一国を自壊に導くテレポリティクスの悪夢
- 特定財源問題・チベット問題・大連立問題での出鱈目な情報発信--
■私事だが、TBSラジオのニュースバラエティ番組『荒川強啓デイキャッチ』の金曜日コメンテーターとして、1995年4月の番組開始から数えて丸13年間、毎週ほぼ休まずにその日のニュースないしその週のニュースについてコメントをつけてきたことになる。
■当初は文字通りニュースのバラエティの豊かさに圧倒される思いだったが、それも最初の一年間だけ。ほどなくニュース解説がある種のルーティーンであることに気がつく。むろんニュースに一定の類型があることもあるが、問題の本質はそこにはないと感じる。
■結論から言えば、問題の本質は社会的反応のステレオタイプにある。日本では記者クラブ制度と放送寡占で、調査報道というより報告報道--政治家や官僚(警察官僚を含め)がこう言ってました--の比率が多く、事件なら事件について「本当の事」は分かりにくい。
■「本当の事」とはむろん言葉の綾に過ぎない。マスコミ論の今日的水準では、かつてのW・リップマンやD・ブーアスティンのように現実を疑似現実が覆い隠すという単純な図式はとれない。むしろ視座--文字通りカメラの立ち位置--次第で複数のリアリティが並立するのである。
■社会学者P・バーガーはこれを多元的現実と呼び、J・ボードリヤールはオリジナル/コピーの二元図式と対比してシミュラクルと呼ぶ。事件報道をする寡占的放送局の全てが報告報道--警察リークの反復など--に覆われれば、複数視座の提示可能性は塞がれる。
■従って、ここでいう「本当の事」とは、あり得る視座の大半をシミュレイトした結果得られる「多元的現実の束」を意味しよう。「こちらからはこう見え、そちらからはそう見え、あちらからはああ見える」ということ自体が、謂わばメタ真実を構成するのだ。
■こうしたメタ真実を受容するには前提が必要だ。社会を多様な者たちが構成するのが通常態だという認識である。近代が成熟すれば社会は多様になる。だが多様性フォビア(恐怖症)が覆う日本ではメタ真実が嫌われ、不安を覆い隠す単純な真実が需要される。
■私にとってニュース解説がルーティーンだと感じられるのは、そうした事情からマスメディアが形づくりがちな社会的反応のステレオタイプのせいだろう。簡単に言えば、いつも同じような社会的反応を相手に「そう簡単な話ではない」と言い続けてきている。
■何を切り口にしても良いが、ここでは昨今の内政ニュースと外交ニュースから「道路特定財源問題」と「チベット問題」をまず取り上げ、次いで内政と外交にまたがる大問題なのに政局問題として扱われた「大連立問題」に触れて問題の深刻さを示そうと思う。
【内政:道路特定財源問題の本質を取り逃がす】
■「道路特定財源問題」についてのマスメディアの扱いは改めて詳述しない。本質から述べよう。必要性を吟味せずに予算枠が決まっていれば、要らない道路が作られたり、余った予算が道路に関係ないものに使われるモラルハザードが起こるのは、当たり前だ。
■そもそも先進国標準に比べて道路整備が圧倒的に遅れていた時代の、まさに「暫定的」予算措置。だから道路特定財源の入口は「暫定税率」に支えられた。「暫定」の筈が何十年も「手つかず」というのも、あり得ない不合理だ。ならば、どうすればいいか。
■暫定税の部分を取りやめてガソリン価格を下げよ、物流コストを下げることは、国民、特に経済的に困窮する地方にとってありがたい、云々。いや、暫定税率の部分を特定財源から一般財源化せよ。一般財源化で、要らない道路が作られないようにせよ、云々。
■政治学的にはこの問題の扱いは決まっている。道路特定財源はやめるべきである。だが、第一に、暫定税を取りやめてガソリン税や重量税を下げるのは誤りである。第二に、特定財源化によって無駄が生じるのだとしても、単に一般財源化することも誤りである。
