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    <title>MIYADAI.com Blog</title>
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    <modified>2010-03-06T02:15:43Z</modified>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[「クール・ジャパノロジーの可能性」昨日１日目はキャンセル待ちの全員が入場できました]]></title>
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 <modified>2010-03-06T02:15:43Z</modified>
 <issued>2010-03-06T11:15:43+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[<b>国際シンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」3月5日開催１日目</b>は、600名定員が予約段階で満員でしたが、当日200名近いお客さんが来場しなかったので、約150名のキャンセル待ちの方々はすべて入場できました。<br />
<br />
<b>本日の３月６日２日目、１４時からのシンポ</b>も、同じような事態になるかもしれません。キャンセル待ちをしても無理じゃないかと思っていらっしゃる方々にお伝えいたします。僕が責任を持つことは一切できませんが、もしかすると会場前でキャンセル待ちされれば入れる「かもしれません」。<br />
<br />
東工大世界文明センターのウェブサイトはこちらです。<br />
<a href="http://www.cswc.jp/" target="_blank">http://www.cswc.jp/</a><br />
]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[眠れてますか？]]></title>
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 <modified>2010-03-01T08:52:12Z</modified>
 <issued>2010-03-01T17:52:12+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[<br />
<br />
<b><br />
疲れているのに2週間以上十分眠れていないのは“うつ”のサインかもしれません。</b><br />
<br />
内閣府「自殺対策　睡眠キャンペーン」<br />
<a href="http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/suimin/index.html" target="_blank">http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/suimin/index.html</a><br />
<br />
NPO法人　自殺対策支援センター　ライフリンク　清水康之代表のツイッター<br />
<a href="http://twitter.com/yasushimizu" target="_blank">http://twitter.com/yasushimizu</a><br />
<br />
<br />
<br />
]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[ウェブマガジン『B-plus』上での連載が更新されました]]></title>
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 <modified>2010-03-01T08:42:50Z</modified>
 <issued>2010-03-01T17:42:50+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[<br />
<br />
<br />
ウェブマガジン<a href="http://www.business-plus.net"><b>『B-plus』</b></a>でのビジネスコラムの連載（インタビュー連載）、今月公開分がアップロードされました。以下のリンクからご覧ください。<br />
<br />
<a href="http://www.business-plus.net/business/1003/114401.shtml" target="_blank">http://www.business-plus.net/business/1003/114401.shtml</a><br />
<br />
<br />
<br />
]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[トヨタのリコール問題について広瀬久和先生と議論させていただきました]]></title>
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 <modified>2010-02-26T00:02:34Z</modified>
 <issued>2010-02-26T09:02:34+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[<br />
<b>僕が東京大学の総合文化研究科で助手（社会学）をしていた時代に、やはり東大助手（法学）をしておられ、いろいろお世話になった広瀬久和さん（青山学院大学教授・元東京大学教授）をマル激にお呼びして、トヨタ車のリコール問題について話し合いました。３月１８日発売の『サイゾー』に要約版が掲載されます。それに先立って、宮台発言の一部を抜粋してご紹介させていただきます。</b><br />
<br />
────────────────────────<br />
宮台：　リコールという言葉を耳にすると、僕らは70年代に軽自動車「ホンダ・N360」から始まった「欠陥車問題」に結び付けて考えがちです。しかし畑村先生は「欠陥があるからリコールをする面もあるが、それとは別に、イノベーティブなプロセスの中で消費者と協力しながら製品の調整を行う手段としても考えられる」と言います。それを見逃して「リコール=欠陥＝企業イメージ低下＝不買」と捉えるのは違うのではないかということですね。<br />
　今回の問題は、切り取り方で見え方が変わります。最初は「アクセルがフロアマットに引っかかる」という話だったのが、やがて「部品の摩耗が原因でアクセルが戻らない」、そして「アセクル周りの電子制御システムに問題があるんじゃないか」「プリウスのブレーキの制御システム自体に欠陥があるんじゃないか」と次々に別の問題が持ち上がりました。その結果、どの問題にフォーカスしているかが明確ではない状態で、性質が異なるリコール問題が一緒くたに語られる印象が拭えません。「イノベーション過程での調整」の話も、フロアマットやアクセルペダルの設計・製造上の問題には当てはまらない。これらは自明に欠陥の問題です。その意味で、プリウスのブレーキに関わる不具合問題に焦点を当てること自体、アクセルなどでの欠陥問題を覆い隠す機能があるのです。<br />
<br />
宮台：　ところが豊田章男社長がフォーカスしたのは、自動車の安全性に関わる根幹部分の不具合ではなく、プリウスの設計に関する問題でした。「フィーリングの問題だ」というのは、プリウスについては的外れじゃない。だからこそ、僕からすれば、廣瀬先生がおっしゃるアメリカで燃え上がっている問題から、わざと論点をずらしていると見えました。フロアマットに引っ掛かったり、ペダルが張り付いたり、急加速したりする問題は、フィーリングの問題どころじゃありません。<br />
<br />
宮台：　昔であれば「リコールとは欠陥車を回収するものだ」という考え方が専らでしたが、現在ではいわば「予防原則」の観点で行われるようになりました。しかし、そのことがきちんとアナウンスされていないので、消費者は今も「リコール＝欠陥車」という従来のイメージを引きずり、強烈に否定的な反応を示してしまう。それが企業イメージへのダメージにつながってしまうため、不具合の可能性が明らかになったときに発表を遅らせようという動機が働いてしまうのだと思います。<br />
<br />
宮台：　豊田章男社長は会見で「トヨタは全能の存在だとは思っていない」と何度も語りましたが、廣瀬先生がおっしゃるように、アメリカではトヨタという企業が完全なものかどうかなんて誰も問題にしていない。むしろ、問題が生じた際の対応こそが焦点であり、技術そのものよりも、技術を巡る人間たちの行動に焦点をあてて憤慨しているわけです。その意味で、この会見は、アメリカの消費者に対する説明にはなっていませんでした。なぜこんな見当違いが生じるのか理解できません。<br />
<br />
宮台：　廣瀬先生がおっしゃるように、トヨタ自動車という企業固有の問題ではなく、日本の法文化によるところが大きいでしょう。例えば、85年にドイツのリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領（当時）が演説を行い、戦争被害に対する個人補償について「罪」と「責任」を明確に分けました。「ナチスの犯罪についてドイツ国家は謝罪しない。組織内のポジション、軍人だったのか市民だったのか、大人だったのか子供だったのかによって、罪が変わる。それぞれに違う人間たちの罪を政府が代表して謝罪はできない。しかし、罪はなくとも責任は果たす。それはは、人に貸した車が事故を起こした場合、自分に罪がなくても所有者として責任を果たすのと同じことだ」という理屈です。責任を果たすのはなぜかといえば、国際社会における存続可能性と共生可能性――具体的に言えば将来の欧州統合におけるポジショニング――を考えてのことです。<br />
　同じくドイツの社会学者ニクラス・ルーマンの発想では、罪とは過去を賠うものであり、責任とは未来を切り開くものです。マックス・ウェーバーの結果責任という概念が示すように、結果として未来を切り開けなければ、責任を果たしたとは言えない。そうした観点からすると、日本は戦争問題について、謝罪を重ねてきたものの責任を果たしてきたとは言えない。罪と責任が区分されない日本の法文化の存在が大きいと思います。<br />
<br />
宮台：　そう思います。日本に「予防原則」の発想が定着しないのも、罪と責任が未分化だからでしょう。「予防原則に従って責任を果たせ」という言明が有効であるには、罪から隔離されている必要があります。「予防原則」とは罪があるという確証がない段階で責任を果たすことを意味するからです。「責任を認めたら罪も認めることになる」というのは日本的法文化ではリアリティのある考え方だけど、国際社会は通らない。「今回の不具合に対してトヨタに過失（罪）があるかどうか判然としないが、万が一ということがあるので社会的責任を果たすべく回収します」と言えば国際社会は納得するのに、それをしなかったのは口惜しく感じます。トヨタが罪がないという意味で完璧な企業であるかどうかよりも、責任を果たす企業であることのほうが、複雑な社会システムでははるかに重要なのです。<br />
<br />
宮台：　僕は講義で法文化を説明する際に罪と責任の分化を話しますが、理解できない学生は一人もいません。過去と未来の分化には行為合理性があるから、口で説明すれば誰でも分かるのです。インターネットがこれだけ広がっていて、どのメーカーもウェブサイトを持っています。トヨタファンのブロガーも多いでしょう。であれば、そうしたネットワークを使い、「歴史的には日本ではリコールというと『欠陥車問題』という固定観念があるだろうが、今や欠陥が明確でなくても社会的責任を果たすためのリコールが必要になった」とアナウンスをすればいい。そうすれば欠陥の有無とは無関係に問題を社会的に処理できます。ところがトヨタはいまだに「電子制御に欠陥はない」の一点張り。例えば「欠陥は定かではないが、リコールして、ゼロから書き直したプログラムをインストールします」と言えばいい。<br />
<br />
宮台：　まさに宿命でしょう。僕は長くBMWに乗っていますが、10年ほど前から車体に大きなメモリを積み、300個ほどのセンサーで運転に関するあらゆる情報を蓄積し、不具合の申告があったときや、不具合がなくても定期点検や車検の際に吸い出しています。ＥＤＲ（イベント・データ・レコーディング）と呼ばれます。これが非常に有効なリコール対策になっています。欠陥車問題や不具合問題が浮上する前に手を打ってしまうわけです。むろんイノベーティブな調整にも有効です。実際長く乗るほど調子が良くなります。ユーザーがどう車を使っているのか、どんな乗り方をしているのかが分からなければ、技術が適正であるかどうか判断できません。プリウスに起こった問題は、ユーザーの使い方がつかめていないことに起因します。全ての機械は使用条件を想定して設計されています。想定どおりに使われているかを検証しなければなりません。一歩間違えば致命的な事故を起こし得る自動車という製品に対して、メーカー側は「ユーザーは想定したとおりの使用条件で車に乗っている“はずだ”」とか、まして「乗る“べきだ”」と考えてはいけない。ここにトヨタの勘違いがあります。<br />
<br />
宮台：　本来は、とんでもない運転をする人間も含めて全ユーザーをモニタリングする必要があります。それが社会的責任です。でなければ、2万人に1人の「変な人」が「変な操作」をして事故を起こして人が死ぬ可能性を抑止できません。そう考えれば、自動車業界は自然に、法的責任以前に社会的責任を取る方向にシフトしていかざるを得ないでしょう。<br />
]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[裁判所関係者向けの、最近の講演です。]]></title>
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 <modified>2010-02-23T23:36:00Z</modified>
 <issued>2010-02-24T08:36:00+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[<b>若い世代のコミュニケーション<br />
　―その変化の背景そして処方箋―<br />
　<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　宮　台　真　司<br />
自己紹介</b><br />
　宮台真司と申します。もともとは理論社会学で博士号を取りました。国家権力の構造を数理的に記述する研究です。そのあとサブカルチャー研究や若者研究にシフトし、みなさんのお目にふれるようになったと思います。<br />
　宗教や性愛、特に売買春のフィールドワークを1980年代から90年代前半ぐらいにかけて全国的に展開をしました。1993年にブルセラ女子高生の存在を世に知らせる記事を朝日新聞に載せたことから、いろんな反響が起こりました。<br />
