いよいよ1月28日思想塾公開イベントが迫ってきました。重要参考資料をアップします!
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「ここではないどこか」の隠喩である芽吹きと開花。映画『鉄コン筋クリート』の林檎は芽吹かず、映画『さくらん」の桜は開花する。それが傑作駄作を分ける理由を考察する。
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【「共生主義」から「ルール主義」へ】
■本年1月17日、藤原和博氏が民間校長を務めることで有名な東京都杉並区立和田中学校の[よのなか]科を見学した。月2回ペースの公開授業で、藤原校長がじきじき授業する。[よのなか]科の端緒は98年の藤原氏と宮台の共著『人生の教科書[よのなか]』に遡る。
■その縁で[よのなか]科初年度(05年度)には私も「自殺問題から生きることと死ぬことを考える」の客員講師を務めた。今回のテーマは「ホームレスは社会のゴミか」。QAシートに記入させ、少人数の班に分かれて討論した後、ゲストの話を聞き、校長が締める。
■Q(質問)は「ホームレスは社会から排除されるべきだ、という意見に賛成か反対か」。ワークシート上のA(回答)は排除派が多数。とはいえ、抹殺せよといった過激な意見は少ない。「公共の場を占有するのはルール違反だから排除せよ」という程度のものだった。
■「公共施設に収容し、社会復帰に役立つ訓練を施すのがいい」という意見が目立つ。同じ意見でも、生徒によって排除派か包摂派かという自己規定が異なることが象徴的だ。生徒によって「公共空間からの排除」と「社会復帰の訓練」のどちらに力点を置くかが違う。
■そこに、ホームレスを率いる「新宿ゴミゼロ部隊」隊長の津田政明氏が、本物のホームレスと伴って登場。漁師出身のホームレスから身の上話を聞いた中学生たちは、普通ぶりに驚いている。私は見学だけのつもりだったが、授業の最後に纏めのスピーチを振られた。
■自分は社会学者で、今日の主題は社会学で公共哲学と呼ばれる最前線の話題だと述べて、以下のように続けた。[ルール主義/共生主義]の対立が昨今先鋭化している。多数だった(公共空間からの)排除派はルール主義を、少数だった包摂派は共生主義を、象徴する。
■ただ昔はルール主義にも異なる意味合いがあった。最低限のルールさえ踏まえれば何でもあり。むしろ多様なものの共生に資するので「非同化主義」と呼ばれた。共生主義の方が、歴史実績による信頼醸成を重視、イチゲンさんに厳しいので「同化主義」と呼ばれた。
■だが昨今はルールの敷居が上がった。最低限どころか過剰なルールを用いて、少しでも異質な者を排除する。多様なものの共生どころでない。ルール主義が排除派の意味合いを帯び、むしろルールに合意せずとも前に進んで実績を積む共生主義が包摂派に見えてきた。
■同じ変化が皆を襲う。その証拠に、実物ホームレスの話を聞いた途端、皆の雰囲気が包摂的になる。異質な者が互いに目に触れ、共生の実績を積めた昔は、ルールにうるさくなかった。同質的なものしか目に入らない昨今だからルールを使った排除に傾斜するのだと。
■ルールを使った排除に傾くほど、異質な者が互いに目に触れる機会が減り、異質さにますます過敏になって、ルールの厳格化による排除が進む──。こうした(悪)循環が進んだ先に、果たして町はどうなるのか。それが、今回『オン・ザ・ブリッジ』の主題である。
【「任侠」と「町」の、守り守られる関係】
■翌日、松本大洋原作、マイケル・アリアス監督のアニメ映画『鉄コン筋クリート』(06)を観た。評判が高く、一般紙の扱いも大きい。朝日の1月15日号夕刊では澤木耕太郎が論評した。強きを挫き弱きを助ける任侠映画。但し子供が主役だから死でなく生で終わると。
