありかつAでない」ということはない--を無視した妄言です。でもこうした妄想ゆえに政治家が原発に固執することはあり得ます。
■こうした政治家の妄想的動機は、原発推進の真の動機を覆い隠します。日本原電を含めた10電力が原発に固執するのは、地域独占供給体制を維持するためです。つまり、送電網を持つ企業が発電と配電も一手に握る「垂直統合体制」を維持するためです。それを維持するのは、政官界に跨る巨大権益を維持するためです。

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■「垂直統合体制」といえば少し前までのNTT(日本電電公社)がそうです。電話網という「土管」を持つ企業が、「土管」に接続できるものを、入口も出口も含めて一手に握っていました。それに反旗を翻したのがソフトバンクの孫正義氏です。通信から電力への彼の戦線拡大は、「垂直統合」への抵抗において一貫しています。
■日本以外の先進国では「垂直統合体制」はもうありません。「原発事故を起こした以上、計画停電は仕方ない」と思う方がいるとして、この思い込みが愚昧なのは、「火力で補える」とか「他の地域独占電力から融通できる」という以前に、電力を東電一社から買わなければならない事態を、自明だと思い込んでいるからです。
■先進各国では電力会社を選べるし、電源も選べるし、自家発電も選べます。スマートメーターでのモニタリングをベースに家庭や企業が最適ミクスチャーを考えて電源購入をしたり長期的投資をする。家庭や企業の長期的投資のベースになる計算可能性をもたらすために全種全量固定価格買取制度を作る。これが標準的になりつつある。
■こうした仕組や制度は、北欧諸国では1980年以前から少しずつ導入されます。ドイツでは1990年から導入され、周辺国に拡がっていきます。結果、2005年までは太陽光パネルの生産額は1位シャープ、2位京セラだったのが、今では上位を、ドイツ、アメリカ、中国などが占めるようになりました。栄華も今は昔となりました。
■1990年以降ドイツやイギリスから拡がる流れの背後に、1986年のチェルノブイリ原発事故を契機に〈エネルギーの共同体自治〉が人々によって志向されるようになったことがあります。さらにこうした動きの背後に、1970年代の福祉国家体制と欧州経済の行き詰まりを背景に〈食の共同体自治〉が拡がっていたことがあります。
■要は「市場に依存しすぎても危ないし、国家に依存しすぎても危ない。食とエネルギーについて共同体自治を貫徹することで、共同体の相対的〈自立〉を図ろう、巨大システムへの〈依存〉からの脱却を図ろう」というわけです。こうしたソーシャル・デザインの観点から、食とエネルギーの共同体自治が志向されたわけですよ。
■この点、日本は出鱈目です。日本ではスローフードはオーガニックやトレーサブルなものを食べることと勘違いされている。お笑いです。「顔が見える相手に作って売るから良いことをしたいと思い、顔が見える範囲から買うからスーパーより高くても買おうと思う」という〈近接性による動機づけ〉がスローフードの目的です。
■「オーガニックやトレーサブルを買いさえすれば」というのは、スローフード運動の席巻を恐怖した米国の巨大スーパーウォルマートのマーテケティング戦略ロハス(Lifestyle Of Health And Sustainability)です。ロハスは単なる個人的趣味つまり〈ライフスタイル〉ですが、スローフードは〈ソーシャルスタイル〉です。
■このまま放っておくと、スローフードが単なる食材種の問題に縮んだように、脱原発も単なる電源種の問題に縮んでしまうでしょう。「巨大スーパーよ、農薬漬け野菜じゃなく、有機野菜を売れ」と同じように、「地域独占電力会社よ、原発でなく、自然エネルギーを売れ」という、実にくだらない話で終わってしまうでしょう。
■むしろ課題は、市場や国家などの巨大システムへの〈依存〉を自明視せず、相対的に共同体の〈自立〉を志向することです。欧州各国は、1980年代以降の〈食の共同体自治〉、1990年代以降の〈エネルギーの共同体自治〉の流れの上に、21世紀を迎えています。二酸化炭素削減問題も、そうした流れの延長線上にあります。