　思春期の少女たちに対する思い込みがポンチ絵にすぎないことをはっきりさせるために、マスコミを使ってキャンペーンを展開したのですが、最近の僕は、出発点である国家権力の分析に戻りました。『日本の難点』もそうした方向性です。<br />
<br />
<b>問題設定の意味</b><br />
　本題に入ります。御依頼いただいた主題が、「若い世代のコミュニケーションが、どういうふうに変化してきたのか」なので、「若い世代のコミュニケーション、その変化の背景と処方箋」というタイトルをつけました。<br />
　まず、社会学の問題設定は、心理学との違いで言うと分かりやすいでしょう。心理学のようにミクロな問題をミクロな要因ので説明するのではなく、社会学はミクロな要因をマクロな要因から説き起こして説明するのです<br />
　今回「社会の現状」として取り出すものは三つあります。動機不可解な少年犯罪の激増、解離化・鬱化する若者の激増、関係性が脱落した若者の激増、という三つの問題をお話ししたいと思います。<br />
<br />
<b>１　動機不可解な少年犯罪の激増</b><br />
　動機不可解な少年犯罪の激増から申します。凶悪な少年犯罪が増えたとか、少年犯罪が激増したというのは誤りで、戦後、四つのピークがありましたが、強姦、放火、殺人については大体３分の１から５分の１に、ピークに比べて減りました。<br />
　97年に酒鬼薔薇聖斗事件が起こったのがきっかけですけれども、少年犯罪が激増したというようなデマゴギーが人口に膾炙（かいしゃ）しました。その背景には、動機がよくわからないという不安があるでしょう。<br />
　同じ問題が先進各国で生じています。60年代後半から行為障害の概念が大英帝国圏内で使われはじめ、70年代後半になると人格障害（パーソナリティー障害）という範疇が米国から世界中にひろがたます。<br />
　これは「病気ではないけれど、感情の働きが普通でない人たち」という概念で、行政的要請から生まれたものです。ただ、何が標準的な感情なのか、何が壊れているのかは、社会的な物差しを参照した上で定義される社会的事柄に過ぎません。<br />
　人格障害と精神障害は対立する概念ですが、現象を観察するときには混同されやすい。精神障害は「心の病気」です。何か犯罪を犯しても、罪は人ではなく病気にあると帰属処理できるのです。刑法39条１項「心神喪失」の概念が典型です。<br />
　これに対して、人格障害は病気ではなく、その人の性格に問題があるとされるケースです。性格形成のプロセスは本人に責任がないとも言えますが、それを言っては人倫の世界が成り立たなくなります。<br />
　「病気ではなく、健常な状態で犯罪を起こしたのであれば、その人が責任を負う」「性格上の問題は、本人が自己責任でカバーする」ことが、市民社会のルールになっているのです。だから人格障害は、精神障害とは違って、罰せられます。<br />
　つまり「病気が悪いのか、性格が悪いのか」という区別があって、性格が悪い場合には、普通に罰せられる。性格が悪いということを、「感情の働きが普通でない」「感情プログラムのインストールに失敗した」と表現しているわけです。<br />
　ところが昨今になればなるほど、何が標準的な感情プログラムなのか分からなくなります。社会成員が互いの感情を見通しにくくなり、勢い犯罪の多くは動機不可解になります。それで社会成員に不安が広がります。<br />
　それとは別に、帰属処理を可能にする社会的意味論の崩壊もあります。「貧乏だから食うに困って犯罪を犯した」といった因果帰属が昔は一般的でした。こうした帰属処理が可能ならば「自分の家族は食うに困らないから大丈夫」と安心できます。<br />
　でもそうした帰属処理が難しくなってきました。犯罪をした子が、普通の家の子で、普通に学校に通い、近所や教室での評判も悪くない。となると、切り離しによる安心ができず、「うちの子は大丈夫なのだろうか」と不安になるのです。<br />
　すると、不安をあてこんで視聴率を獲得したがるマスコミが、人々を不安にする情報を出します。マスコミは「不安のステイクホルダー」です。人々が不安になるほどマスコミを頼りにするので、マスコミは不安をあおるように動機づけられます。<br />
　感情の働きは習得的です。何が標準的な感情プログラムなのかを先験的には言えません。昭和34年生まれの僕はカブトムシやカエルに爆竹を結び付けて爆発させる遊びをしていました。今はそんなことをしたら大変。この子は性格異常だということになる。<br />
　こんな具合に、感情の働きの正しさや適切さを判断する基準は社会的です。同じような意味で、人を殺してはいけないかどうかも先験的ではありません。現に、人を殺してはいけないというルールを持つ社会はありません。<br />
　どんな社会も、戦争や処刑において「人を殺せ」と命令を発します。命令に背くと、逆に処罰されます。その意味で、「人を殺してはいけない」というルールを持つ社会はないと云えるのです。<br />
　代わりにあるのは、「仲間を殺すな」というルールと「仲間のために人を殺せ」というルールです。この二つはどの社会にも存在します。死刑禁止は、ここ40年の動きに過ぎないので、人類史的には無視できます。<br />
　感情プログラムはどういうふうにインストールされるのでしょう。普通の人は教育だと考えます。親や教員が何を教えるかが、子どもにインストールされる感情プログラムを決めるのだと考えがちです。<br />
　その証拠に、道徳教育や、感情教育などの必要性が、声高に叫ばれます。しかし、社会学者の大半は、そうした考えかたについて懐疑的です。なぜなら、「教育意図の失敗による社会化の成功」があるからです。<br />
　現に、僕がいた麻布中学と麻布高校は、中学高校紛争のあおりで、ほとんど授業がなかった。授業中に花札やマージャンをやったり、ラーメンの出前が来るなどいう状況で自己形成をしました。それが僕を「このように」育て上げました。<br />
　社会学では、教育意図の失敗は、社会化つまり「社会がまともな感情をインストールする働き」の障害にならないと考えます。むしろ「教育意図の成功を以て教育の成功だと見做す」ような甘えを警めるのが、社会学的思考です。<br />
　家庭も学校も通過点です。学校や家庭で「いい子」であることが、社会をちゃんと生きられることを保障するわけがない。逆に、学校や家庭で数多のトラブルを経験して乗り越えた子のほうが、社会をちゃんと生きられることがあり得ます。<br />
　感情プログラムについては別の論点もあります。社会をちゃんと生きるとはどういうことかということです。結論から言えば「社会をまともに生きる」ということから「社会をうまく生きる」という方向にシフトしました。<br />
　社会が複雑になると、いろんな人がいるので、共通の前提を当てにしにくくなります。すると、社会成員たちは、共通の価値観を内蔵していることよりも、監視と処罰をちゃんと施すことを、頼りにするようになります。<br />
　社会学では「価値コミットメントからアーキテクチャ（しくみ）へ」と云います。そういう方向に社会が進むほど、「ちゃんとした価値観を持った人から社会を構成しなければならない」という考え方が廃れます。<br />
　そして「社会成員がココロ的にちゃんとしていなくても、いいかげんなことができないような監視と処罰のネットワークを張り巡らせろ」という方向に、変わっていきます。現に昨今の日本は、そうした方向に進んでいます。<br />
　ここに「人々が殺してはいけないと思うから殺さない社会」と「殺してはいけないと思う人が一人もいなくても殺しが起こらない社会」とどっちがいいかという問いが潜在します。前者から後者へのシフトには、社会的流動性の増大という背景があります。<br />
　グローバル化すなわち資本移動自由化が進み、金も人も国境を越えて移動するのが当たり前になれば、かつてのように共通前提をベースにして社会を回すのは難しくなります。だから、放っておけば、前者から後者へのシフトは不可避的です。<br />
　そう考えると、動機不可解な犯罪が増えてきたのは、単に性格異常や人格障害が増えたという話でなく、社会的流動性の増大で、何が標準的な感情プログラムなのかが自明でなくなって、互いの動機が見通しがたくなった結果だと言えます。<br />
　もう一度確認します。僕たちの社会が、標準的感情プログラムのインストールを前提としない、過剰流動的な社会システムへと変化すれば、動機不可解な犯罪が増えるのは不可避で、それに伴う重罰化感情が噴き上るのも不可避です。<br />
<br />
<b>２　解離化・鬱化する若者の激増</b><br />
　次に「解離化・鬱化する若者」について話します。解離化とはディスアソシエーョンの訳。解離性同一性障害からきた言葉です。解離性同一性障害とは、一人の人間の中に複数の人格が存在して、記憶の共有がない状態です。<br />
　この障害では、人格が変わると、元の人格が何をやっていたのかを知らないので、個々の犯罪について「その人間」が責任を取りうるのかどうかが微妙になります。ここ十数年、日本でも結構いることがわかってきました。<br />
　精神鑑定において昨今は「解離的」という言葉がよく使われます。この場合は、リアリティーが連続していないとか、記憶の脱落がところどころに存在するという「弱い意味」です。その意味で「キレやすい」という言葉と緩く対応します。<br />
　「キレる」とは、感情の継続性の中で喜怒哀楽の起伏があるというより、ばちっとキレた瞬間の前と後でリアリティーが違ってしまうので、キレた状態から回復すると「何で俺はあんなことをやってしまったのか」となるケースです。<br />
　僕の考えでは、解離化は過剰流動的な社会への適応です。この社会は解離を奨励する社会です。そのことは、例えば、企業研修プログラムや就職活動マニュアルの中身が、ここ20年ぐらいでだんだん変わってきたところにも見出せます。<br />
　かつては「理想的な自分を現実化するには、どうしたら良いか」という問題設定だったのが、「場に応じて最も適格な人格を使い分けるようにするには、どうしたら良いか」という問題設定ふうに変わりました。<br />
　かつては「自己実現する」がキーワードでしたが、最近は「ＫＹを回避する」つまり「場に応じて適切な振る舞いをする」ことが推奨されます。なぜか。理由は過剰流動性です。解離化は過剰流動的環境に非常に適合的なのです。<br />
　過剰流動的環境は、人格システムに巨大な情報処理負荷をかけます。この負荷を、単一のCPUで処理するより、複数のCPUに処理を分散して緩やかに結合するほうが、情報処理能力があがります。それが「適合的だ」と云う所以です。<br />
　次に、鬱化です。過去10数年間に、鬱という処方を受けて抗鬱剤とか抗精神薬を処方される人の数が30倍以上になったとも言われます。大きな背景の一つは、薬理療法化と行動療法化でしょう。<br />
　かつては精神科医によるコミュニケーションや精神分析が重要だとされました。それが、薬を飲んだり一定の行動を反復すれば問題が改善するのなら、カウンセリングもコミュニケーションもいらないという発想が広がったことがあります。<br />
　もう一つ背景は、ネットによる情報化。「この医者は簡単に薬を処方する」といった情報が一挙に拡がります。そこから先は悪循環。クライアント１人に5分以下の診療時間しか取れない状況で、詐病かどうか見分けられずに処方することになります。<br />
　そうしたものも含めて鬱として処方を受けるので、30倍以上の数になった面もあります。ただ、実際問題として、鬱的になりやすい若い人がものすごい増えたことは、僕の経験からも間違いないと思います。<br />
　鬱病はもともと内因性に分類されます。外因性つまり外から障害を受けて脳がおかしくなったのではないし、器質性でもない。内因性というのは心のダイナミックなメカニズムのどこかに故障が生じていると考えられるケースです。<br />
　内因性の精神疾患については、基本的には社会ごとの比率がほぼ一定で変わらないと考えられてきました。それが、これだけ急激に変わるということは、内因性の「古典的な鬱」とは違う鬱が増えたことを意味します。<br />
　そこで「軽症鬱病」「軽躁軽鬱」と呼ばれます。「古典的な鬱」は自罰傾向が強いのに対し、「軽症鬱病」は他罰傾向が強かったり、他罰傾向と自罰傾向を頻繁に交替します。自分を責めたと思うと他人を攻撃する人たちが増えています。<br />
　「古典的な鬱」の場合、従来「自分について理想が高いから、理想の自分から自分が離れるのが怖くて、人とコミュニケーションできなくなったり表に出られくなるのだ」というふうに言われてきました。<br />
　ところが「軽症鬱病」にそうした傾向はありません。非社交的どころか、むしろ社交的な若い人たちが「軽症鬱病」にかかりやすい。非常に社交的な人間が、ある時点を境に突然人前に出てこられなくなるわけです。<br />
　こうした事実に僕が気づいたのは90年代半ばです。「ナンパ師」を集めたイベントで、5人集めたとすると、そのうちの1人か2人は「いま鬱です」と言って出て来られない。社交的どころか、モテまくっている連中が、そうなるわけです。<br />
　これも僕に言わせると、過剰流動性社会への適応です。「ナンパ師の逆説」と言われるものがあります。ナンパ師は、ナンパの成功を喜ぶ裏側で、ナンパの成功ゆえに女性に対する不信を募らせます。それゆえに経験を重ねるほどナンパの喜びが減るわけです。<br />
　似たことが性愛領域を越えて拡がっていると感じます。性愛に限定すると、モテるということの意味が以前とは随分違ってしまった。昔はつきあうチャンス自体がレアだったから、異性と食事をするだけでうれしかったわけです。<br />
　過剰流動的になった今日では、女性が男性に「かわいい」とか「好き」とか言われても、「かわいい女性なんてゴマンといる。かわいければだれでもいいのか」というふうに思ってしまうわけです。。<br />
　一般的に過剰流動的社会では、関係性の正当性を弁証し難くなります。「私でなければいけない理由」がどんどん希薄化します。それゆえに、社交的な人ほど、逆説的な状況に引き裂かれて、退却傾向に陥りやすくなると考えられます。<br />
　過剰流動的な社会は、関係性をつまみ食いするようになるので、人格の「まともさ」を要求しなくなります。むしろ、場面に応じて最も合理的な振る舞いをすればそれでＯＫ。自分や相手が何者なのかは問われません。<br />
　つまり「うまく生きるために必要なこと」が「まともに生きるために必要なこと」から大きく乖離するのです。そうした社会では、「まともに生きよう」とするとかえって「うまく生きられなく」なります。<br />
　だったら「まともに生きよう」というオリエンテーションを減らし、「うまく生きよう」というオリエンテーションに傾くことが合理的です。こうした状況が広範な適応現象を生んだことが、解離化と鬱化の双方の背景要因でしょう。<br />
<br />
<b>３　関係性が脱落した若者</b><br />
　<b>(1)「ケータイ小説的なもの」の拡がり</b><br />
　次に「関係性が脱落した若者」という話をします。5年ぐらい前からケータイ小説が大人気です。読んでみると、1970年代や80年代の少女漫画などとは全く違っています。そこには関係性は描かれないで、事件ばかりが描かれるのです。<br />
