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感情的な噴き上がりだけで
現実を変える手法を持とうとし
なかった
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団塊世代の自己探求や自己否
定の営みがあれほど広がったの
はなぜか。社会学ではアノミー
と言いますが、従来の前提が空
洞化したからです。高度経済成
長下で都市化と郊外化が進み、
伝統的家族形態が変わり、テレ
ビがお茶の間に深く入り込む。
あらゆるものが変わり、従来当
てにできた前提が当てにできな
くなる。人口学的流動性の高い
都会に出てきて、大衆に埋もれ、
自分の位置がわからず、困惑す
る。アノミー(前提空洞化)に
陥ると、人は何かに一体化した
くなる。一体化の対象が幻想で
も人為的でもいい。アノミーか
ら来る一体化願望を現したのが、
弱者や労働者への連帯といった
「共同体幻想」だったわけです。
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宮台真司×仲正昌樹トークセッション
「共同体」と「自己決定」
日時: 5月9日(日) 18時30分より
場所: 三省堂書店 第二アネックスビル4F(神田本店ウラ)
参加要件: 先着100名(要予約) 参加費500円
予約・問い合わせ: 三省堂書店神田本店4F 電話 03-3233-3312/
(Web)
内容 : 気鋭の両氏が、「共同体」と「自己決定」をキーワードに、リベラリズムの限界とその乗り越えの可能性について徹底討論します。
討論内容は、双風舎により書籍化が確定!
情報THXです。
■連載の第十二回です。前回は「制度とは何か」をお話ししました。私たちの行為は「二
重の偶発性」に晒されています。二重の偶発性とは「『私の偶発的な振舞いに対する他者
の予期次第で、その他者の行為が偶発的に左右される』と私が予期する状態」のことです。
■言い換えると「『私がどのように反応する人間なのかについて他者が抱くイメージ次第
で、他者の振舞いが変わるだろう』と私が思う状態」です。私たちはこの二重の偶発性の
下で、予期外れが起こらないように偶発性が消去されることを必ずしも必要としましせん。
■現に私たちは「あらゆる人々があらゆる規範に合意している」との前提では行為しない。
そうした合意はあり得ません。それでも先に進めるのは、私たちが「私の偶発的な振舞い
に対する他者の予期」(「他者の予期」と略)を操縦することに注意を向けているからです。
■抽象的に言えば、私たちの注意が「他者の行為」それ自体というよりむしろ「他者の予
期」に焦点づけられているがゆえに、行為水準の予期外れに一喜一憂するよりむしろ「他
者の予期」をコミュニケーションの履歴を通じて操縦することに、私たちは努力します。
■「他者の予期」の操縦というのは、私(たち)がどのように反応する者(たち)なのか
を相手に思い知らせることです。しかし知らない者たちと出会う機会の多い複雑な社会で
は、出会う度に、操縦に向けてコミュニケーションの履歴を積み重ねるのは、不可能です。
■そこで「他者の予期」の操縦を免除する機能を果たすのが「制度」です。制度とは「『任
意の第三者の予期』について私が予期を抱く状態」です。つまり「『誰もがそう思う』と
私が思っている状態」です。制度があれば手間暇かけて思い知らせる負担は免除されます。
■単に私が「お巡りさんに訴えれば助けてくれる」と思うだけでなく、「誰もがそう思う」
と私が思っている場合、私にとって制度はある。制度があれば、仮に助けてくれなかった
ら「?すぐに社会的反応を動員でき、?警官もそれを弁えるだろう」と、当てにできます。
■それゆえに制度には二重の偶発性について、「『他者の予期』の操縦に必要なコミュニ
ケーションの積み重ねを負担免除」し、かつ予期外れに際する社会的反応への予期を通じ
て「『他者の行為』の予期外れがありうることとした上で免疫形成」する機能があります。
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【禁じられたミメーシス】
■音楽にとって歌詞とは何か。永遠に論争的な話題だろう。桜井和寿がそうだったように