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■日本は、欧州各国が〈食の共同体自治〉から〈エネルギーの共同体自治〉へと歩みを進めつつありました、まさにそのとき、日米農産物自由化交渉から日米構造協議への流れの中で、一方で米国言いなりの自由化と規制緩和で〈市場依存〉を加速し、他方で米国言いなりの430兆円公共事業の約束で〈国家依存〉を加速しました。
■かくして、80年代から90年代にかけて共同体空洞化が加速しました。そこに1997年のアジア通貨危機に発した平成不況深刻化が襲います。それまでは「社会にあいた大穴を、辛うじて回る経済が埋めてきた」ところが、経済が回らなくなった途端、「社会にあいた大穴に、人々がぼこぼこ落っこちるようになった」わけです。
■その結果が、英国の4倍、米国の2倍に及ぶ自殺率であり、恥さらしな超高齢者所在不明問題や乳幼児虐待放置問題の蔓延であり、孤独死や無縁死の蔓延であり、死んだ人の三分の一以上が葬式を出してもらえず御焼場に直送される事態の蔓延です。東日本大震災の遥か以前から、日本社会は事実上「終わって」いたんですね。
■日本社会の「終わり」は震災対応にも見られました。海江田大臣の掛け声で被災地に大型トラックが列をなして救援物資を届けましたが、末端ディストリビューションで躓きました。大きな避難所ほど物資の取り合いが起こり、全員分の物資が届くまで配分できないという事態になりました。義援金もまだ殆ど配られていません。
■行政を批判する向きがありますが、超高齢者所在不明問題で行政を批判するのと同じ勘違いです。行政は平時を前提にしたシステムです。災害時にはうまく機能しない。例えば、義援金にしても重複給付を避けるには罹災証明や被災証明が必要ですが、これら証明書類に必要な免許証やパスポートが流された以上、簡単じゃない。
■その点、平和さや穏かさが目立ったのは、創価学会の避難所や寺の避難所でした。信仰仲間だとか檀家仲間だといった我々意識があって、例えば配給物資についても「お先にどうぞ」と言えるからです。そう、配給物資や義援金のスムースな給付は、どこの国でも、地域共同体や信仰共同体などの中間集団がなければ不可能なんです。
■共同体空洞化という意味で日本社会がとっくに「終わって」いたから、末端ディストリビューションで躓いた。東北社会の絆が喧伝されたけど、勘違い。レベッカ・ソルニットの言う「災害ユートピア」が現出しただけ。平時のシステムが頼れないから「昔とった杵柄」的に年長者の「過去のリソース」が動員されただけです。
■欧米では1980年代から1990年代にかけて、北イタリアに発するスローフード運動以外にも、カナダのオンタリオ州に発するメディアリテラシー運動や、アメリカのアンチ巨大マーケット運動などが拡がります。共通して、市場や国家などの巨大システムへの〈依存〉の過剰さを戒め、共同体の〈自立〉を図ることを目標にします。
■社会学ではこれらを「新しい社会運動」と呼びます。従来の階級闘争史観に基づく階級的再配分を要求する類の〈生産点〉での運動でなく、反核運動・消費者運動・ジェンダー運動・貧困撲滅運動などにみられるような〈消費点〉での運動で、最も重要なのは、市場や国家など巨大システムによる諸個人の分断に抵抗する点です。
■日本では残念ながら生協運動どまり。生協の運動体内部では社会的アドボカシー(社会のあり方についての価値の訴え)があったけど、外部つまり一般消費者に対してはアドボカシーがなく、せいぜいが「安心できる食材の便利な宅配サービス」でした。だから諸政党は今も〈生産点〉(資本か労働か)をベースにしたものです。
■〈消費点〉の「新しい社会運動」が拡がっていれば、電気を電力会社1社からしか買えないがゆえに計画停電を甘受するようなげたメンタリティはあり得ない。コミュニティ銀行によるファンディングに支えられた「世田谷電力」や「杉並電力」など住民参加型の地域電力会社が、送発電分離を前提に拡がっているはずです。
■その意味で、東電が潰れたら困るなどという発想はありえないし、損害賠償額を電気料金に上乗せさせるなどあり得ない。つまり、東電を潰したくない経産省と、金融機関に債権放棄させたくない財務省の、役人たちが暗躍した結果としての「民主党政権内から出てきた」東電賠償図式ほど、滑稽なものはありません。