　似たような方向性は以前から見られました。僕が1990年前後に「15秒コマーシャル的なものの増大」と呼んでいたものです。「ユーミン（松任谷由実）的なものから、ドリカム（ドリームズ・カム・トゥルー）的なものへ」の変化です。<br />
　ユーミン的な歌詞の世界は、自己同一性を有した主人公の物語です。そういう歌が1992年あたりを境にして消えていく。代わりに出てくるのが「それってある」的なシーンの羅列です。それをリアルだと見做すような歌や漫画やドラマだらけになります。<br />
　そうした流れの中で「トレンディードラマ・ブーム」も展開していきます。自己同一的な主体として完成されるという「自己形成」の観念は廃れました。「それってある」「気持ちはわかる」みたいなものだけで、モザイク的に世界が構成されていく方向です。<br />
<br />
　<b>(2)「彼女がいても非モテ」の拡がり</b><br />
　それとは別に「彼女がいても心は非モテ」という現象が、2000年期に入る頃から目立つようになります。男の子たちの悩みの相談が、「セックスする相手がいない」というのから「関係が続かない」というものに大きくシフトしました。<br />
　長続きがしない理由の最たるものは「ソクバッキー」つまり束縛現象です。携帯電話の着信記録やメールのログを盗み見た経験のある人の割合は、交際相手のいる二十歳代で7割近くいます。実際に『ＳＰＡ!』という雑誌で調査してもらいました。<br />
　盗み見れば、たいてい自分の知らない異性との交流の履歴が残っている。それがセックスを意味するかどうかは別として、疑心暗鬼が生じて自分も二股三股の保険をかけることになりがちです。こうして「たこ足化の悪循環」が回ります。<br />
　悪循環の中で、些細なトラブルがあるたびにホッピングします。そうすると、交際した相手の数が増えても、関係の履歴が積み重ならない。また、いつでもホッピングできることを背景に、ちょっとしたことでキレて関係が終わりがちです。<br />
　疑心暗鬼化の中で、「30分ごとにメールを送れ」とか「１時間ごとに写メールを送れ」みたいな、女性を束縛したがる男つまりソクバッキーも増えます。それらを背景に、「セックスはできるけど、関係性が得られない」という悩みが広がるのです。<br />
<br />
　<b>(3)「援交第一世代」から「第二・第三世代」へ</b><br />
　次に援助交際についての記述です。僕は援助交際の世代を、第一世代、第二世代、第三世代と分けます。第一世代は、援助交際が始まる1992年からピークの1996年までの間の援交女子高校生です。<br />
　第二世代は、96年のピークを過ぎて以降、2001年ぐらいまでの援交女子高校生です。第三世代は、2002年以降ぐらいから今日にいたるまで。それぞれメンタリティや行動形態が異なります。<br />
　援交第一世代は、中森明夫の言うトンガリキッズが中心です。まわりのリスペクトを集める格好いい女の子たちが援助交際をしていたから広がりました。肯定的なロールモデルだったので、あっという間に全国に援助交際が広がりました。<br />
　この子たちの特徴は、しゃべりたいことをいっぱい持っているということです。「どうして援助交際してるの？」と尋ねると、何時間でも喋りつづけるという感じ。96年以降に出現する第二世代は、聞いても何もしゃべりません。<br />
　背景を言います。95年10月からエヴァンゲリオンブームが起こり、軌を一にしてアダルトチルドレンブームが起こります。“親の前で「いい子」を演じてきたので、思春期をうまくクリアできず、いまだに承認を得ようと右往左往しています”というタイプ。<br />
　リストカッターや食べ吐きを含めた自傷系に多いタイプです。それで「援交はイタい子がやるんだ」というイメージが拡がって、コギャルがいっせいに援助交際から離脱します。援交現場に残ったのは「髪が黒くて肌が白い子」ばかりになりました。<br />
　いずれにしても援助交際のイメージが96年を境にして悪いものに変わります。同じ96年から、デリカテッセンに象徴される中食化（なかしょくか）のブームが起こります。女子高生たちについては僕の言う「お部屋族化」が進みます。<br />
　社交的な子が渋谷センター街みたいな繁華街や盛り場に出てくる動きがなくなるのです。一つは、渋谷センター街に出るのではなく、町田とか柏とか立川など地元の盛り場に集うようになる傾向です。<br />
　もう一つは、若衆宿化した「24時間出入り自由なお友達の家」にタムロすることが当たり前になって街に出なくなる傾向です。面白いことに、96年の後半ぐらいから同時多発的に北海道から沖縄まで同じ現象が生じ始めます。<br />
　2001年頃からまた変わります。この頃、携帯電話の所有率が半分を超えます。可処分所得ならびに可処分時間のかなりの部分が、携帯電話に使われるようになります。その結果、テレビの視聴率--正確にはセットインユース--が下がります。<br />
　そのことと援交第三世代が関係します。携帯代を稼ぐ必要が出てくるのです。例えば月2万円以上というと小遣いを越えます。「だから援助交際をするんです」というケースが増えます。それまで常習援交が多かったのが、臨時援交が増えます。<br />
　お財布代わりの援助交際です。消費者金融を使うよりも援助交際した方が、取立てが来ないので怖くないし、親に迷惑もかけないから安心というわけです。それで、臨時援交がものすごく増えました。<br />
　取材者側から言うと、第一世代よりも第二世代が、第二世代よりも第三世代が、援交についての聞き取りが難しくなりました。第三世代の難しさとは、「暗いから喋らない」とか「コミュニケーションが苦手で喋らない」とかではありません。<br />
　そうではなく、理由を聞かれても、「ケータイ代が払えないし…」と１秒回答で終わるということです。ただし昔のように貧乏な家の子がやっているのとは、全くイメージが違う。彼氏や親に迷惑をかけたくないというコミュニケーション的な理由です。<br />
<br />
　<b>(4)「プロフサイト」がもたらす疑心暗鬼</b><br />
　最後にプロフサイトがもたらす疑心暗鬼です。援交する子を取材していて、最近になるほど、ラポールから恋愛感情を抱く子が出て来て危険になりました。親友にも喋らないことを僕に喋るがゆえの勘違い。そこで今は必ず親友と一緒に来てもらいます。<br />
　Ａ子がＢ子を連れて来たとます。するとＡ子がＢ子に「私、言っていなかったんだけど、本当はこんなことをしてたんだ」と言う。するとＢ子も「それを言うなら私も言っていなかったけど、こんなことをしてたの」と言う。「告白合戦」になるわけです。<br />
　僕が驚いて「親友だったら、何で黙っていたの？」と尋ねると「親友だから言えないんですよ」と答えるのです。ここで親友とは、「何でも言える相手」ではなく、「何を言うべきかに一番気を遣う相手」に変わっています。<br />
　僕たちの言う「友達」が、彼女たちの言う「親友」にあたり、僕たちの「親友」が、彼女たちの「まぶだち」にあたります。「まぶだち」という言葉には、実際には滅多にあり得ないけどという不可能性のニュアンスが含まれます。<br />
　何もかも話せる「親友」がいなくなったのは、なぜか？　あるいは「親友」に本当のことを喋れなくなったのは、なぜか？　必ず出てくるのが、プロフサイトの話です。援交してるなんで喋ると、プロフサイトの日記に書かれ、周囲にバレる。それが恐い。<br />
　つまりブログやSNS（ソーシャル・ネットワーク・サービス）やプロフサイトを含めて、日記を不特定多数に公開するような「疑似プライベート空間」が拡がったことが、昔は親しくあり得た人間関係に、疑心暗鬼を持ち込んでいます。<br />
　子どもだけではなく、親も同じようなプロセスで疑心暗鬼化しています。多くの人間が、「匿名メディア化による犯罪化傾向」を指摘していますが、のべ利用者の数から見ればささいな問題で、実態を知らない人間の言うことです。<br />
　もっと重要なのは、携帯メールを含めたネット・コミュニケーションの拡がりによるデュアル・レイヤー化です。オフラインのリアル・コミュニケーションと、オンラインのバーチャル・コミュニケーションの、二層に分かれるのです。<br />
　そうすると、オンラインでダダ漏れになることが恐くて、オフラインで喋りたいことが喋れなくなってしまう。これが「プロフサイトがもたらす疑心暗鬼」の典型面です。別に、意図的な悪口が書かれることだけが問題なわけじゃありません。<br />
　こうした全体が示すのは、関係性を築くための前提が空洞化している現実です。日本人は、相手と前提を共有していると思えないとコミュニケーションを始められません。そう思えなくなると、突然コミュニケーションを進められなくなってしまう。<br />
　その意味で、関係性の空洞化の背後にあるのは、共通前提の消滅です。共通前提が消滅したので、関係性を深められない。代わりに表層的なプロトコル、つまりコミュニケーション手順の形式ばかりが発達します。女子高生コトバが典型です。<br />
<br />
<b>背景</b><br />
　ここまでに、動機不可解な少年犯罪の増加、解離化・鬱化する若者たちの増加、関係性が脱落する若者たちの増加について、「現状」をお話ししました。次に、それがどうしてもたらされたのか、背景をお話しします。<br />
<br />
<b>１　理論編：〈システム〉全域化による〈生活世界〉空洞化</b><br />
　まず理論編の話をします。〈システム〉と〈生活世界〉とはどういう概念かを説明します。マックス・ウェーバーの言葉を使えば、物事を計算可能にする手続が一般化した領域が〈システム〉です。例えば役割＆マニュアルが支配的になった領域です。<br />
　それに対し、残余の領域が〈生活世界〉です。役割＆マニュアルではなく、善意＆自発性が支配的であるような行動領域です。〈システム〉ではマニュアルが支配するのに対し、〈生活世界〉では慣習やしきたりが支配します。<br />
　〈システム〉と〈生活世界〉の決定的違いは、簡単に言えば以下の点にあります。〈システム〉は匿名的で、入替可能で、過剰流動的であるのに対し、〈生活世界〉は記名的で、入替不可能で、流動性が低いということです。<br />
　役割をマニュアルどおり演じられれば誰でもかまわないのが〈システム〉です。デニーズ的なものが典型です。多人種構成の米国社会における人事やマネジメントから出てきたノウハウで、グローバル化に適しているので一挙に全世界化しました。<br />
　〈生活世界〉は対照的で、ファミレスやコンビニとは違って、地元商店的なものです。店で立ち話が生じ、「この間まけてくれたんだから、もっとまけてよ」「持ってけ、どろぼう」みたいな世界です（笑）。<br />
　デニーズ的なものに比べて計算不可能ですが、コミュニケーションが履歴によって形づくられた信頼に依存するので誰にでも開かれてはいません。しかしそのぶん感情的安全があります。デニーズ的なものは開かれていますが、感情的安全はありません。<br />
　ウェーバーは〈生活世界〉が〈システム〉に置き換えられていく動きのことを「近代化」ないし「合理化」と呼びました。この意味での「近代化」が進むと、いずれは必ず「モダンからポストモダンへの変化」という逆説が起こります。<br />
　どんな逆説なのか。〈生活世界〉が〈システム〉に置き換わっていくプロセスの当初においては、〈生活世界〉を生きる「我々」がより便利で豊かになるための適宜（手段）として〈システム〉を使うのだと、自己理解できます。<br />
　ところが、〈システム〉がある程度以上に広がって〈生活世界〉が空洞化すると、もはや「我々」が〈システム〉を使っているとは言えなくなります。「我々」や〈生活世界〉というイメージすら〈システム〉の構築物だと理解する他なくなります。<br />
　そこでは「主／従」「目的／手段」の図式が壊れます。学問的に言うとそれがポストモダンで、それが生じない状態がモダンです。モダン段階では〈生活世界〉を生きる「我々」が〈システム〉を使うと表現できますが、ポストモダン段階ではそうはいきません。<br />
　こうした変化が何を意味しているかです。従来、共同体の自立的な相互扶助によってまかなわれていた便益が、市場サービスや行政サービスから調達されるようになることを、まずは意味します。ここで自立的とは、お上を頼らないという意味です。<br />
　でも、単に便益の蛇口が変わったのではありません。公共性の観念が一変してしまうことがポイントです。「自分たちでできることは自分たちでやる（社会でできることは社会でやる）、それができない場合に国家を呼び出す」という図式が消えるのです。<br />
　シヴィリアンという観念がなくなると言ってもいい。シヴィリアンは「民間の」と訳されますが、ニュアンスが伝わりません。シヴィリアンには、パブリックなニュアンスがあります。「市民的公共圏の」という言い方にあたるでしょう。<br />
　つまり、パブリックが国家を意味するようになり、シヴィリアンがなくて、プライベート（私的・個人的）な領域がガチンコで国家に向き合うようになります。例えば、心細くなった個人は、相互扶助を頼らず、直ちに国家の呼出線を使うようになる。<br />
　加えて、従来は「知らない人でも信頼できる」という前提だったのが、「知らない人は信頼できない」という前提に変わります。その結果、市場ではセキュリティ産業が隆盛になり、行政は監視カメラ化や警察官増員の方向に動くようになります。<br />
　僕の言葉で云えば「不安のマーケティング」と「不安のポリティクス」が社会を覆います。社会のどこのかしこも、不安をベースにしたポピュリズム（人気主義）が支配するようになります。<br />
　さらに、「世の中にいろんな人や共同体があっていい」という多様性に開かれた心が、「いろんな人や共同体があったら困る」という「多様性フォビア」に変わります。国家が命じたわけでもないのに相互監視が始まり、何かというと国家が呼び出されます。<br />
　まとめると、(1)社会ベースから国家ベースへ、(2)信頼ベースから不安ベースへ、(3)多様性ベースから均質性ベースへ、と、人々のコミュニケーションの前提が変わります。その結果、社会が安全で安心できるものに変わるのか、というと逆です。<br />
　一例を話します。旧住民よりもむしろ神経質な新住民の要求に、行政が応じて、店舗風俗が壊滅させられて、すべて派遣風俗にシフトした結果、ナマ本番競争で性感染症のリスクに晒されたり、客の暴力のリスクに晒される女性が増えました。<br />
　それだけじゃない。店舗風俗が主流だった時代、店舗は警察に袖の下を渡すことで小さなことを見逃してもらうかわりに、警察は店舗からいろんな情報を入手するという、サブスタンシャルな（実質的に意味がある）プロセスがありましたが、縮みました。<br />
　つまり、(1)社会から国家へ、(2)信頼から不安へ、(3)多様性から均質性へ、と人々のコミュニケーション・ベースが変化することで、新住民らによる行政へのお門違いの要求が増加し、結果として、リスクの配置と利権の配置が誰にも見えなくなりました。<br />
　もう一つ申し上げれば、〈生活世界〉が空洞化して〈システム〉が全域化することは、従来の人間関係の距離空間が変わることを意味します。ひとつ屋根の下の家族よりも、出会い系でやりとりしている知らないおじさんの方が、よほど親しいという現象です。<br />
　まとめますと、理論的には〈生活世界〉が空洞化して、それを〈システム〉が置き換える動きが生じ、それゆえに社会イメージが変わり、結果として、社会の中で我々がなすべきことのイメージや、国家がなすべきことについてのイメージが変わりました。<br />