誰でも中学時代(思春期前期)あたりから音楽に興味を抱くようになる。歌詞に惹かれる
というよりも、声をも含めて、旋律や韻律の引き起こすミメーシス(感染)によるだろう。
■私は中学時代(70年代前半)からピンクフロイドやキングクリムゾンなどのプログレッ
シプ・ロックに耽溺した。当時のプログレはインストルメンタル部分が異様に長かったが、
私はそれが大好きで、そこにボーカルが入ってくるとスッと醒めてしまうことが多かった。
■とりわけ私が苦手だったのが愛だの恋だのと歌うタイプのもの。辛うじて耐えられたの
が風や光や匂いを歌うもの。今でも音楽好きの高校生や大学生と話すと、同じような嗜好
をもつ人が意外に多いことが分かる。社会システム理論的には、理由はハッキリしている。
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■連載の第十一回です。前回「二重の偶発性とは何か」をお話ししました。二重の偶発性
double contingencyについて、パーソンズ(彼の場合は「二重の条件依存性」と訳します)
とルーマンとでは、一部共通、一部異なる問題設定の下で、語られたことを紹介しました。
■共通の問題設定とは、社会秩序は如何にして可能か──自分も他人もどうとでも振舞い
うるのにもかかわらず社会秩序が存在するのは如何にしてか──というホッブズ以来の問
いに答えるための戦略的拠点として、double contingency問題を持ち出すところです。
■連載第八回の「合意モデル」を採用するパーソンズは、double contingencyを「第三者
から見て、花子さんの振舞いが太朗君次第、かつ太朗君の振舞いが花子さん次第」という
事態と捉え、連立方程式で言えば「解が発散しないこと」を、秩序の成立と等置しました。
■その上で、解が発散しないのは、価値合意による期待の相補性──医者が相手を看護婦
だと思い、かつ看護婦が相手を医者だと思う──のお陰で、看護婦が医者の予期に適合し
て振舞い、かつ医者が看護婦の予期に適合して振舞うことができるからだ、としました。
■「信頼モデル」のルーマンは、パーソンズの解決は価値合意による偶発性の消去だと批
判します。現実には医者のセクハラのような予期破りがいつあるかも分からない偶発性に
もかかわらず看護婦は職務を全うするわけで、それが可能な理由を問うべきだと言います。
■この観点から彼はdouble contingencyを、第三者視点でなく「私から見て偶発的な他者
の振舞いが私自身の偶発的な振舞いに不確定的に“依存”すると私が理解した状態」とし
ます。但しこの“依存”は私が現になした振舞いへの依存というより、予期への依存です。
■なぜならば、私が現になした振舞いは、私の反応に対する他者の予期を構成することで、
他者の行為を左右するからです。ゆえに「二重の偶発性」とは、要は「私の反応に対する
他者の予期が、他者の行為を左右すると、私が予期する状態」を意味することになります。
■ルーマンの「偶発性が消去されぬまま前に進む」のイメージは明らかです。私が命令し
たときの他者の反応が、従うか否か次第で私がどう偶発的に反応するかについての他者の
予期に偶発的に左右されることを、私が弁えているという意味で、「二重に偶発的」です。
■この「二重の偶発性」は消えることがない。消えはしませんが、私は一定の構えで前に
進めます。すなわち、従う蓋然性を高めるべく、私は「他者の予期」を予期しつつ、その
「他者の予期」を操縦しようとして、コミュニケーションの履歴を積み重ねていくのです。
■先の例で言えば、看護婦が医者がセクハラしないと確信するという「偶発性の消去」は
あり得ない。しかしセクハラするか否かは、看護婦がどう反応するかについての「医者の
予期」に左右されると看護婦は理解し、看護婦は医者に対する行動戦略を立てうるのです。
■あえて単純化するとルーマンは、私が他者がどう振舞うかにビクビクしないのは、価値
合意によって他者の振舞いが決まっているからでなく、他者の振舞い次第で私がどう振舞
うかについての「他者の予期」の操縦可能性に、私の注意が向いているからだと言います。
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