■あれこれ危険が指摘されてきたのに無策を通した東電に総計9兆円貸し込んだ銀行が、債権放棄するのは当然。三井住友銀行が困るだけ。金融不安などあり得ない。債権放棄させたら東電にカネを貸す銀行がなるなる? いいですか、誰も東電如きに融資する必要などありません。単に破綻処理して資産を吐き出させればいいだけ。
■財務諸表を見る限り、送電設備と発電設備を売却させるだけで5兆6千億円。東電は約170の関連会社の「株式等の資産」を持っているから、それを売却させるだけで2兆7千億円。設備売却額は簿価だけど、KDDIなどの株式も大量に持っているからこれも売却させる。全部で8兆円は出るから、損害賠償に当てればOK。
■多くの大企業は、電力一部自由化を背景に大規模な自家発電の運用実績があるから、東電如きが潰れても、東電が持っていた設備の運用については困りません。困るのは、銀行関連の天下り先を持つ財務省の役人と、東電関連の天下り先を持つ経産省の役人だけです。もう一度言うけど、東電は即刻破綻整理すべきです。

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■最後に日本国家の統治体制の出鱈目を確認します。第一に、日本の統治には、民主主義の基本である〈引き受けて、考える作法〉のかわりに〈お任せして、文句を垂れる作法〉が一般的です。「自民党支持者が平時は投票に行かず、贈収賄事件などがあるとお灸をすえるために共産党に投票する」といったパターンが典型です。
■第二に、こうしてお任せされる側が、近代社会の基本である〈知識を尊重するコミュニケーション〉のかわりに〈空気に縛られるコミュニケーション〉に淫する。かつての参謀本部や軍令部における「今さらやめられない、空気に抗えない」もそうだし、昨今の原子力村における「今さらやめられない、空気に抗えない」も同じです。
■第三に、政策的誘導は、1980年代以降の欧米で一般的な、市場ルールを変えて、儲けたい人の戦略を変えさせる〈市場インセンティブ〉型でなく、特措法を作って特別会計からつぎ込み、カネの適正配分を口実に特殊法人や財団法人を作って天下り先を確保する〈命令&報奨〉型が専らで、創意工夫もないし、持続可能性もない。
■〈引き受ける政治 × 知識尊重 × 市場インセンティブ型〉国家と、〈任せる政治 × 空気拘束 × 命令&報奨型〉国家とを比べて、どちらがグローバル化(資本移動自由化)を背景にした過剰流動的状況における、環境適応能力や安全保証能力に秀でているのか。議論の余地もない。日本の統治は「終わって」います。
■〈引き受ける政治 × 知識尊重 × 市場インセンティブ型〉国家では、人々は共同体自治をベースに〈自立〉しますが、〈任せる政治 × 空気拘束 × 命令&報奨型〉国家では、人々は共同体を空洞化させて巨大システムに〈依存〉します。こうした統治の類型論を背景にすれば、共同体自治が〈悪い心の習慣〉に浸された〈悪い共同体〉に堕落しないために必要なことが、明確に分かるはずです。
■〈悪い共同体〉は、参加主義でなく権威主義で、知識主義でなく空気主義で、それゆえ〈自立〉的でなく〈依存〉的です。〈良い共同体〉は、権威主義を退けて参加して引き受け、空気主義を退けて知識や科学を基盤とし、それゆえ自明性への〈依存〉という思考停止を退け、共同体保全のための工夫を〈自立〉して展開します。
■お分かりのように、〈共同体自治〉が重要なのは、寂しいからとか一人では生きられないからとかではない。その程度の話であれば周到に設計されたシステムで対応できます。そうでなく、市場や国家(行政官僚制)など〈巨大システム依存〉が、環境適応や安全保障の面で、流動性が高い状況下で機能不全を抱えがちだからです。
■再確認すると、「脱原発」が「東電よ、原発ではなく自然エネルギーを使え!」といった電源種の話に縮んでは元も子もありません。経産省の役人たちは当然、自然エネルギー化を前提にした「特措法・特別会計・特殊法人・天下り」図式を考えているでしょう。皆さんもウカウカしていたら寝首をかかれます。ご注意を!