　まあ、一口で言えば「神経質化」が生じました。社会の全体がどう回ってるのかがわからないで、自分が見えるところだけをきれいにしようとする動きばかりが広がります。並行して、見えない部分に対する疑心暗鬼化がどんどん広がるということです。<br />
<br />
<b>２　歴史編：二段階の郊外化による〈生活世界〉空洞化</b><br />
　次にそうした変化がどういう経緯で生まれてきたのかを、歴史的に追尾します。〈生活世界〉の空洞化＝〈システム〉の全域化は、郊外化の動きと並行します。そして、郊外化は、第一次郊外化と、第二次郊外化という二段階で生じました。<br />
　第一次郊外化とは、60年代の団地化です。第二次郊外化とは、主に80年代のニュータウン化です。第一次郊外化とは「地域の空洞化×家族への内閉化」によって特徴づけられます。地域が担っていた便益供給を、専業主婦が専一的に担うようになるのです。<br />
　日本で専業主婦率が最も高いのは「団塊の世代」です。団塊の世代は、団地で育った最初の世代です。団地化は、農村の過剰労働人口が都市部に移転され、男はサラリーマンや工場労働者として、女はそれをサポートする専業主婦として働きました。<br />
　第二次郊外化＝ニュータウン化は、僕が「コンビニ＆ファミレス化」あるいは「デニーズ化」などと名付けてきた過程です。この過程は「家族の空洞化×市場化＆行政化」によって特徴づけられます。<br />
　簡単に言えば、専業主婦化が緩和され、そのぶん市場サービスや行政サービスが利用されるようにな田つす。この動きは、男女雇用機会均等化とも連動して、生活形式の多様化をもたらしましたが、家族的な絆の希薄化という暗黒面を伴いました。<br />
　それを示すのが「第四空間化」です。大人たちには便益調達の「市場化＆行政化」として現れたものが、思春期の子たちには「第四空間化」として現れました。感情的安全のよすがが、家族のかわりに「第四空間」に求められるようになりました。<br />
　「第四空間」には歴史的に三種類あります。一つは70年代末から広がる「仮想現実化」。アニメやゲームの拡大です。次に80年代半ばから拡がる「匿名メディア化」。1985年に誕生するテレクラ以降の出会い系の流れです。<br />
　第三は、80年代末期から生じる「匿名ストリート化」です。ヤンキーと区別されるチーマー化の動きです。ヤンキーとは、暴走族が典型ですが地元の裏共同体です。若い頃はハネあがっていても、やがて「卒業」し、地域の祭りで神輿の擔ぎ手になります。<br />
　これに対し、チーマーとは、センター街のようなストリートに集う、互いに本名を知らずにニックネームだけで呼び合う関係です。参入離脱は自由で「卒業の儀式」がないかわりに、絆と呼べるようなものはない。チーマーからコギャルが出てきました。<br />
　「第四空間」とは、学校でも家でも地域でもない場所という意味です。以下のような過程で「第四空間化」が進みました。60年代に「モノの豊かさ」を達成すると、家族にとって何が良きことなのか分からなくなります。このアノミーを埋めたのが「学校化」です。<br />
　正確には「日本的学校化」と呼ぶべきですが、子供も良い学校に入れさえすれば良いのだという発想が、山の手の家庭だけでなく、全階層に拡がりました。総務省統計では、75年から家計に占める教育費の割合や塾通いの比率が急増します。<br />
　かつて学校と家と地域に別の原則がありました。学校で勉強ができなくても家業を継げりゃいいとか嫁に行けりゃいいとか。それがなくなって、子供から見ると、家でも成績のことをいわれ、地域でも進学実績の話しか評判にならない。<br />
　これでは尊厳すなわち自己価値のリソースが不足します。この「学校化」ゆえの「尊厳のリソース不足」を背景に、「学校化されていない空間＝第四空間」で「尊厳を奪われない居場所」を求めるという動きが拡がったのです。<br />
　実際、仮想現実、匿名メディア、匿名ストリート、という３種類の「第四空間」には共通性があります。「名前を欠いた存在になることで自由になる」ということ。名前は、学校化された空間における否定的自己イメージと結びついていました。<br />
　次に「第二次郊外化」と「第四空間化」の関連を象徴する82年から86年の間のエピソードをお話しします。82年、セブンイレブンがＰＯＳ（リアルタイムの在庫管理システム）を導入し始め、86年、全店ＰＯＳ化が完了します。<br />
　かくして、コンビニで、宅配やＤＰＥやチケットサービスや公共料金支払サービスを請け負うようになって、コンビニが地域の情報ターミナル化します。そして、この５年間でコンビニの数が、倍近くに増えます。<br />
　同じく82年はワンルームマンション建設ラッシュの年。全国でワンルームマンション建設反対運動が起こります。翌年83年はレディースコミックの創刊ラッシュ、84年は投稿写真誌の創刊ラッシュです。両方ともコンビニ販売を前提にした媒体です。<br />
　84年は、70年代半ばから少しずつ広がりつつあったダイクマとかロヂャースといったロードサイドショップが大爆発します。理由は、NIES諸国で作られた白黒テレビが２万円台、カラーテレビが４万円台で買えるようになったからです。<br />
　おかげで一挙に84年からテレビが個室化します。その結果、お茶の間で家族がみんな揃ってみることを前提にしたクイズ番組と歌謡番組が廃れます。象徴的なのは1987年の『ザ・ベストテン』の打切りです。<br />
　テレビの個室化に続いて、85年からは電話の個室化が進みます。この年、電電公社が民営化して、電話が買い取り制に移行。多機能電話が販売されはじます。その結果、子供部屋を含めた家族の個室に子機が置かれるのが当たり前になっていきます。<br />
　くしくも85年の２月、風営法改正がなされます。これは81年から始まった大阪阿倍野や新宿歌舞伎町を皮切りとした「ニュー風俗」の展開に対応したものです。この法改正に対処して、電々民営化による多機能電話化を追い風にして誕生したのがテレクラです。<br />
　テレクラ誕生には、もう一つ、「ニュー風俗」ブームの中で82年から「テレホンセックス産業」が拡がっていたという前提もあります。85年９月に花園神社横に世界発のテレクラが誕生して翌年には全国で数百店になりました。<br />
　86年からはＮＴＴが♯8301、♯8501の伝言ダイヤルサービスを始めます。89年からはダイヤルQ2サービスの試験を始めて、90年からサービスを本格化します。こうして一挙に「出会い系産業化」が拡がっていきました。<br />
　85年に『ケイコさんのいなり寿司』篇というセブンイレブンのテレビＣＭが話題になります。『開いてて良かったシリーズ』の第一弾です。夜中にケイコさんがいなり寿司が食べたくなり、セブンイレブンに入っていなり寿司を買って「開いてて良かった」と言う。<br />
　夜中にお腹が空く。セブンイレブンで稲荷寿司を買う。ついでにレディコミや投稿写真誌も買う。家で稲荷寿司を食べながらレディコミをめくる。そこにテレクラやＱ２の広告がある。ふと手元も見るとコードレスホンが。ピッピッと電話すると１時間後には…。<br />
　セブンイレブンのＣＭが象徴するのは、85年に突然、それまであり得なかった振舞いが、可能になったということです。それまでは、夜中にお腹が空いたから稲荷寿司を買いに外出する、という振舞いすらあり得なかったはずなのです。<br />
　第一次郊外化＝団地化＝［地域空洞化×家族内閉化］と、第二次郊外化＝ニュータウン化＝［家族空洞化×市場化＆行政化（第四空間化）］の、二段階のステップで、1985年に、それまであり得なかった振舞いが可能になる空間が突如出現したわけです。<br />
　社会がそういう変化をしてきたことをみなさんが主題的に議論したことがあったでしょうか。そういう変化がどういう良いことと悪いことをもたらしたのか。利害得失表をきちんと議論していません。それがこれから申し上げる処方箋に絡む重要な問題です。<br />
<br />
<b>処方箋</b><br />
　処方箋の話をいたします。欧州は、こうした変化が良いことか悪いことかを、ずっと議論してきました。その結果「便益の増大は良いことだが、絆の崩壊は悪いことだ、ゆえに、絆を守るために多少の便利さの犠牲は仕方ない」という話になりました。<br />
　こうして「〈生活世界〉空洞化＝〈システム〉全域化」がもたらす副作用への処方箋として、「〈システム〉全域化への制約」が選択されました。80年代半ばに北イタリアのコミュニティハウスから出発したスローフード運動がきっかけになりました。<br />
　実は同じ時期、カナダでは「国境を接する米国マスコミを鵜呑みにするな」という趣旨でメディアリテラシー運動が始まり、「米国では巨大マーケットの出現による地元商店の衰退に反対する」という趣旨でアンチ・ウォルマート運動が始まります。<br />
　そういう、〈システム〉全域化を懐疑する運動が、80年代後半に先進各国で拡がりました。でも日本だけはそれが拡がらず、逆に第二次竹下内閣での日米構造障壁協議を通じて、消費者利益の旗印で、思考停止的に大規模店舗規制法を緩和しました。<br />
　それはともかく、全体として言えば、米国の方向は欧州とは違います。欧州が〈システム〉全域化を制約する方向なのに対し、米国は〈システム〉全域化をむしろ徹底すること（例えば監視社会化）によって、〈システム〉全域化の副作用を取り除く方向です。<br />
　問題は日本です。日本は欧州的方向と米国的方向のどちらを選ぶのか。実際のところ、米国的な処方箋に思考停止的に追随した結果、米国社会とは文脈が全く違うがゆえに、米国では起こらなかったような混乱が日本で起こるようになりました。<br />
<br />
<b>１　欧州的処方箋</b><br />
　〈システム〉全域化による副作用を手当てする処方箋ですが、申し上げたように、欧州は〈システム〉全域化を制約する方向です。典型的なのが先に触れたスローフード運動からスローライフ運動につながる流れです。<br />
　ファストフードにスローフードを対置しています。つまり「速いうまい安い」も良いが、それによって失うものに敏感になろうという運動です。具体的には、地元商店、地元産業、地元文化、地元の絆などの複合体を守ろうというのです。<br />
　日本でスローフードというと、オーガニックを食べることとか、トレーサビリティを確保することなどと勘違いされていますが、関係ありません。「便利をもたらさす〈システム〉化から、絆をもたらす〈生活世界〉を護持する」のが、本質です。<br />
　〈システム〉全域化を制約する欧州的処方箋は、正確には〈システム〉の否定ではないし、単純な〈生活世界〉保全でもない。それを理解するには、ネオリベから、改良版ネオリベとしての「第三の道＝新しい社民主義」へのシフトが、良い材料です。<br />
　ネオリベとは「国家を小さく、社会を大きく」という発想です。単に財政破綻を回避するためでなく、社会の空洞化を回避するための「国家を小さく」でしたが、英国のサーチャー首相が「社会」を昔ながらの伝統社会と等置したので揶揄の対象になりました。<br />
　そこで97年に誕生するブレア政権のブレインだった社会学者のアンソニー・ギデンズが、「国家を小さく、社会を大きく」はそのまま、「社会」を伝統社会に固執せずにオープンにイメージしようと呼びかけました。いわば「改良版ネオリベ」です。<br />
　具体的には、「伝統家族を保全しよう」ですと、伝統家族の枠に収まらないものは排除の対象になります。そこでギデンズは、「伝統家族と同等な機能を果たすならば、みかけはともかく肯定しよう」という具合に「包摂」を心がけた立論をしました。<br />
　ギデンズのような発想をする場合、伝統家族の維持や再興がいろんな意味で不可能ならば、同じ機能を果たすけれど見かけが異なる集団を各所にデザインしよう、それを〈生活世界〉としよう、という思考になります。<br />
　その意味でも、〈生活世界〉は「手付かずの自然」みたいなものではなく、敢えて手をつけない人為としての自然であり、もしくは、手を付けないことが不可避なので「手をつけない状態と機能的に等価なもの」をあえて設計したものだ、となります。<br />
　社会学や社会思想の世界では「前提もまた選択されたものだ」という性質を「再帰性」と呼びます。「手付かずの自然」も人為だというのが典型です。その意味で、自然は〈自然〉であるしかなく、生活世界も〈生活世界〉である他ありません。<br />
　その意味で、〈システム〉全域化を制約する欧州的処方箋は、単なるシステムの否定と生活世界の保全ではなく、〈システム〉全域化の弊害を〈システム〉によって抑止する再帰的工夫の一つです。その意味で米国的処方箋と本質的に違わず、方向だけが違います。<br />
　方向とは、設計されるべき〈システム〉の構造です。それは明言可能です。例えば「補完性の原則」がそうです。自分たちでできることは自分たちでやり、それが不可能な場合に行政を（できるだけ下の単位から）呼び出すというものです。<br />
　この場合、最も大きな行政単位は国家ではなく、国家連合すなわちＥＵとなります。そこでは「補完性の原則は、主権移譲の原則を含む」という言い方がされます。こうした発想は、欧州独自のものというより、むしろ戦前の亜細亜主義に嚆矢を見るべきです。<br />
　〈システム〉を欧州的にデザインするか米国的にデザインするかの方向性の違いがあるだけだと言い、補完性の原則の例を挙げました。これらの違いを一言でまとめてしまえば以下のようになります。<br />
　社会が秩序立っている場合、「社会成員が監視と処罰を恐れて秩序立つ社会」と「社会成員が内発的な社会性を持つがゆえに秩序立つ社会」を区別できます。前者をホッブズ的秩序、後者をロック的秩序と呼べます。<br />
　欧州的な〈システム〉設計は、前者を志向します。米国的な〈システム〉設計は、後者を志向します。どちらの秩序形式が良いのかを先験的に言えません。経験的に言えるだけです。経験的判断をする上で重要なのが宗教社会学的・家族社会学的な文脈です。<br />
　米国は欧州と違って、建国以来現在に至るまで宗教社会です。社会にとって宗教は大切かという質問にイエスと答える割合は欧州各国の倍近くに及びます。なので米国は、感情的安全の多くを宗教に依存する分、〈生活世界〉に依存しない傾向があります。<br />
　加えて、エマニュエル・トッドが言うような家族社会学的文脈も重要です。米英はアングロサクソン系で直系家族の伝統が強いので、非アングロサクソンで拡大家族の伝統が強い欧州の他国と比べて、社会的相互扶助を頼る度合が低いと言えます。<br />
　米国（や英国）と社会的文脈が異なる欧州では、「成員がまともでなくても回る社会」よりも「成員がまともであることによって回る社会」を選好しがちです。そうした観点からしばしば米国的なものを自覚的に否定します。<br />
　そうした違いは「テロとの戦い」において際立ちます。米国は、最低限のルールを守るという決意のエヴィデンス（証拠）を欲しがります。決意を示さない相手とは、交渉しないどころか、滅ぼしても良いのだという発想をしがちです。<br />
　欧州は対照的です。ＣＢＭ（confidence-building measures：信頼醸成措置）というのですが、最低限のルールを守るという決意を示す証文よりも、事実の積み重ねによる信頼醸成を重視します。日本で言う「一宿一飯の恩」に近い発想をするのです。<br />