■理由は単純。車に乗る人々がとりわけ享受する便益--道路などインフラ整備の恩恵--や、車に乗る人々がとりわけ帰結する社会的コスト--排ガス公害や温暖化や交通事故の害悪--がある以上、ガソリン税や重量税は合理的だからだ。現に日本の税は国際的に高くない。
■従って、税を下げてはいけない。代わりに税の使い道を変えるしかない。「ならば、一般財源化しかない」と思うのは早い。必要性を吟味せずに使い道が特定されているのは不合理だが、租税の受益者負担原則ならびに租税の公平負担原則を忘れてはいけない。
■先述したが、車の利用者に専ら関わる便益や社会的コストがある「から」課税するのだ。一般財源という同じ財布に車の利用者だけが多くの金を入れるのは公平でない。車の利用者に資するリソースに車の非利用者の金が注ぎ込まれるのも受益者負担に反する。
■どうすれば良いか。ガソリン税は徴収する。今より高くてもいい。でも暫定税率はやめて恒久税率とし、道路特定財源も廃止する。でも一般財源化するのでなく、公平化や受益者負担の原則に従って、自動車周りの便益や社会的コストのために用いるのである。
■簡単に言えば、車周りのことに「広く」使うのだ。道路整備もある。環境対策もある。安全システム整備もある。交通遺児や交通事故傷害の手当もある。道路だけに使うと決めるからモラルハザードが起こる。何にどれだけ使うかを拡げ、絶えず検討対象とする。
■今までも「どの」道路を作るかを是是非非で検討してきたのに腐敗が起こったとする向きもあろう。反論は簡単だ。昔は道路が少なかったから緊要性が高かった。道路が出来るほど緊要性が低くなる。低くなってくれば要求は恣意的になり、腐敗しがちになる。
■因みに道路族議員の「今でも道路を必要とする地域や人々がいる」という議論に但し書をつけよう。必要だという声があるから道路を作る。尤もらしい。だがそうした声に従ってバイパスや道の駅を作った結果、旧市街が空洞化し民業圧迫に苦しむ結果になる。
■昔はそのようには作られなかった。全総こと全国総合開発計画の名の下、建設省(現在は国土交通省に編入)が国道を計画、それに接続するブランチとして都道府県が県道を計画、更にそれに応接するブランチとして各自治体が市道その他を計画してきたのだ。
■国道整備計画が飽和すれば、ツリー状に構造化された道路建設計画も飽和する。その結果、アドホックな民意に従った道路建設がなされるようになる。道路建設には良くも悪しくも多様な波及効果がある。住民の要求通り作るのでは衆愚政治になり下がるのだ。
■考えておかねばならぬのは「受益者は誰か」が自明ではないことだ。道路の便益を享受するのは車の運転者や所有者だけか。物流の大半が鉄道に担われていた昔と違い、今では物流の要はトラック輸送だ。物流の恩恵は業者だけでなく国民全体が享受している。
■であれば物流を担う商業車については燃料税や重量税を下げるのが合理的だ。軽油税など一部はそうなっている。環境対策、安全対策、交通遺児対策などに関しては、「受益するのは誰か」とは別に「責任を負うのは誰か」が自明ではない。検討が必要になる。
■昨今では道路特定財源問題が、暫定税率廃止問題か一般財源化問題へと単純化される。不合理な議論である。不合理で損をするのは国民だ。不合理な議論を批判すべきなのは「第四の権力」であるマスメディアである筈だ。だが責務を果たしているとは言い難い。
【外交:チベット問題の本質を取り逃がす】
■昨今のチベット問題には、確かに餃子問題と似た所があるように見える。餃子問題での中国政府の対応には、倫理的には問題があっても、一定の合理性がある。倫理的に批判を浴びているチベット問題での中国政府の対応にも、似た合理性があることが重要だ。