投稿者:miyadai
投稿日時:2011-09-18 - 23:37:17
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傑作『国道20号線』を送り出した富田克也監督の度肝を抜く最高傑作『サウダーヂ』

「自意識に由来する痛さ」ゆえの酩酊から「社会構造に由来する痛さ」ゆえの酩酊へ
〜〜『サウダーヂ』の映像体験が与える眩暈的な酩酊が意味するものを考察する〜〜


■外国を旅してきたような印象が残った。とはいえ僕にはアメリカと中国・台湾と東南アジアの旅行経験しかない。息が詰まりそうな濃密な経験をしながら帰国して少し経つとアレはいったい何だったんだろうという感じになる。この映画を観て暫く経つと、東京で生活している僕には、不謹慎ながら、まるで異国の映画だったように思い出されてしまうのだ。
■ラーメン屋で二人の男が向き合う冒頭シーンを観て、まさかこんな映画体験を与えられるとは想像しない。この落差体験は重要だ。富田克也監督&相沢虎之助脚本のコンビ独特の表現スタイルに関係する。(1)あえて軽く描こうとしているにもかかわらず、(2)日常の中に次第に狂ったものが浮かび上がるという『国道20号線』でお馴染みのスタイルだ。
■この二つは密接に関連しよう。『国道20号線』も同様だが、彼らの作品は徹底した取材を経て社会を描く。しかし社会批判を突きつけているのではない。人間模様の喜怒哀楽に巻き込もうとしているのでもない。社会の中で苦しむ者が〈世界〉に意識を飛ばすロマンを描くのでもない。映像的な表層と戯れるのでもない。それでは何をしているのだろう。
■彼らの作品を観た後、これら彼らにしか描けないのだといつも思う。ここまで綿密に取材して、僕らの生きる社会の現実はこんな具合ではないかと気づかせる。同時に、ここにはドキュメンタリーとは異なる、虚構の肌触りがある。社会の中に現にあり得る断片的な素材を、選別、配置することで立ち上がる、観念的リアリティー--いわば世界観--がある。
■あえて言えば、「客観的」で綿密な社会観察と、それをベースにした「主観的」で強力な世界観の、組み合わせ。「僕たちよりも社会を知る者たちの世界観だ」と身を委ねることができる。そこに立ち上がる世界観があまりにも強力で濃密であるがゆえに、映画館を出てしばらくすると、どこか別の国を描いた映画みたいに感じられる。褒め言葉である。
〜〜〜
■1985年から1996年まで、断続的に、北海道から沖縄まで売買春のフィールドワークをした。当初はそのつもりではなかったが、やがてリサーチの重要な目標が、それぞれの街の感覚地理から見えてくる「日本の現在」にシフトした。きっかけは幾つかあった。一つは、80年代後半の駅前再開発の動き。もう一つは、バブル崩壊以降の駅前商店街の崩壊。
■前者は東京近郊や大阪近郊。後者は地方都市。両方とも売買春を爆発的に加速させた。再開発された郊外の駅前は、車でピックアップするためのテレクラ売買春の待ち合わせ場所に変わった。バブル崩壊以降、寂れた工業団地を抱えた地方都市では、コンビニやフェミレスの駐車場を待ち合わせとする売買春が、以前の何倍にも増えた。
■2008年自殺実態白書を、製作に携わった自殺対策支援センター「ライフリンク」代表の清水康之氏が、発表前のゲラの段階で僕に見せてくれた。一読して驚いた。独身男性の自殺が多いのは工場城下町。独身女性の自殺が多いのは大都市近郊圏。どららも売買春のメッカだった場所。上位地域の名称を見てフィールドワークの記憶がまざまざ蘇った。
■例えば思い出したのは1994年の青森市の風景。近くに工業団地があるが、1991年の平成不況以降、徹底的に寂れた。西武流通グループが大規模店舗を出店するという計画で、駅前の旧商店街が取り壊されて更地になったが、出店計画の取り止めで、だだっぴろい空き地と駐車場が拡がっていた。別の商店街でもシャッター化したところが目立った。
■その青森駅周辺はといえば、テレクラが10軒以上立地し、昼日中から中高生の売春コールが引きも切らなかった。もちろんOLや主婦の売春コールもあったが、東京や大阪と違って、どれも「実勢価格」はイチゴつまり一万五千円で横並びだった。このあたりの詳しい事情は1997年に上梓した『まぼろしの郊外』に詳しく紹介したとおりである。