■見当違いだ。どこが違うか。迂回しよう。『鉄コン』と似た象徴的モチーフを扱う蜷川実花監督『さくらん』(07)がある。但し『鉄コン』は傑作。『さくらん』は究極の駄作。象徴的モチーフの扱いが傑作駄作を分けた。すなわち芽吹きないし開花のモチーフである。
■『鉄コン』のシロは、糞壷の如きバラックに植えた林檎の種が芽吹き花咲くのを夢見る。『さくらん』の日暮(ひぐらし)は、絢爛たる(=糞壷の如き)吉原の片隅にある桜の枯木が芽吹き花咲くのを夢見る。林檎は最後まで芽吹くことはないが、桜は最後に開花する。
■「絶望の町」を、たとえ夢であれ、芽吹きや開花に思いを託すことで辛うじて生き延びる。もっと正確に言えば、芽吹きや開花が本当はあり得ないと知りつつ、「あえて」あり得る「かのように」(森鷗外=ハンス・ファイヒンガー)生きる。まさしく共通の作法だ。
■『鉄コン』は澤木のいうが如き任侠映画でない。任侠の美学は皆無。絶望的状況を生き延びるための絶望的作法だけがある。故に「痛い」のだ。何が絶望的状況か。大阪の新世界に似た宝町が、昭和30年代的ワンダーランドからディズニーランドへと変容することだ。
■様々な老若男女の共生する町から《おこちゃまの町》(蛇の台詞)へ。それに抗えないという絶望だ。《もう流れは変えられぬ》(じっちゃの台詞)ことをシロは(故にクロも)予感する。では《おこちゃまの町》への変容に抗えぬことが、何故それほどの絶望なのか。
■宝町。そこは「人が、町に守られているが故に、人を守る」町。クロ(暴発が止まらぬ少年)は町に守られてシロ(予感が止まらぬ少年)を守る。ネズミ(地回りボス)は町に守られて木村(ちんぴら)を守る。逆に言えば「町に守られない限り、人は人を守れない」。だから「人を守れなくなった自分には、もう町はどうでもいい」。かかる因果が描かれる。
■社会システム理論を使って敷衍する。「町に守られないと、人が人を守れない」という度合で、町のパトリ度を測れる。パトリとは入替不能な郷里のこと。「町に守られないと、人が人を守れない」社会で、初めてパトリオティズム(郷里を愛する構え)が意義を持つ。
■町は建物の集合体ではない。かつて町は「自立的相互扶助」のネットワーク。パトリ度が高かった。今の町は「市場&行政的サービス」のネットワーク。「善意&自発性」が「役割&マニュアル」に置換され、人が入替可能になる。その程度に応じてパトリ度が下がる。
■ワンダーランドはパトリ度が高く、ディズニーランドは低い。その証拠に、ディズニーランドは各地にコピーが作られてきた。マニュアルに応じて役割を演じられれば誰でもいいからだ。多人種構成の米国で開発されたこの〈システム〉が、グローバル化を推進した。
■映画に戻る。クロにとって、シロを守れないなら、町はどうでもいい。シロを守れる自分を守るためにこそ、町の変容に抗う。シロを守るには町を守らねばならないから、町の存続可能性への想像によって行動を制約される。同じ因果がネズミから木村へも伝染する。同じ因果故に、対立する筈の浮浪児連中と地回り連中が共通して、蛇を殺害しようとする。
■シロを守るために町に行動を制約されるクロは、それ故に、シロが死ねばシロを守る自分が不要になり、自分を守る町も不要になる。クロはその因果を先刻承知だ(じっちゃの台詞)。だからこそ、シロを失った(と思った)クロは「死の大暴発」を繰り拡げるのだ。
■澤木の論評は百%の誤解とまで言えない。では百%の正解は何か。『鉄コン』は、「守り守られる人間関係たる任侠」と「町」自体が、守り守られる関係にあることを描く。「任侠」が命懸けで「町」を守り、「町」が「任侠」を守る。ここで「任侠」は人倫の謂いだ。