　どちらが包摂的でどちらが排除的なのかは文脈に依存します。一般には移民政策などをめぐって、「最低限ルールさえクリアすれば誰でも何でもあり」の米英流（アングロサクソン流）が包摂的だと言われてきました。<br />
　でも、そう言えるのは、ルールが過剰に高いものを要求しない限りにおいてです。「テロとの戦い」を宣言して以降の米国は、敷居の高いルールのクリアを要求するので、逆に排除の機能を果たします。そこでは欧州流のＣＢＭのほうが包摂的に見えます。<br />
<br />
<b>　２　アメリカ的処方箋</b><br />
　すでに申しましたが、米国は〈システム〉全域化の副作用を、〈システム〉全域化の徹底によって処理しようとします。人間にまともさを要求するかわりに、人間がまともでなくても悪いことができなくなるようなアーキテクチャを要求します。<br />
　つまり、人間のまともさよりも、アーキテクチュラル・パワーを要求します。アーキテクチャとは建築物、アーキテクトは建築家ですが、ここではもう少し広い意味です。アーキテクチャは仕組、アーキテクトは仕組をデザインする人、といった意味です。<br />
　典型的には、マクドナルドなどの客の回転率の操縦に見られる発想です。照明の明るさ、ＢＧＭの大きさ、冷暖房の温度、いすの堅さ、家具や調度のアメニティー…。これらによって、客に自発性を妨害されたと感じさせないまま、回転率を操縦します。<br />
　言い換えれば、命令や価値観に依存する制御でなく、快不快だけに依存する制御を行ないます。人々は、快不快を追求する自己決定を行なっているのですが、どこで快不快を与えるかをアーキテクト側がデザインしているわけです。<br />
　まともな人間を作り出すべく規律訓練を施す社会環境を重視するのが、「フーコー的な主体形成の権力」です。まともな人間など一人もいなくても、快不快を感じる動物的な能力がありさえあればOKというのが、「ドゥルース的なアーキテクチュラルな権力」です。<br />
　先ほど、役割＆マニュアル優位のマネジメントが、多人種構成の米国社会ゆえの要請から出てきたと言いました。この同じ要請にとってアーキテクチュラルな権力は好都合です。なぜなら、価値観と違い、快不快は動物的つまり文脈自由な一般性を持つからです。<br />
　繰り返すと、米国社会が、不安ベースの実存と、不信ベースのコミュニケーションで「もつ」のは、宗教社会だからです。さもなければ、感情的安全を維持するホームベースが失われ、社会はアノミーに陷ってしまいます。<br />
　ちなみに、米国がとりわけ「小さな国家」でやっていこうとするのは、社会に対する市場のマイナスの影響を、宗教的な営みによって補完するのが当然だとする発想があるからです。その意味で、単純な市場原理主義じゃありません。<br />
　米国のリバタリアニズム（自由至上主義）が市場原理主義と勘違いされがちなのは問題です。リバタリアニズムとは「米国人には宗教的心性が宿っているので、政府による市場の補完はそうした心性に基づく営みを阻害する」と考える思想です。<br />
　リバタリアニズムとコミュニタリアニズムは近縁です。コミュニタリアニズムは「米国人の宗教的心性が空洞化してきたので、宗教的心性を回復しよう」と呼び掛けます。「心性がある」とするのか「心性が空洞化したので取り戻そう」とするのかの違いです。<br />
　実際、現在の米国でも、市場の負の外部性（後遺症）を手当するべく、教会やキリスト教系のボランティア団体が「炊き出し」をはじめとする社会貢献活動をしています。富裕層による寄付は日本の何倍もあります。だから「小さな国家」でやれるのです。<br />
　米国が不安ベース＆不信ベースの宗教社会なのは、たえず移民が流入する過剰流動的な社会であることと関係します。宗教が感情的安全を提供するがゆえこそ、最低限のルールさえ踏まえれば何でもありという非同化政策的な過剰流動性に耐えられるのです。<br />
　また、最低限のルールさえ踏まえれば何でもありという構えは、アソシエーショニズムと結びついています。生まれ落ちたコミュニティを尊重することよりも、目標を共有する人間がルールに合意して共に活動することが大切だと考える価値観です。<br />
　米国では、宗教的結社のみならず、家族や地域でさえも、アソシエーション（結社）のアナロジー（類推）で考えます。もちろん幼児は産まれ落ちる家族を選べませんが、それであっても、コミュニティと呼ぶよりは非自発的アソシエーションと呼びたがります。<br />
<br />
<b>（下のエントリーに続く）</b><br />
]]></content>
 <id>http://www.miyadai.com/:1:844</id>
</entry><entry>
 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[上のエントリーからの続きです。]]></title>
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 <author>
  <name>miyadai</name>
 </author>
 <modified>2010-02-23T23:35:32Z</modified>
 <issued>2010-02-24T08:35:32+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[<b>３　日本の選択：米国的処方箋への無自覚な追随</b><br />
　日本は、コンビニ＆ファミレス的なものを、思考停止的に許容してきました。背景には日米安保体制があります。2009年の総選挙で、自民党が大敗して政権交代が起こった理由とも密接に関係します。自民党が大敗した理由は、二つあります。<br />
　第一に、自民党が農村政党だったからです。農村政党というのは、農業政党ではなく、農村で集票する政党です。集票の動機づけは、農村過剰人口を都市部に移転して、重化学工業化を推進した後、果実を農村に公共事業を通じて再配分する図式によります。<br />
　土木を通じた再配分で投票に向けて動機づけられる。これは時限装置です。なぜか。土木を通じた再配分は、1970年までの福祉国家政策時代の欧州と同じで、人々を中央政府に依存させるからです。結果、農業は衰退し、農業従事者も激減、農村人口も減ります。<br />
　つまり、農村政党は、農村を依存的にさせることで空洞化させ、最終的には農村政党の支持母体を掘り崩すことになります。ですから、実際、92年から自民党の農村基礎票（絶対得票率）が下がっていくわけです。<br />
　農村空洞化を触媒したのが、日米構造協議の図式です。グローバル化とは資本移動自由化です。グローバル化の出発点は1971年のドル金交換停止（ブレトンウッズ体制終焉）と1972年の変動相場制移行です。これを最大限利用したのが80年代日本の製造業グローバル化です。<br />
　日本は、80年代に入ると、自動車や電気製品などの工場を中国などに移転して、非常に低コストで質の高い製品をたくさん出すようになりました。今日の中国や韓国の技術力はこの頃の日本企業から移植されたものです。<br />
　米国は、日本の製造業グローバル化に完敗した結果、80年代後半から日本の扱いを変えるのです。簡単に言えば「日米安保体制へのただ乗りを許さない。日本にも応分の軍事負担をさせる。日本の経済的国力を削ぐべく必要な措置をこうじる」ということです。<br />
　その結果、第二次竹下内閣の牛肉オレンジ交渉を境に、対米追従と国土保全が両立しなくなりました。「米国の言うことをきくと、国土が荒廃し、地域共同体が空洞化する」というふうになった。それが92年以降の自民党の一貫した低落をもたらした面もあります。<br />
　それでも日本側が米国の要求を飮むのは「いざとなれば米国に守って貰うしかない以上、仕方ない」という理屈によります。でも、コロンビア大学の教授ジャラルド・カーチスが言うように、これは「米国によるゴリ押し」ではないのです。<br />
　そうではなく、「いざとなれば米国に守って貰うしかない以上、要求を受け入れるしかない」という理屈で、米国の要求を「選択的に」受け入れることで、利権を拡張しようという国内勢力があっただけの話です。<br />
　重要なことは「自民党が農村政党だったので、時限装置的に自壊したこと」と、「日米安保体制がある以上、米国に追従するしかない（という口実が通用する）こと」と結びつく形で、80年代半ば以降の第二次郊外化＝コンビニ化＆ファミレス化があるのです。<br />
<br />
　<b>(1)難点１：「アソシエーショニズム」の不在</b><br />
　日本は米国と違ってアソシエーショニズムはありません。その意味で米国的な自己決定＝自己責任主義はあり得ません。振込め詐欺で被害にあうおばあさんに「警戒心がないから、あんたがいけないんだよ。自己責任だね」というふうに言いますか？<br />
　酷だと思うのが日本人の美徳です。そうではなく、「どうしておばあさんをだれかが守ってやれなかったんだ」ということを問題にするべきです。これは、アングロサクソンを除いた、拡大家族的な欧州の多くの地域でもそうです。<br />
　つまり「自己決定的な主体が、個人的目的に従い、ルールに合意して、社会を営む」という発想。あるいは「どんなルールでゲームが行われているかを弁えずに失敗するのは、その人の責任」という発想。こうした発想が支配的になることはあり得ません。<br />
　ただ僕たちは別の意味で自己決定的＝自己責任的になる必要があります。日米構造協議で、米国は、生産性の低い内需産業を温存することは、消費者から非イノベーティブな生産者に、財を移転することだという理屈を使いましたが、この理屈は実は正しい。<br />
　この理屈には二つの方向で対処できます。一つは、財の移転が、公的な社会貢献の一種、例えば税金みたいなものだ、と考える方向。もう一つは、だったら日本の内需産業の潜在的生産力を上昇させなければならない、と考える方向。<br />
　現実にはこの二方向をミックスさせるべきです。内需産業の生産性がＯＥＣＤ標準に比べて低すぎる現実は変えるべきです。同時に、内需産業に、外需産業と比肩可能な生産性を要求するのも御門違いです。<br />
　ところが日本の場合、地域の共同性を尊重することが、イノベーティビティを阻害する方向に働きやすい。「出る杭は打たれる」というやつです。共同体の絆を尊重することと、イノベーティビティが両立するような、「新しい絆」が必要です。<br />
　ここでもキーワードは「包摂」になります。新住民の参加を排除するような絆であってはならず、また旧住民の間で「物言えば唇寒し」があってはならない。つまり、外側に対しても内側に対しても包摂的な絆に、シフトしないと、潜在的生産力は停滞します。<br />
<br />
　<b>(2)難点２：「超越神の不在」</b><br />
　さらに、日本には、不安であるがゆえに超越神にすがる--言い換えれば超越神の存在ゆえに不安に耐えられる--というタイプの宗教文化はありません。キリスト教徒の割合は３％に遠く及びません。<br />
　そのくせ、血縁ネットワークでホームベースを作り出す血縁主義の文化もなく、階級ごとにハビトゥスが違う階級文化の伝統もない。あったのは、長い間いっしょにいると絆が出来上がるという事実性優位の文化だけでした。<br />
　「住めば都」や「去る者日々に疎し」という言葉に象徴されます。ところが、廃藩置県以降の近代化は、ムラビトを引っ張り出して国民化するものでした。他の先進各国と違い、中間集団が国家権力のツールになりました。それで急速な近代化がなされました。<br />
　その結果、感情的安全を脅かされると直ちに国家に縋るのが不自然でなくなりました。戦後復興からしばらくは、国家のかわりに会社に縋るようになりましたが、平成不況の深刻化で会社がダメになると、再び「何かというと国家に縋る」ようになりました。<br />
　ヘルムート・プレスナーは、ナチズムをもたらした後期ロマン派的な発想が何に由来するかを議論して、領主に媚びるだけの教会の世俗化が、宗教的形象への依存を妨げた結果、世俗的形象（民族や国家）が神聖視されて依存の対象になったのだとしました。<br />
　日本には、宗教改革以降のドイツと同じように、超越神に依存する作法はありません。他方、アングロサクソンのような直系家族的な自立と自己決定の伝統もない。その結果、国家という世俗物の神聖化が生じやすい。「ヘタレが依存する国家」という図式です。<br />
<br />
　<b>(3)難点３：「日本的近代化」問題</b><br />
　さらに、「日本的近代化」問題が加わります。民主党政権ができましたが、僕は楽天視しません。今回の政権交代の歴史的意味は、自覚の有無にかかわらず、「（官僚に）任せる政治から（市民が）引き受ける政治へ」の転換に尽きます。<br />
　しかし、その意味を自覚する人がどれだけいるでしょうか。選挙前には「民主党に任せられるか」という見出しが論壇誌上に躍っていましたし、選挙後も「お手並み拝見」といったような態度が広がっています。今の日本人は完全にアウトです。<br />
　社会は「いいとこどり」が出来ません。絆コストを支払わずに、絆の与える感情的安全を享受できません。同じく、参加コストを支払わずに、包摂に預かることはできません。このあたり、昨今の日本人には勘違いが拡がっています。<br />
　「いいとこどり」は検察批判に顕著です。警察も検察も司法も、日本では、物証主義でなく自白主義です。それを前提にして、調書絶対主義になっています。そして、調書絶対主義をべースにした司法裏取引がなされています。<br />
　裏取引とは、「あいつが天の声を発したと証言すれば、お前の罪は見逃してやる」という具合に、弱みを握って証言させるものです。昨今の特捜検察が、この方法で多くの冤罪と自殺者を生み出しています。<br />
　調書絶対主義とは、警察や検察が用意したテンプレートに母印を捺せば、裁判で「実は無実だったが、こういう取引を持ちかけられた」と証言をくつ返しても、単に無視されることを言います。だから取り調べ過程の透明化（録画）が叫ばれています。<br />
　でも、そこだけを変えられません。自白主義から物証主義へ。つまり囮捜査の広範な合法化、盗聴の広範な合法化、司法取引の合法化といった捜査手法の拡大が必須です。かつ、権限拡大に伴うチェック措置として、代用監獄廃止、弁護士立会制度が必要です。<br />
　もちろん米国がそうであるように、囮捜査の適切さや、盗聴の適切さを事後的に検証するための、完全な記録と、国民による記録の検証が必要です。行政に大きな権限を与えるかわりに、市民が参加して子細にチェックすることが必要なのです。<br />
　そうした全体がワンパッケージです。今までの「お任せメンタリティ」のまま、取り調べ過程の不透明さが冤罪の温床だとして批判するのは、バランスを欠いています。昔の左翼のように「権力を批判してさえいりゃいい」というのは通用しません。<br />
　欧州には補完性の原則があり、米国には共和制の原則があります。両方とも共同体的自己決定を推奨します。欧州の補完性の原則の背後には、統治権力はゲバルトで奪取されたものであるがゆえに、チェックしないと統治権力がゲバルトになるとの警戒があります。<br />