■同じ頃、東京近郊の町田では、再開発で、遠くにあった国鉄原町田駅が小田急町田駅の近くに統合されたが、駅周辺では女子中学生5万円、女子高生4万円、女子大生3万円、主婦2万円の実勢価格で売買春が展開していた。横浜線の南側つまり神奈川県側にラブホが集中するが、東京都にないテレクラ条例があってヤバイなどと言われていた。
■エロ本にネタを提供する仕事をしていたこともあって、たくさんの少女たちの話を聞いた。貧乏か金持ちかという話よりも印象的だったのは、青森でも町田でも、家族や地域が空洞化している実態だった。青森でも町田でも、大豪邸に住む土建屋社長の「育ちのいい」令嬢らが、完全に空洞化した家族や地域を背景に、バンバン売春に乗り出していた。
■だが今との決定的違いがある。青森でも町田でも、少女たちは、ときには「にいさん、いい人だね」などと世辞を言いながら、ときには嗚咽しつつ、とめどなく話をしてくれた。彼女たちには、度重なる期待外れにもかかわらず維持されている願望水準があった。砂を噛むような事実性に打ちひしがれながらも、「ここではないどこか」を望んでいた。
■それが決定的に変わってしまうのが1996年頃のことなのだが、富田監督と相沢脚本のコンビによる前作『国道20号線』は2008年の映画でありながら、1996年頃までの地方都市(舞台の甲府も地方都市)や、東京・大阪の郊外(甲府は東京郊外の外延でもある)で、僕が長く呼吸してきた空気と同じ匂いを放つ。そのことを富田・相沢コンビにも伝えた。
■「これは十余年前の空気ですね」というのは僕の褒め言葉である。それが契機の一つになったのかどうか知らないが、「今」ないし「今から十年先」の空気を描いた作品が新たに登場した。それが『サウダーヂ』。これは、学者たちも政治家たちも中央行政も、まだまともな認識さえ持っていない長期在留の外国人たちが大勢居住する地方都市の話だ。
〜〜〜
■日本はおかしな国だ。現に起こっていることを起こっていないかのように偽装する。日本の農業も工業も外国人労働者の手を借りずには回らなくなっている。なのにそのことを公式に認める制度を作らずに「裏口」から外国人労働力を利用する。そうすることで、既に多数存在する外国人労働者に対する社会政策や教育政策の義務を放棄するのである。
■日本は、大卒以上もしくは実務経験十年以上の外国人労働者を「専門的な技術や技能、知識を必要とする業務に就労する者」と認めて受け入れ、「いわゆる単純労働者」を排除することになっている。だが外国人の「いわゆる単純労働者」なくして、既に日本は回らない。そこで、さまざまな制度を用いた「ペテン」がまかり通っている。それが現状だ。
■法務大臣が永住許可を与えた外国人を一般永住者という。(1)犯罪歴がなく、(2)生計を営める技能や資産がある、(3)十年以上在留した外国人に、資格が与えられる。昨年時点で、一般永住者に占める割合が一番高いのが中国人で、30%、約17万人。続いてブラジル人、21%、約12万人だ。彼らは制度の「ペテン」によって長く在留した人たちだ。
■「ペテン」の主体は日本政府だ。中国人の場合は技能研修という「ペテン」。表向きは途上国から来た人に技能研修を施し、本国で技能を活用してもらうという話だ。実際には低賃金労働者を外国から入れる方便に過ぎない。研修だけで労働をしない建前なので、労働基準法が適用されないから妥当な賃金を払う必要がなく、僅かな手当だけ渡される。
■中国人研修生は、三年間研修を受ける旨の誓約書を書かされ、多額の保証金を払う。誓約に反すれば保証金は没収だ。企業は優越的地位を利用してやりたい放題。研修生を受け入れたパスポート取上げ、強制貯金、時間外労働、権利主張に対する強制帰国、強制帰国を脅しに使った性行為強要が横行する。時給300円以下が当たり前の世界。
■研修生を受け入れるのは、日本人労働者を確保できなかったり、中国などの外国製品との価格競争にさらされている中小企業と農家だ。国際貢献でなく、低賃金労働力のために本制度を利用する。甲府でも、当初は養豚業から、昨今では農業労働のあらゆる分野と過程に中国人研修生が入り込んでいる。しかし制度は殆ど改善されないままだ。
〜〜〜
■ブラジル人の場合は日系人という「ペテン」。1989年に入管法が改正され、日系三世とその扶養者は全員、無条件で定住ビザを貰えるようになった。日系三世「の家族」も含めて日系人は定住してOKという訳だ。外国からの「いわゆる単純労働者」を受け入れないという方針を変えずに、日本人よりはるかに低賃金で働く労働力を調達する方便である。