■その意味で『鉄コン』は「任侠」の可能性の条件を描く「メタ任侠」映画だ。かかる論理関係を数学の連立式の如く記述する原作『鉄コン』だが、原作よりも変数と連立式の数が減った映画版は、総ゆる社会学書に勝る程明快に、パトリを巡る普遍的因果を描き切る。
■『鉄コン』の分析通りパトリオティズムは先験的価値ではない。「町に守られないと人が人を守れない」度合が下がれば、パトリは自動的に価値を下げる。例えば非土地的なネットワーク社会たる中国ではパトリの価値が低い。収奪と殺戮に色彩られた帝国史の故だ。
■空間的差異を時間的差異に置換しても同じだ。パトリが空洞化する程パトリオティズムが価値をなくす(が故にパトリの空洞化が進む)という厳然たる法則がある。老いた聖役のじっちゃが《もう流れは変えられぬ》と腹を括るのも、法則を経験的に知るからである。
■冒頭に戻ろう。「任侠」と「町」の間の守り守られる関係があればこその共生主義。「任侠」と「町」との相乗性故に、空洞化が始まると後は加速度的だ。そうなれば「共生主義からルール主義へ」は不可避となる。『鉄コン』はこの不可避性を、絶望として表象する。
■だから『鉄コン』はノスタルジーではない。享受に記憶が必要ないし、懐かしさを覚える必要さえない。単に過去が何故戻らないのかを考察する。分析に異論の余地がなさ過ぎて「痛み」を感じる。「痛み」を感じるのは、我々が既に分析を知っているからでもある。
■そう。単純な因果。だから全員知っている。本当は知っているものを覆い隠す意識の働きがあるだけだ。フロイトの云う防衛機制とりわけ抑圧・補償・反動形成がある。それが人を〈システム〉化へと過剰に促す。知っていながら誘惑する者。故に「蛇」の名なのだ。
【「ワンダーランドの痛み」から「ディズニーランドの痛み」へ】
■『さくらん』は前回に倣えば無痛映画。本来なら吉原は究極の「痛み」のリソースたり得る。江戸末期以降の吉原が活気を失った理由を考察すれば、『鉄コン』に匹敵して全て分かる筈だ。だがパンフの紹介文には吉原はラスベガスだとある。映画はそう描いている。
■吉原は断じてラスベガスではない。ラスベガスがディズニーランドなら、吉原はワンダーランドだ。即ち「人が町に守られるが故に人を守れる」パトリ。無論、町に守られることは(前述の如く)町に縛られること。吉原の場合それは苦界からの離脱不可能を意味した。
■Political Incorrectを承知で言うと、町の反人道的な縛り故にこそ人が人を守れた。だから繰返し小説や芝居の舞台になった。店番の清次と、禿の年季を経て新造から花魁に成長する日暮の間の、守り守られる関係然り。花魁たちと上客の間の守り守られる関係然り。
■大門を潜れば「町に守られるが故に人同士が守り守られる」関係が、たとえ武家の階梯制であれ既製の身分秩序(〈システム〉!)を「超克」した。無論、性と芝居の酩酊的なミメーシス(摸倣的感染)も「超克」を後押しした。だから幕府は吉原を「悪所」とした。
■「町に守られるが故に人同士が守り守られる」関係を、〈システム〉の計算可能性を脅かすノイズだと見做したのだ。この見做しを体現したのが岡場所だ。だから〈システム〉の完成と並行した岡場所の勢力拡張につれて、粋の文化を体現する吉原が禁圧されて行く。
■フィールドワークを通じて同じプロセスを見てきた。合法非合法の境を超えて「町に守られるが故に人が人を守」って来たパトリの終焉とともに、警察国家化が進められてきた。約20年前の新風営法施行然り。約15年前の暴力団新法然り。約10年前からの重罰化然り。
■かくして〈生活世界〉の残火をかき消して〈システム〉が全域化した。アカデミズムの議論開始は昨今だが、宝町は思い出でなく、普遍的メカニズムだと述べたのを想起しよう。制作者らに少しでも教養があれば、吉原を「最初の宝町」として描けた筈だ。計算可能化に向けた社会の成熟がもたらす回復不能な変化と、それに伴う「痛み」を描けた筈なのだ。