　欧州には加えて、都市国家の伝統や、中世自治都市の伝統があります。なんとかタールというのは、谷が自治都市を形成した名残りです。ローゼンタールとか。ネアンデルタールのタールです。「風の谷のナウシカ」の谷もそうしたものでしたね。<br />
　米国にはメイフラワー協約を出発点とする宗教的共和の伝統があります。新教で万人司祭主義（ルター）ですから教派が急速に分化するのが米国ですが、大きく言えばキリスト教という家族的類似ゆえに共和する（複数共同体を両立させる）ということです。<br />
　人口の７割がモルモン教徒のユタ州が象徴的ですが、州ごとに政教分離の扱いを任せるのが1960年代までは連邦最高裁でした。合衆国憲法修正第二条の武装権も、連邦政府が共同体的自己決定を蔑ろにする場合に武装蜂起する権利を規定したものです。<br />
　270余の藩が独立採算で自立していた江戸時代を見る限り、日本にも共同体的自己決定の伝統がありました。でも維新以降の近代化は、こうした伝統をむしろ破壊し、例えばムラを「小学校を中心とした疑似ムラ」に再編成し、中間集団を国家の手先にしました。<br />
　それが成功モデルになったため、維新以降の近代化のみならず、戦後の再近代化も、各地域を、自立した経営事業体として尊重するよりも、集権的再配分によって支えるという図式になりました。引き受ける政治よりも任せる政治が、自明であり続けました。<br />
　結果、地域に貢献する政治家とは、土木（公共事業）を通じて中央から金（補助金）を引っ張る人という固定観念になりました。かくして、農業人口は２％となり、農業従事者の年齢構成は五〇歳以上が９割いう体たらくになりました。<br />
　学校のみならず、町内会も自治会も、すべて中央政府への依存を前提にした中間集団として機能しました。コミュニティ主義の欧州や、アソシエーション主義の米国のように、国家を、あくまで中間集団を補完するものとして位置づける枠組がありません。<br />
　これからの国際社会は、先日のCOP15に象徴されるように、国連コンセンサス（前回一致）方式では回らなくなり、各地域の共同体的自己決定・の実績の集積をベースにした国民国家の影響力・をベースにした「この指とまれ方式」になります。<br />
　例えば環境問題では、国連コンセンサス方式においては消極的に見える米国が、日本を圧倒する実績を積んでいます。そうしたことを考えると、共同体的自己決定の伝統を完全に壞してしまった日本社会と日本人は、大きなハンディを負っています。<br />
<br />
<b>　(4)難点４：「戦後日米関係」問題</b><br />
　難点の４番目は、「戦後日米関係」問題です。先日、『voice』に連載された民主党鳩山論文問題が沸騰しました。この論文の「グローバル化批判」には問題があります。この論文の刺激的な部分が抜粋されて英訳されたのですが、元々の論文が間違っています。。<br />
　グローバル化は良きことをたくさんもたらしました。中国やインドなどの新興国の近代化もグローバル化なしにはあり得ません。グローバル化は確かに先進国や新興国の国内格差を増大させますが、国と国の間の格差を埋める方向にも働きます。<br />
　だから、豊かな国が、国内格差の増大を理由にグローバル化を悪と見做すのは、明白にエゴイズムです。豊かな先進各国がなすべきことは、グローバル化によって個人が直撃されないように、社会の相互扶助と包摂性を分厚くすることです。<br />
　ＥＵ統合のプロセスで、英仏が対立しました。フランスはグローバル化反対の立場をＥＵの主軸にしようとしました。イギリスは今僕が申し上げたロジックで対抗しました。結局イギリスのロジックが採用されました。ＥＵはグローバル化に棹さす立場です。<br />
　そうした理論的・歴史的な過程をすっとばして「日本やその他の国々の惨状がアメリカの市場原理主義者によって推進されたグローバル化によってもたらされたと」などと書くのは（英語版鳩山論文の冒頭）、今日の学問的水準では考えられません。<br />
　僕たちは、「米国に守って貰っている以上、要求をきく以外ない」という自罰的な自己理解を排除するだけでなく、「米国発のグローバル化が世界をダメにした」という他罰的な自己理解をも排除しなければなりません。<br />
　似た話ですが、僕たちは学問的に意味のない二項図式にとらわれがちです。例えば、「既得権を廃した市場主義か、既得権まみれの再配分主義か」という対立は無意味です。世界の流れは、「既得権を廃した再配分主義」にあります。<br />
　また、「自由貿易主義か、保護貿易主義か」という二項図式も単純過ぎます。国際標準は、「政府による価格支持ならざる所得支持のもとでの自由貿易主義」です。フランスは農家の現金収入の８割が国家からの給付です。イギリスでは７割、米国では６割です。<br />
　農業に土地利用した場合の生産性が、他の産業に利用した場合に比べて著しく低い以上、当然の措置です。所得支持（直接支払）のゲタを履かせた上で競争させ、敗北した者を退場させる。これは貿易だけみれば自由貿易ですが、政府の保護のもとにあります。<br />
　同じく、日本の産業界が国際競争力をつけないとグローバル化に取り残されるというのも、単純な発想です。どこの国でも経済は重要ですが、単にGDPのような経済指標が好転すれば良いわけじゃない。「経済回って社会回らず」になっては元も子もないからです。<br />
　要は、GDPが上がれば良いというより、それを上げる方法の選択が問われています。経済回って社会回らずではダメ。その意味では、どこの国も、外貨を稼ぐための外需部門と、社会を保全するための内需部門を、いったん分けて考える必要があります。<br />
　というのは、グローバル化＝資本移動自由化のもとでは、経済が外需部門に偏ることは、日本の労働者が中国やインドの労働者と競争することを意味しがちで、そうなれば労働分配率が下がって、社会が痩せ細ってしまうからです。<br />
　内需部門は政策的に保護されねばなりません。しかし内需部門の生産性が他国より余りに低い場合、先に述べたように消費者がワリを食う話になります。生産性だけでなく、需要の中身が社会的包摂の空洞化を意味するものにならないということも大切です。<br />
　経済が外需部門に偏るのが許されるのは、日本の労働者が中国やインドの労働者と、平均利潤率均等化のもとで競争させられることがないよう、比較優位な高付加価値産業で勝負し続ける場合だけです。<br />
　「現時点で比較優位な産業部門」に投資が集中するのを回避せねばなりません。中国やインドに早晩追いつかれる産業分野でなく、こうした国が当分追いついてこれないような新しい産業分野に、既得権益を廃して投資していかねばなりません。<br />
　日本は、内需部門においては低生産性に見舞われ、外需部門においては未来の比較優位産業への投資の薄さにがあります（環境部門）。対米追従の自明化によって、思考停止的な二項図式--規制緩和か規制か、内需か外需か--が蔓延することが背景にあります。<br />
　そんな単純な話じゃなく、どんな規制緩和なのか、どんな規制なのか、どんな内需なのか、どんな外需なのかが問われているのです。日米安保に依存して「経済さえ回ればいい」などと脳天気に構えられた時代は終っています。<br />
　経済は重要です。しかし、どんな経済かが問われています。社会を分厚くする内需なのか、未来を切り開く外需なのかが、問われているわけです。そうしたことを考えてこなかったからこそ、「金の切れ目が縁の切れ目」の社会になってしまっています。<br />
<br />
<b>　(5)難点５：「壊れた人間」問題</b><br />
　最後に「壊れた人間」問題を話します。冒頭に「感情が壊れた人間」「感情プログラムのインストールに失敗した存在」の話をしました。しがし、何が壊れているのかということが社会相対的だという話もしました。<br />
　何がまともな感情のプログラムなのか。まともな人間とはどういう人間なのか。これらを先験的には言えません。時代ごと、社会ごとの、経験的問題に過ぎません。そして、時代が変われば、社会もどんどん変わってしまい、まともさも変化します。<br />
　ということは、社会設計なるものは、そもそも逆説を孕むことになります。未来になれば子々孫々の感受性が変わってしまうかもしれないのに、僕たちは今の感受性で未来社会のまともさを構想せざるを得ないからです。<br />
　社会設計などと言わなくても、教育ひとつとってみれば分かります。僕たちは、良かれと思って子供たちを特定の仕方で教育しています。しかし、どのみち社会が変わる以上、それが本当に良いかどうかは誰にも分かりません。<br />
　社会設計も教育も、内容的な正当性が疑わしいパターナリズム（温情主義）、つまり「おせっかい」です。でも、先に申し上げたポストモダンの再帰性ゆえに、何も設計しないこと、何も教育しないこともまた、「おせっかい」な選択になります。<br />
　こうしたことを承知の上で、あえて言いましょう。僕たちから見て将来の社会成員の大半がまともでなくなれば、僕たちがいま特定の社会成員がまともではないとして議論していることの全てに、意味がなくなります。<br />
　まともな人間がまだ数多く残っているうちに、まともでない人間たちを何とかしようというプログラムを走らせなければならない。手遅れになれば、その人たちを「まともでない人間だ」と認識する人間たちもいなくなるからです。<br />
　とは言うものの、まともさの物差しの相対性を、僕たちは意識しつづけなければなりません。さもないと、根拠のない時代遅れの決めつけで、年少世代の尊厳を奪うことにもなりかねません。つまり、妥当であることが本質的に難しくなっているのです。<br />
　そうである以上、「全体性は不可視である」ことを承知の上で「全体性をたえず参照しようとする」逆性的な態度が推奨される他ありません。当事者の視座とガバナンス（全体をどう回すか）の視座をたえず往復する必要があるとも表現できます。<br />
　その意味で、社会を設計し、実現していくことは、みんなの意見を集約し、コンセンサス通りにしていくこととは違います。それだけでは「不可視の全体を回す」というガバナンスの視座が欠けています。<br />
　日本人はこの点でもハンディがあります。戦後日本人は「みんなで決めたことは正しい」という信念を刷り込まれました。そうではない。「みんなで決めたことは間違ってるに決まってる」にもかかわらず「仕方なくみんなの決定に従う」のです。<br />
　チャーチルが「民主主義は最悪の制度だ、ただし従来存在したどの制度よりもマシだが」と述べたのはそうした意味です。本来は、誰が優れているかが分かる優れた人たちが優れた人たちを選ぶという「寡頭政×制限選挙」が良いに決まっているのです。<br />
　でも、社会的複雑性が増大すると、誰が優れているのかが必ずしも自明ではなくなるので、仕方なく「民主制×普通選挙」をとらざるをなくなるだけです。だからこそ「みんなで決めたことは間違いに決まっている」という構えが大切なのです。<br />
　そして、だからこそ「みんなで決めたら終了」じゃなく、「みんなで決めた後も妥当性を絶えずチェックし続ける」が大切です。言い換えれば、みんなで決めたという出来事は、何かの解決なのではなく、将来解決されるべき問題の提起なのです。<br />
　先に紹介したパターナリズムの逆説（何が良いか分からないのに良かれと思って…）は、“我々は実存の問題と社会の問題を混同しやすい”という問題とも結びつきます。社会なるものが時代と共に変わる以上、実存の問題と社会の問題を截然とは区別できません。<br />
　ちなみに社会学と精神医学は元々仲が良くありません。というのは、悩みを解決してくれというクライアントの要求に応じることは、悩みをもたらす社会問題に目をつぶり、心理問題にすり替えることを意味しがちだ（と社会学者が考える）からです。<br />
　生活を送れないほどの「悩み」の重荷は当然緩和されて然るべきだとしても、「悩み」が解決され切ってしまうことが、「帰属の宛先替え」による「問題の覆い隠し」に終らないように、たえずチェックするべきだというのが、社会学の立場になります。<br />
　今日は「若い人たちのコミュニケーションの変化」を切り口にして、最後は「ガバナンスの問題」に抜けました。もし若い人たちのコミュニケーションの在り方を、みなさんが考える「まともさ」に近づけたいと思うなら、全体のガバナンスをいじるしかありません。<br />
　ガバナンスを考えるために、戦後の日本を、社会面・経済面・政治面をすべて含み込んで理解する枠組を提案しました。こうしたトータルな社会把握の競争が起こるようになれば、僕たちはもう少し見通しの良い将来ビジョンを手にできます。ありがとうございました。<br />
（みやだいしんじ首都大学東京教授）。<br />
]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[『システムの社会理論〜宮台真司初期思考集成』が勁草書房から上梓されました]]></title>
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 <author>
  <name>miyadai</name>
 </author>
 <modified>2010-02-21T13:42:01Z</modified>
 <issued>2010-02-21T22:42:01+09:00</issued>
 <content type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326602260/creazynet-22/" target="_blank"><b>システムの社会理論―宮台真司初期思考集成 (単行本)</b></a><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326602260/creazynet-22/" target="_blank"><img src="http://ec3.images-amazon.com/images/I/41%2BxCKZ-gNL._SL350_.jpg" alt="4326602260" border="0" /></a><br />
<br />
僕が２０歳代の前半から半ばにかけて書いた７本の学術論文をピックアップして、宮台大学院ゼミのメンバーたちとの討論を併せた書物です。<br />
<br />
２０歳代のときには（修論執筆後）年間３本の学術論文を執筆していました。この書籍にピックアップした論文のうち６本は２４〜２５歳のときに書かれています。<br />
<br />
２８〜２９歳にかけて執筆した『権力の予期理論』（1989年1月上梓）は、いわばこれらの論文の集大成で、東大大学院で戦後５人目の社会学博士号をとりました。<br />
<br />
本書は、従って、２５年以上ぶりで、初期論文を皆さんにお見せする本になります。極めて専門性の高い論文なので、読みこなせる人はごく僅かでしょう。<br />
<br />
なので、かみ砕くという意味を含めて、教え子たち４人と、論文が書かれた１９８０年代前半当時の学術状況を反省的に討論する章を、各論文の後に置きました。<br />
<br />
例によって、あとがきの一部を抜粋しましょう。<br />
<br />
<b>────────────────────────<br />
あとがき　　　　　　宮台真司<br />
────────────────────────</b><br />
<br />