■今日の国民国家においては「統治権力の意志にそれなりの合理性がある」と見るべきだ。むろん今述べた通り合理性は倫理性を意味しない。倫理的な侵犯は感情を刺激する。だからマスメディアの餌になる。だが合理性があればあるほど倫理的批判に効果がない。
■今挙げた例では「国民国家の統合ぶりを示す」という目的に由来する手段的合理性だ。五輪が背景にある。餃子問題でいえば、従来なら中国政府は、たとえ冤罪にせよ「犯人」を挙げ、「これは食の安全問題でなく、特殊な者による刑事事件だ」としただろう。
■だが五輪を前にするとプライオリティが変わる。「国内に安寧秩序を脅かす反乱分子がいる」ということ自体が、国家統合を示すための象徴操作上、問題化する。中国政府がチベット騒乱を国外(ダライラマ法王)の陰謀だと断定するのも同じ理由なのである。
■五輪を前にすると、国際社会を相手とした象徴操作が喫緊の課題になるのは、どんな国民国家においても同じことだ。1988年のソウル五輪で、犬料理屋が目貫通りから裏通りに移転させられ、散在した性風俗店がチョンニャンニ(清涼里)に集積させられた。
■東京五輪も同じことだ。首都高建設は因より、直前の東海道新幹線開通も国際社会を相手とした象徴操作であったし、長年の婦人運動を背景にした1958年の売春防止法施行にも、不平等条約撤廃を目的とした明治時代の猥褻三法と同じく象徴操作の面があった。
■象徴操作としての合理性を追求する営みを批判する資格は、どこの国にもない。合理性の追求を仕方ないこととして認めた上、しかしそれによる倫理性の侵犯が象徴操作上かえってネガティブな帰結をもたらすことを中国政府に伝達することが、大切になろう。
■むろん先進国を中心とした批判的感情の噴出がそうした伝達機能を担う。餃子問題における日本国民の批判的感情の噴出もそうだ。だが中国政府はそれを相対的に軽視する。「人の噂も75日」だからなのか。それ以上の理由がないかどうかの検討が、必要になる。
■餃子問題の場合は、日本の食が中国に大幅に依存するという安全保障上の弱点ゆえに足元を見られているという「別の要因」が強く効いているが、チベット問題でも、チベットが水資源と鉱物資源の宝庫であるという安全保障上の「別の要因」が効いている。
■グローバル化が進むと一般に安全保障問題が浮上する。なぜなら安全保障とは一口で言えば「依存はある程度仕方ないが、依存しすぎると危ない」とする物の見方だからだ。どこの国でも、軍事のみならず、資源や、食料や、技術や、文化の安全保障が浮上する。
■その結果、オーソドクスな国際貿易理論とりわけリカードの比較優位仮説か効かなくなる。比較優位仮説は、各国が得意分野に特化した上、国際貿易すればパレート最適化が果たされるとする。この仮説は、稀少な財も高い金を払えば買えることを前提とする。
■だが軍事外の安全保障問題が浮上すればする程この前提は危うくなる。中国はレアメタルを売らないようにすることを示唆した。似たことが各国の各種品目に拡がる恐れがある。グローバル化が国家の役割を小さくするという物言いが妄念であることが分かる。
■二十年以上前まで中国はダライラマ法王に緩やかな自治を約束していた。それが変わった。90年代からグローバル化の時代になったことが大きい。マネジメントの移入で中国が急に近代化して各種リソースの需要が増大し、他国への依存度が増したのが背景だ。
■中国政府にとって、13億国民の生命と安全の確保という観点から、チベットの水と鉱物資源がますます重要になる。だがそこでこの地域に住む300万人(アムド地域やカム地域を含めると600万人以上)のチベット人の宗教的文化が大きな障害になることに気づく。