■ブラジルでは、裏口が開放された改正入管法を前提にして、日本企業に雇われた日本人やブラジル人のブローカーが、「日本に来るとこんなに高給で、日本はこんなに暮らしやすい場所だ」と口八丁手八丁で日系三世「の家族」を勧誘し、来日させた。かくして、日本語を解さないポルトガル語コミュニティが、工業団地や周辺に分布するようになった。
■親についてきた子供については、文科省は「外国人の子供は義務教育の対象ではない」とし、国として教育の責任を負わない。ポルトガル語しかできない子供は小中学校に入れない。親はともかく子供たちの交わりを通じて移民コミュニティが現地社会に馴染むのがどこでも定番だが、日本政府は日本人の子供と日系人「家族」の子供を分離する。
■こうした分離のせいで、地域に大勢のブラジル人やその子供たちが居住するのに、日本人と交わらずに集住しがちになる。そのため、近隣社会のルール(ゴミ出し等)をめぐる混乱が絶えず、犯罪などをめぐって濡れ衣を着せ合う疑心暗鬼が蔓延する。だがこうした状況でも長く定住する者はおり、一般永住者に占める高割合となって現れている。
■ところが、一般永住者の資格をとっても問題は消えない。特別永住者(在日コリアン系)と違い一般永住者(中国系・ブラジル系ほか)の場合、生活保護や社会福祉の受給権があるのに、窓口で追い払われるケースが過半数なのだ。だから、一般永住者の資格があっても子供を小学校に通わせられないケースが、大量に発生している。これはマズい。
■なぜか。どんな先進国でも、エスニックリソースを専ら頼る移民一世と違い、言葉も喋れ、移民先の国民とも関係性を築いた移民二世と三世が、「国籍を与えろ、一般国民と同等に扱え」と言い出すことで、やっと社会的差別や政治的差別の解消に向けた大きな一歩が記されるからだ。フランスでも英国でもそうだった。このルートが遮断されてしまう。
■これがマズいのは、移民と非移民の分断が代替わりを経ても消えず、情報の非対称性や不完全性のせいで、ゆえなき差別が生じたり社会的・政治的な軋轢が生じるからだ。どのみち長期滞在の外国人労働者を受け入れるしかない以上、このことは社会統合上も治安政策上も大きなコストになる。こうしたコストを払う余力は日本社会にもはやない。
■昔の地域社会を知る者たちの感情的違和感が分からぬ訳ではない。だが、国民や政治家に必要なのは、長期滞在の外国人労働者を頼る以外に生産人口の減少に対処する方法がない以上、10年後にどうなるかを考えて、バックキャスティング的に(=未来から振り返って)今を思考するガバナンス視座に馴染んで、感情の問題はカッコに括ることだ。
■永住者参政権の是非が議論になるが、法的な行政的受給権を侵害された一般永住者については、参政権を与えると却って社会的分断が無用な対立を増進する可能性が高い。(1)永住権取得の容易化→(2)受給権行使の可能化→(3)日本社会とのコネクティビティ増進→(4)自明性の変更と反外国人感情の緩和と→(5)参政権授与、の順序が大切だ。
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■本作の意味を理解するには今述べた知識が不可欠だ。知識がないと本作キャッチコピーが「土方・移民・ヒップホップ」である理由も理解できない。第一項は土方=日本人。第二項は移民=ブラジル人。第三項のヒップホップは、ブラジル人ラッパーと日本人ラッパー、つまり本来ならある程度の統合が進むはずの移民三世と日本人の関係を指す。
■土方サイドには、三十代後半の土方男とその同僚、そしてセレブ志向の妻が配置される。移民サイドには、ブラジル人の夫とフィリピン人の妻と二人の子供からなる家族や、タイ人のホステスが配置される。ヒップホップサイドには、国粋的な日本人ラッパーたち、日系三世のブラジル人ラッパーたちが配置される。全体としてマルチスレッド的だ。
■その上、この三項区分とは必ずしも重ならないディスコミュニケーションが描かれる。(1)タイ人ホステスとのタイへの駆け落ちを夢見る土方男のリアリティーから見た、セレブ志向の妻が繰り出す励まし言葉の空虚。(2)タイ人ホステスから見た、彼女との駆け落ちを夢見る土方男の誘い言葉の空虚。「空虚だと批判する側が宿す、別の空虚」のモチーフ!