<b>【20歳代前半の記録と、反省的な検討】</b><br />
■本書は、私が修士論文執筆直後から４年間に書いた論文を集め、個々の論文について大学院ゼミのメンバーたちと行なった質疑応答を併せて収録したものである。二十歳台前半（80年代前半）の思考記録であると同時に、私の学問的出発点についての現時点での自己反省が率直に語られてもいる。<br />
■こうした書物を上梓するとは思っていなかった。きっかけは堀内進之介氏を中心とする首都大学東京の大学院生諸氏が、五年以上前に私の初期論文について読書会を行なったことだった。彼らは、理論社会学が隆盛を誇った時代を知らぬ世代に向けて初期論文集を書籍化するべきだ、と提案してきた。<br />
■それから随分時間が経ったが、そうした作業に懐疑的だった私の怠慢が理由である。業を煮やした院ゼミ諸氏が、箱根の旅館に私を三日間カンヅメにし、質疑応答を含めた必要な作業を私に行わせたのが今年（2009年）春のこと。彼らの「謀略」なくして本書が日の目を見ることはあり得なかった。<br />
■堀内氏を始めとする院生諸氏には心から感謝しているが、それというのも、作業を通じて、このプロジェクトが持つ重大な意味が──院生諸氏が主張していたことが──私の腑に落ちたからである。言い換えれば、いまの私はこの書物が多くの読者にとって重要な意味を持つものだと、確信している。<br />
<br />
<b>【非常時の思考だった人文社会科学】</b><br />
■私の気づきはいろいろあった。中でも最大の気づきは、1960年代から80年代前半までの社会学ないし人文社会科学一般の営みが、日常的思考の延長上になかったことについてのもの。平時の思想と、非常時（例えば戦時）の思想を敢えて分けるなら、学徒らは非常時の思想に棹さそうとしていたのだ。<br />
■私が社会学について本格的に思考を始めるのは大学３年（80年）。20歳のときからである。私は中学時代から新左翼思想に親しんでいて、中高時代にマルクス主義関連の文献を読んでいたときもそうだったけれども、完全に「ドーパミン出まくり状態」で本を読み、友人と話し、思考を重ねていた。<br />
■「日常的思考」ならざる「非日常的思考」としての人文社会科学。いったいそうした営みがなぜ可能だったのだろうか。これは大きな歴史的疑問にもつながる。1960年代から70年代までの--ちょうどフーコーが活躍した時期の--人文社会科学は、国を問わず、極めて旺盛な生産性を有していたのだ。<br />
■私が大学院に在籍した80年代前半は、思想の「生産面」では活況が一段落したが、思想の「消費面」では──例えば雑誌『現代思想』の隆盛ぶりに見られたように──まだまだ賑やかだった。そんな時代に私は小室直樹氏の「小室ゼミナール」や橋爪大三郎氏の「言語研究会」で揉まれていたのだ。<br />
■思想生産の活況はロック音楽の活況と奇しくも並行している。ロックの歴史は1962年のビートルズ・デビューに始まり、1976年のイーグルス「ホテルカリフォルニア」の大ヒットで終わるとするのが定説だが、この間のロックは、政治運動やアングラとも密接に関連した「非日常の感性」だった。<br />
■十年前の東京公演の際にインタビューしたキングクリムゾンのロバート・フリップは言う。68年から69年にかけて年間百数十回あるライブの全てで奇蹟が生じた。恩寵の扉が開き、光が降り注いだ。ところが70年代に入って暫くすると扉は二度と開かなくなり、以降は訓練の毎日だけが続くと。<br />
■60年代から70年代にかけての「恩寵の扉」問題には、拙著『絶望・断念・福音・映画』で述べたように、二つの解答がある。第一は、戦後経済の豊かさゆえに先進各国で自由が花開き、自由の輝きが「恩寵の扉」をもたらしたのだ、とするもので、当時を知らない若い世代が採りがちな解釈である。<br />
■第二は、そうした自由の輝きを期待して大学に入学し、都会に出てきた若い世代が、「こんなはずじゃなかった感」とでもいうべき期待外れに出会ったがゆえに、輝きへの願望の矛を収め切れないまま「ここではないどこか」「ありそうもない全体性」に思いを託したからというもの。私の説である。<br />
<br />
<b>【「得体の知れないもの」を「畏怖する心」】</b><br />
■私は、今回のプロジェクトに関わって、第二の説と密接に関連するもう一つの解答があると思うようになった。一口でいえば、「得体の知れないものへの感受性」ないし「畏怖する心」ということになる。そう思うようになった契機は<b>…［以下省略］</b><br />
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<br />
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]]></content>
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 <title type="text/html" mode="escaped"><![CDATA[マル激トーク・オン・ディマンド更新しました。]]></title>
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 <modified>2010-02-14T13:55:27Z</modified>
 <issued>2010-02-14T22:55:27+09:00</issued>
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<b>■マル激トーク・オン・ディマンド 第461回（2010年02月13日）<br />
 トヨタプリウスのリコールはあれでよかったのか <br />
ゲスト：廣瀬久和氏（青山学院大学法学部教授）</b><br />
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＜プレビュー＞<br />
<a href="http://www.videonews.com/asx/marugeki_backnumber_pre/marugeki_461_pre.asx" target="_blank">http://www.videonews.com/asx/marugeki_backnumber_pre/marugeki_461_pre.asx</a><br />
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　昨年世界一の自動車メーカーの座に着いたばかりのトヨタ自動車が、今週火曜日、日本での最大販売数を誇る最新型プリウスのリコールを発表した。スリップを防ぐためにブレーキに付けられたABS（アンチロック・ブレーキ・システム）の設定に対してユーザーから「効きにくい」「スーッと滑る」などのクレ－ムが相次いだことを受けた措置だという。<br />
　今回のリコールは製品の不具合というよりも、ブレーキを制御するソフトの設定が、一部ユーザーの期待と合致しなかった結果と言った方がより正確との指摘もあるが、トヨタの幹部による「ユーザーのフィーリングの問題」などの発言がトヨタの責任逃れと受け止められたことで、トヨタに対する風当たりが俄然厳しくなり、本来であれば安全上問題がある場合にのみ行う「リコール」という厳しい手段に訴えざるを得なくなってしまったようだ。<br />
　しかし、トヨタのリコール発表に際して、失敗学の権威である工学院大学の畑村洋太郎教授（東京大学名誉教授）と弁護士の郷原信郎氏（ともに国土交通省のリコール検討会メンバー）は緊急の記者会見を開き、そもそも今回の問題は自動車の安全基準に抵触するものではなく、ユーザーよってそれを問題と感じたり感じなかったりするという個々人の感覚に依存する面が大きいため、対象車を全て回収して修理する法的な「リコール」には馴染まないとの見解を発表した。両氏は、リコールが要件としている安全性に関わる不具合や欠陥が無くても、一定数のユーザーからクレームがつけばリコールをするのが当然であるかのような前例が作られると、自動車メーカーに多大な負担がかかり、結果的に自動車メーカーの競争力が損なわれたり、回り回ってその負担がユーザーにかぶせられることへの懸念を表明した。<br />
　しかし、トヨタからリコールの届け出を受理した前原誠司国土交通大臣は、トヨタの豊田章男社長に対して、もっと早くリコールされるべきだったと苦言を呈した上で、国民もリコールに対して悪いイメージを持たずに、企業が製造者責任を積極的に果たそうとしていることの現れであると理解して欲しいと発言している。<br />
　ところが前原発言とは裏腹に、リコール発表を受けた大手メディアの報道は軒並み、品質のトヨタがその最新技術の象徴とも呼ぶべきプリウスの不具合を認めたと一斉に報じるなど、トヨタ、とりわけリコールを行ったという事実に対して手厳しかった。依然として日本ではリコール＝欠陥のイメージが、根強く残っていることはまちがいないようだ。 　そのような状況の下での今回のトヨタのリコールは果たして正しい判断だったのだろうか。<br />
　消費者法の専門家で、国内外のリコール制度に詳しい青山学院大学の廣瀬久和教授（東京大学名誉教授）は、今回のプリウス問題だけを個別で見れば、果たしてリコールまでする必要があったかどうかの議論は成り立つかもしれないが、この問題はむしろ昨年秋から米国で広がったトヨタ車の品質をめぐる相次ぐトラブルの延長線上にあると見るべきだと指摘する。暴走事故の原因となったフロアマットにアクセルが引っかかる問題やアクセルペダル部品の不具合など、トヨタでは自動車の安全性の根幹に関わる重大な問題が相次ぎ、そのたびにトヨタの対応はことごとく後手に回った。少なくとも消費者の目にはそう映った。その結果、特にアメリカではトヨタが何かを隠しているのではないかといった不信感が広がってしまったと廣瀬氏は残念がる。そのような矢先に日本でもプリウスのブレーキ問題が浮上し、そこでもトヨタ幹部による「フィーリング」発言など、責任逃れとも受け取れる対応が大きく報じられたため、トヨタに対する不信の念が決定的なものになってしまったのだと言うのだ。<br />
　今回のトヨタの問題は、個々の技術的な問題というよりも、トヨタという企業の体質が問われている面が多分にあると廣瀬氏は見る。特に透明性や公正さを重んじる米国では、責任逃れや隠蔽はことさらに重大な問題となり、懲罰的賠償責任の対象となる。そのため自動車メーカーは、積極的にリコールを行い、責任を果たす姿勢を見せることが自身にとってもメリットとなる。<br />
　しかし、日本ではリコール＝欠陥品と捉える風潮が依然として根強い。つまり日本ではリコールなど責任を全うするための行動を取ると、それがあたかも欠陥や非を認めたかのように受け取られてしまうために、企業は迅速にリコールなどの対応が取りにくくなっている。<br />
　日本でも三菱ふそうタイヤ脱落事故などを機に2000年以降リコールの件数が急増している。リコールはもはや自動車メーカーにとって追い込まれた末の最後の手段ではなく、ユーザーとの協力のもとでより安全な製品を作っていくために積極的に活用する手段となっている。これが世界的な趨勢であり、日本もその流れに沿っている。<br />
　しかし、プリウスのリコールの報じられ方や、一連のトヨタに対する世論の風当たりの強さは、日本にとってのリコール制度が世界的趨勢に反するばかりか、まだ「責任」と「対応」を分離して考えられていないことを如実に物語っている。<br />
　トヨタによるリコールから見えてきた、日本における企業と市民の関係や企業の責任とあり方のあるべき姿を、社会と法制度の観点から廣瀬氏とともに議論した。<br />
今週のニュース・コメンタリー •小沢一郎氏が変わった理由？！ •検察と宮内庁は改革の対象外 •佐久間特捜部長と自殺者を生む人質司法 •数字はPIGS並でも日本は大丈夫？<br />
<br />
<b>関連番組<br />
<br />
■マル激トーク・オン・ディマンド 第421回（2009年05月02日） <br />
自動車文明の終焉  ゲスト：下川浩一氏（東海学園大学経営学部教授）<br />
<br />
■マル激トーク・オン・ディマンド 第373回（2008年05月24日） <br />
自動車産業が日本から消える日 ゲスト：土屋勉男氏（明治大学政治経済学部客員教授）<br />
<br />
■インタビューズ（更新までしばらくお待ちください。） 鎌田実氏インタビュー<br />
<br />
■プレスクラブ（2010年02月09日） 郷原信郎氏、畑村洋太郎氏、永井正夫氏　記者会見<br />
<br />
■ニュース・コメンタリー （2009年11月28日） トヨタ車リコール問題の死角</b><br />
<br />
＜ゲスト　プロフィール＞ 廣瀬 久和（ひろせ ひさかず）青山学院大学法学部教授 1947年東京都生まれ。73年東京大学法学部卒業。88年フランスのエックス・マルセイユ大学法学部大学院DEA修了。上智大学法学部助教授、東京大学大学院法学政治学研究科教授などを経て、09年より現職。 <br />
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 <modified>2010-02-12T22:25:50Z</modified>
 <issued>2010-02-13T07:25:50+09:00</issued>
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<a href="http://www.videonews.com" target="_blank">http://www.videonews.com</a><br />
<br />
<b>■マル激トーク・オン・ディマンド 第460回（2010年02月06日）<br />
日本経済の復活のための処方箋<br />
ゲスト：池尾和人氏（慶應義塾大学経済学部教授）</b><br />
<br />
＜プレビュー＞<br />
<a href="http://www.videonews.com/asx/marugeki_backnumber_pre/marugeki_460_pre.asx" target="_blank">http://www.videonews.com/asx/marugeki_backnumber_pre/marugeki_460_pre.asx</a><br />
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　リーマンショックに端を発する世界同時不況から約1年5ヶ月。日本経済はGDP実質成長率が3四半期連続でプラスとなるなど回復基調の兆しが見られるものの、景気回復の実感は薄く、雇用情勢も失業率5.1％、有効求人倍率0.46倍と依然として厳しい状況が続いている。さらには円高や消費低迷でデフレの進行が止まらず、二番底を懸念する声も根強い。折しも５日、米国株式市場の急落を受けて日経平均株価が１万円を割りそうになるなど、景気動向については予断を許さない状況だ。日本経済はいつになったらこの不況を打破でできるのか。<br />
　経済学者で金融論が専門の池尾和人慶應義塾大学教授は、不況には一時的な景気悪化でその経済が本来持っている実力よりも下ぶれしている場合と、そうではなく実力そのものが低下している場合があり、現在の日本の経済不況は明らかに後者だと言い切る。<br />