■原作は安野モヨコ。『さくらん』の制作者らがやろうとしたことは痛い程分かる。ギャル的なものの肯定だ。だが吉原に素材を求めるお門違いぶりは、ガールズムービーを喧伝されるソフィア・コッポラの知性や教養と比較して、余りにも貧弱だと言わざるを得ない。
■『さくらん』は二重の錯誤に陥った。第一に、吉原はラスベガスではなく宝町だということ。「町」を全く描けていない。加えて第二に、ギャルは、錯誤的に描かれた遊女とさえ似ておらず、渋谷は、錯誤的に描かれた吉原とさえ似ていないこと。全て出鱈目なのだ。
■昨年9月24日放映のNHKスペシャル『東京カワイイ★ウォーズ』の原案を出し、ゼイヴェル社長の大浜史太郎氏とNHKプロデューサとを繋いだ私は、誰よりもギャル的なものを肯定する。確かに「カワイイ戦争」は希薄さに抗う「痛み」に満ちた祝祭だと述べてきた。
■その「カワイイ戦争」は肝心な点で非吉原的だ。ギャルの現状を『さくらん』制作者らは知っているか。マブダチが演出した、始まったばかりの東京ガールズコレクション(05夏)を見た。豪華絢爛たる空間を、自傷系・食べ吐き系・援交系、いろんな子が共有した。
■彼女たちの祝祭は、絶望をやり過ごすべく、不可能と知りつつも芽吹きと開花に思いを託す、絶望的作法なのか。違う。肝心の「町に守られるが故に人と人が守り守られる」関係が、痕跡としてさえない。そこには〈システム〉があっても町(〈生活世界〉)はない。
■何故それが重要な問題か。「町が人を守れなくなり、それ故に人が人を守れなくなった空間」では何もかもが入替可能化するので、固執的な身振りが全て社会的な振舞いから嗜癖的な振舞いへと意味を変じる。絶望に耐える片思いは、今やストーカーでしかないのだ。
■自傷や食べ吐きや援交や嗜癖の閉塞にもかかわらず絶望を乗り越える元気印として、ギャルズパワーがあるのか。違う。元気印が、自傷や食べ吐きと等価な嗜癖なのだ。それを当事者自身が知っている。それこそがギャルの「痛み」だ。芽吹きと開花どころではない。
■ギャルズパワーは吉原のような「人が町に守られるが故に人を守る」町が消えたからこそ存在する。町に守られた存在が遊女だとすれば、遊女はもはやあり得ない。ギャルの聖地渋谷には遊女ならざる体験入店フーゾク嬢と臨時援交女が溢れる。彼女たちもギャルだ。
■問題を抽象化する。ギャルの「痛み」とは〈システム〉を生きる「痛み」だ。映画における芽吹きと開花は「ここではないどこか」の隠喩だが、「ここではないどこか」があり得ないと知りつつ「ここではないどこか」を糧に出来たのは、ポストモダン以前の話だ。
■80年代以降、ツマラナイ「ここ」を生き延びるための「現実の虚構化(新人類系)」「虚構の現実化(オタク系)」の作法が浸透。「ここではないどこか」はオシャレとゲームのマーケティングになった。以降、如何なる「ここではないどこか」も「ここ」でしかない。
■如何なる「ここではないどこか」も、それが「ここではないどこか」だからこそ「ここ」でしかない(マーケティング)。逆に言えば「ここ」を探ろうとしてもいつも「ここではないどこか」へと押し出される(入替可能性)。それが〈システム〉を生きる「痛み」だ。
■『鉄コン』の林檎の種は決して芽吹かない。二重の意味がある。「町」では「ここではないどこか」を夢見ることしかできないという不可能性。「ここではないどこか」を夢見ることができた「町」はもう存在しないという不可能性。私たちの「痛み」は後者にある。
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