■加えて、(3)ブラジル人ラッパーの『シティ・オブ・ゴッド』的なリアルさから見た、日本人ラッパーの国粋的な歌詞や言葉の空虚。(4)国粋的な日本人ラッパーから見た、「人類みな兄弟」的なコスモポリタン気取りの元恋人の言葉の空虚。つまり、先ほどとは逆向きに「空虚だと批判される側が感じる、別の空虚」のモチーフ! 実に周到な構造がある。
■空虚だと批判する者自身が空虚であり、空虚だと批判される者自身が空虚を感じる。かかる「再帰性の泥沼」は、本作の世界観に重要な彩りを与える。つまり「空虚批判を正当化する充溢、あるいは空虚からの出口を指し示す充溢は、この世界のどこにも存在しない」という呟きに当たる。このことは先の基本知識との兼合いでアイロニーを構成する。
■政治学的ないし社会学的に見れば、「日本の移民政策には明白な失敗があり、政策的成功に向けたステップを明白に描ける」というモダン次元がある。それとは別に「その政策的失敗が作り出した『この社会』を生きる者たちは、空虚をめぐる『再帰性の泥沼』からの出口がどこにも見つからない」というポストモダン次元がある。この二重性が肝心だ。
■二重性が持つ意味自体が両義的だからだ。本作では「再帰性の泥沼」が重要なドラマツルギーを与えるが、統治権力の政策的失敗こそが「再帰性の泥沼」というリソースを与えてくれている。だが、このドラマツルギーが与える、ギリシア悲劇的な意味での悲劇の印象が、統治権力の政策的失敗に目を向ける契機を与えてくれる。ここに循環がある。
■こうしたウロボロスの蛇の如き両義性ゆえに、政策的空間が与えるモダン次元と物語的空間が与えるポストモダン次元とが形作る全体としての意味論的空間は、明確にポストモダン的なものになる。こうして作品に内蔵される情報に引き金を引かれる形で、我々の享受形式を制約する社会的文脈の過剰な複雑性に由来する情報が、我々を圧倒する。
■僕は、長期滞在の外国人労働者や一般永住者にまつわる問題を先に紹介した基礎的な範囲でしか知らないが、それを思い出しながら、本作を満たす「その言葉は空虚だ」という言葉の相互言及のネットワークに触れているうちに、尺でいうと4分の3ほどに至ると、あまりの複雑性に眩暈を覚え始めた。ところが本作の演出的な圧巻はそこからだ。
■必ずしも関連がはっきりしないマルチスレッド間のカットバックが、それまでよりも遥かに速いリズムで目まぐるしくなる。そして、土方の男と、同僚のタイ帰りの男が、水パイプでマリファナを吸引するシーン以降、『国道20号線』の後半4分の1がそうであったように、音響も映像表現も、虚とも実ともつかない眩暈的に浮遊した次元へと突入する。
■この浮遊した次元で、国粋的日本人ラッパーが、ブラジル人ラッパーをナイフで突き刺す。だが、何もかもが眩暈的に浮遊している中で、少しも重大なことが起こったように感じない。ことほどさように、余りにも重い複雑性が描かれていたはずなのに、「考えてみれば何もかもがどうでも良かったんじゃないか」と“ねこぢる的”な転換が図られるのだ。
■この辺りの表現は、眩暈的な浮遊が与える快楽という意味で、娯楽性が非常に高く、外国人労働者問題や一般永住者問題に知識がない者にも楽しめるようになっている。だが外国人労働者問題や一般永住者問題の重大さを知る者にとっては、もはや眩暈的な浮遊の中に全てを包み込む以外に生きる術はないのだ、というメッセージとして聴こえよう。
■随所でタマ(MDMA)という言葉が出てくる意味も、そこでやっと明らかになる。ラスト近くではタイ帰りの男が違法薬物がらみでパクられたという話を土方が伝え聞くが、その頃には観客も土方と一緒に「酩酊せずにはやっていられない」という感覚を共有している。自意識に由来するイタさゆえの酩酊から、社会構造に由来するイタさゆえの酩酊へ。
投稿者:miyadai
投稿日時:2011-09-18 - 23:12:19
カテゴリー:お仕事で書いた文章 - トラックバック(0)
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