　2002年以降の日本経済は米国の過剰消費に輸出産業が引っ張られ、実力以上に好調な景気を維持してきたが、リーマンショックを契機に一気に失速した。その後、緩やかに回復してきてはいるが、現在の停滞状況は日本経済の本来の実力を反映しているに過ぎないというのが池尾氏の見立てだ。今後の見通しについても、「質素で退屈で憂鬱な」低成長時代が続くと池尾氏は言う。<br />
　かつてジャパン・アズ・ナンバーワンとまで言われた日本経済は、なぜそこまで力を失ってしまったのか。池尾氏はその問いに対して、一言で言えば日本の経済の仕組みが硬直化し、内外の環境の変化に対応できていないからだと見る。　<br />
　90年前後に起こった冷戦の終結は、ロシアや東欧の自由主義経済への参入や中国の開放政策の成功、インドやその他の新興国の台頭をもたらし、市場経済の規模が一気に拡大した。その結果、グローバル資本主義が成立し、そこに参加する人数もそれまでの10億人から40億人へと一挙に膨れ上がった。当然、グローバル市場における日本経済のウェイトは相対的に低下することになる。<br />
　また、世界の工場として躍進を遂げた中国をはじめ、韓国や台湾などの近隣諸国が産業化に成功し、外でつくった製品を輸入した方が安いという経済合理性から、日本の国内向け製造業も大打撃を受ける。<br />
　こうしたドラスティックな環境変化に日本は対応できず、産業構造の転換を図ることをしてこなかったと池尾氏は説明する。加えて、追いつき追い越せというキャッチアップ型の成長時代が終わったにもかかわらず、先進国型の経済成長に不可欠な、独自の技術開発やイノベーションを生み出すための教育や社会の仕組みづくりにも手を付けてこなかった。<br />
　内外の激的な変化に対して何ら手を打たずにいれば、日本経済が弱体化するのも当然だ。そればかりか、日本経済の実力自体が落ちていることを直視せず、不況の原因を一時的な景気悪化と見て、財政出動というカンフル剤の投入を繰り返してきたのがこの20年間だったと池尾氏は言う。すでに長期債務残高は国と地方を併せて816兆円、対GDP比で160％以上にまで膨れ上がり、これ以上の財政出動の余力はない。しかも、そのツケは将来世代に回されるという世代間不公平が生じている。<br />
　今や重篤な病にかかってしまったかのような日本経済だが、果たして打開策はあるのか。池尾氏は、日本経済が抱える最大の問題点は需要構造と供給構造のミスマッチにあると指摘する。しかし需給ギャップというと、その原因は需要側にあると短絡的に考え、慢性的な需要不足に対して慢性的な財政出動を行ってきたのが、これまでの経済政策だった。現在の需給ギャップはむしろ供給サイドに問題があるというのが池尾氏の見方だ。つまり、売れるモノやサービスを提供できるように、人やリソースを配分するという供給構造の大転換が必要だという。そして、その際に生じる痛みを手当することに経済政策の主眼を置くべきだと池尾氏は主張する。<br />
　医療、健康、介護、教育、環境といった分野における生産性を向上させることが日本の経済成長にとっての最優先課題になると説く池尾氏とともに、日本経済の現状と復活のための処方箋を議論した。（本日のマル激本編は経済ジャーナリストの町田徹と宮台真司の司会で、ニュースコメンタリーは神保哲生と宮台真司の司会でお送りします。） <br />
<br />
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<b>＜今週のニュース・コメンタリー＞<br />
<br />
・検察の民主統制は法務大臣の責務<br />
・郷原信郎氏インタビュー　小沢氏不起訴に見る深刻な検察の能力低下<br />
・奥平康弘氏インタビュー　まず政治に金がかかるという神話を疑え<br />
・最初から無理筋だった「悪質性」の立証<br />
・世論形成にネットが果たした役割は<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連番組＞<br />
<br />
■マル激トーク・オン・ディマンド 第357回（2008年02月02日）<br />
サブプライム問題が露にしたグローバル経済の実相<br />
ゲスト：水野和夫氏（三菱ＵＦＪ証券参与・チーフエコノミスト）<br />
<a href="http://www.videonews.com/on-demand/0351351360/000760.php" target="_blank">http://www.videonews.com/on-demand/0351351360/000760.php</a><br />
<br />
■マル激トーク・オン・ディマンド 第354回（2008年01月12日）<br />
2008年日本経済の課題<br />
ゲスト：熊野英生氏（第一生命経済研究所主席エコノミスト）<br />
<a href="http://www.videonews.com/on-demand/0351351360/000757.php" target="_blank">http://www.videonews.com/on-demand/0351351360/000757.php</a><br />
<br />
■マル激トーク・オン・ディマンド 第403回（2008年12月20日）<br />
見えたり、金融資本主義の正体<br />
ゲスト：小幡績氏（慶應義塾大学大学院准教授）<br />
<a href="http://www.videonews.com/on-demand/0401410/000806.php" target="_blank">http://www.videonews.com/on-demand/0401410/000806.php</a><br />
</b><br />
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○◎○◎○◎○◎○◎○◎○◎○◎○◎○◎○◎○◎<br />
番組開始から10年を迎えるマル激が、メールマガジン<br />
でもお楽しみいただけるようになりました。<br />
【マル激！メールマガジン】毎週水曜配信中<br />
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◎○◎○◎○◎○◎○◎○◎○◎○◎○◎○◎○◎○<br />
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 <modified>2010-02-12T22:22:35Z</modified>
 <issued>2010-02-13T07:22:35+09:00</issued>
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<a href="http://www.videonews.com" target="_blank">http://www.videonews.com</a><br />
<br />
<b>■マル激トーク・オン・ディマンド 第459回（2010年01月30日） <br />
なぜ普天間問題がこじれるのか<br />
ゲスト：鈴木宗男氏（衆議院外務委員長）<br />
</b><br />
＜プレビュー＞<br />
<a href="http://www.videonews.com/asx/marugeki_backnumber_pre/marugeki_459_pre.asx" target="_blank">http://www.videonews.com/asx/marugeki_backnumber_pre/marugeki_459_pre.asx</a><br />
<br />
　名護市長選で辺野古への移設受け入れに反対する新人の稲嶺進氏が当選したことで、普天間基地移設問題は更に混迷の度合いを深めている。鳩山首相は５月までに結論を出すとしているが、今のところいろいろな地名が乱れ飛ぶばかりで、具体的な展望は一向に開けてこないかにみえる。<br />
　橋本内閣で沖縄開発庁長官を務め、長年沖縄と深い関わりを持ってきた鈴木宗男衆議院外務委員長は、普天間問題がこじれる理由として、小泉内閣以降の歴代政権が、沖縄の人々の基地に対する複雑な思いが理解できていないことを真っ先にあげる。沖縄の歴史や事情も知らないでたまたまポストについた政治家が、ハコモノ的なバラマキで沖縄の人々の心を切り裂いてきたと鈴木氏。普天間をめぐる鳩山政権の迷走ぶりの元凶も「沖縄の人々の心が理解できていない」ことにあると鈴木氏は言い切る。<br />
　沖縄では基地に対する複雑な思いがある。温暖な気候と豊かな自然を持つ沖縄は本来は基地など無くても十分にやっていける。その意味ではもちろん基地なんて無いに越したことはない。しかし、沖縄にとってもし基地の受け入れがどうしても避けられないことなのであれば、その負担や影響を最小限に抑えるとともに、少しでも沖縄の地域振興に役立つ見返りを得ようと考える。あたかも沖縄は、利権が欲しくてあれこれごねているかのように見られる素地が、ここに出てくる。<br />
　沖縄では、基地に出て行ってもらえる現実的な可能性が見えてくれば、基地反対が優勢になる。しかし、どうせ受け入れなければならないとなった瞬間に、強制的に土地を接収されるくらいなら基地地主になって地代を徴収した方がましだし、どの道基地の負担を受け入れなければならないのなら、少しでも多くの経済振興策を求めようという話になる。これは当然だ。沖縄の中に２つの異なる利害が共存するというよりも、沖縄の人一人ひとりの中にそれが共存すると言ってもいいかもしれない。鳩山政権で沖縄問題を扱っている政治家たちには、それが十分に理解できていないのではないかと、鈴木氏は言うのだ。<br />
　もともと日米間で2006年に合意された現行の辺野古崎移設案にしても、当初は環境への負荷を最小化する目的で海上浮揚型のメガフロート案や杭式桟橋案などが模索されてきた。しかし、それでは高い技術を持つ大手ゼネコンばかりが潤い、地元の土木建設業界に恩恵が落ちてこないとの理由から、最終的にはより環境負荷の高い現行の埋め立て式V字滑走路案になったという経緯がある。V字で2本の滑走路にした方が、埋め立て面積が大きくなるからだ。ことほど左様に沖縄の基地問題は、複雑でデリケートな側面を持っている。単に辺野古の代わりの場所を見つければいいという話ではないのだ。<br />
　その意味で鈴木氏は、名護市長選挙の結果を「斟酌しない」とした平野官房長官の発言には怒りを隠さない。鳩山政権がまずすべきことは「沖縄の声を聞くこと」（鈴木氏）なのに、それとは正反対の方向を向いた発言だと言うのだ。また鳩山内閣の他の閣僚も、普天間移設の経緯や事情も踏まえずに、移設先に関して好き勝手な発言を繰り返していると、同じ与党の議員でありながら、鳩山政権の対応には容赦の無い苦言を呈す。<br />
　しかし、その鈴木氏でも、普天間問題への具体的な解決策を問われると言葉に詰まる。まず沖縄の声を聞いた上で、最後は沖縄に「貢献をお願いする」以外に解決方法はないだろうというのだ。<br />
　普天間移設問題をめぐる歴史的な経緯をふり返り、その解決に向けて今政治が何をしなければならないのかを、鈴木氏とともに議論した。<br />
　また、同じく鈴木氏とは、検察の小沢氏の政治資金規正法違反捜査に関連して、鈴木氏が政府に提出した検察の捜査に関する数々の質問趣意書の内容とその回答についても議論した。（今週は５金にあたりますが、１月は第一週目の放送をお休みさせていただいたため、通常の編成で放送します。） <br />
<br />
<br />
<br />
<b>＜今週のニュース・コメンタリー＞<br />
<br />
・あいまいな「指揮権」の法的根拠<br />
・検察審査会の強制起訴が持つ意味<br />
・トヨタ大規模リコールの衝撃<br />
・期待はずれ？のiPadと電子書籍市場への影響<br />
・ハイチ災害援助<br />
　先進国に遅れをとる日本のNGO支</b>援<br />
<br />
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<br />
＜関連番組＞<br />
<b><br />
■マル激トーク・オン・ディマンド 第246回（2005年12月07日）<br />
アメリカ依存から卒業するためにも憲法改正は必要<br />
ゲスト：石破茂元防衛庁長官<br />
<a href="http://www.videonews.com/on-demand/0241241250/000647.php" target="_blank">http://www.videonews.com/on-demand/0241241250/000647.php</a><br />
<br />
■マル激トーク・オン・ディマンド 第242回（2005年11月09日）<br />
鈴木宗男は何と戦っているのか<br />
ゲスト：鈴木宗男衆議院議員<br />
<a href="http://www.videonews.com/on-demand/0241241250/000643.php" target="_blank">http://www.videonews.com/on-demand/0241241250/000643.php</a><br />
<br />
■マル激トーク・オン・ディマンド 第134回（2003年10月10日）<br />
鈴木宗男的政治手法が投げかける小泉改革への疑問<br />
ゲスト：鈴木宗男 前衆議院議員<br />
<a href="http://www.videonews.com/on-demand/0131131140/000533.php" target="_blank">http://www.videonews.com/on-demand/0131131140/000533.php</a><br />
<br />
■永田町コンフィデンシャル 第10回（2007年08月07日）<br />
沖縄の声は、未だ届かない<br />
ゲスト：下地幹郎氏（衆議院議員）<br />
<a href="http://www.videonews.com/nagata/001010/000303.php" target="_blank">http://www.videonews.com/nagata/001010/000303.php</a><br />
<br />
■ニュース・コメンタリー （2009年12月12日）<br />
アメリカは本当に怒っているのか<br />
普天間移転問題で抜け落ちている論点 <br />
<a href="http://www.videonews.com/news-commentary/0001_3/001334.php" target="_blank">http://www.videonews.com/news-commentary/0001_3/001334.php</a><br />
</b><br />
<br />
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番組開始から10年を迎えるマル激が、メールマガジン<br />
でもお楽しみいただけるようになりました。<br />
【マル激！メールマガジン】毎週水曜配信中<br />
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