■鉱物資源のために山に穴を開けたり、水利のためにダムを作ることを、チベット仏教が許さないのだ。中国政府にすれば、人口0.5%にも満たない前近代的な人々が13億人国民の生命と安全を脅かす。チベットが中国領である以上、彼らを開化するのは当り前だ。
■「大善のために小悪をなすを憚るなかれ」。国民国家は統治目的上こうした構えを多かれ少なかれ採るしかない。列強の横暴から大東亜を守るための「侵略」然り。独裁者の横暴から善良なるイラク国民を救済するための「侵略」然り。綺麗事は通らないのだ。
■綺麗事の倫理的批判は、それなりに倫理的な合理化が可能な国家目的や統治目的によって、簡単に中和されてしまう。辛うじて有効なのは、「そうした手段の選択がかえって国家目的や統治目的の完遂を妨げること」を統治権力に納得させる営みであるだろう。
■そこでは倫理的批判ではなく歴史的批判が必要になる。即ち歴史を参照すれば「そうした手段」の選択が経験的に見合わないことが分かるという指摘である。その場合、誰が指摘するかで効果が違う。例えば現に経験した者が反省的に語ることは有効たり得る。
■その意味で日本に資格がある。中国共産党の近代化モデルは、日清戦争の敗北を反省した中国人が日本のアイヌ政策や琉球政策に学んだ「単一民族化」図式。だがこの図式を完遂しようとした日本は領土を失う。「単一民族化」が通用すると見えたのは局所だ。
■個人に対する批判と国家に対する批判とは同列に扱えない。国家は「大善のために小悪をなす」ことを憚らない存在だからだ。大善のために手段的な合理性を持つと信じられるからこそ小悪を敢えてなす。小悪に対する倫理的批判などハナから折込済みなのだ。
■倫理的批判の大合唱は、蛙の面に小便であるどころか、相手国国民の感情を硬化させて相手国政府を縛ってしまう。相手を善導するには、むしろ直接的感情の発露を抑え、戦略的に振る舞う必要がある。マスメディアは、そのことを国民に伝える責務を負う。
■マスメディアが俗情に媚び、国民が感情的に政治家を自国突き上げる場合、政治家には戦略的な外交行動が採れなくなる。その結果、中国政府の善導ができなくなるか、他国政府たちにその役割を奪われることになる。これは明らかに国益に反する結果である。
■日本は曲がりなりにも近代国家であり、パブリック・ディプロマシー(世論を背景にした外交)を旨とせざるを得ない。国民の民度があがれば、その民度によって政治家が後押しされ、あるいは縛られる。ゆえに「第四の権力」は外交的にも大きな力を果たす。
【内政・外交を支える適切な自意識を取り逃がす】
■内政と外交に渡る昨今の個別事例を挙げた。国民の俗情に媚びるマスメディア(に媚びる政治家)が、他国ならば採り得る適切な内政・外交上の選択肢の採用を妨害する典型例である。だが内政・外交に跨る昨今最も重大な事例は「大連立」問題に見出される。
■私は大連立問題での福田&小沢合意が民主党総務会で否決された後の記者会見を最初から最後まで見た。小沢民主党代表は、福田首相側からの二つの重大な意志変更ゆえに、大連立への前向き姿勢を採ったと説明した。そこで説明された意志変更は極めて重大だ。
■一つは、イラク特措法の延長に拘らず、自衛隊海外派遣に関する恒久法を目指してOKというもの。もう一つは恒久法の中身だが、国連(総会や安保理)が動かない問題については、米国の要求があっても自衛隊を出せないようにしてOKというもの。重大だ。
■この記者会見で最も仰天したのは米国だろう。米国追従路線への実効的な釘刺しを意味するからだ。だが十分後のNHKニュースでは政治記者が全く別の説明をした。国民生活を停滞させてはいけないから福田・小沢両氏が大連立に合意した(!)と述べていた。
■その日の夕刊も主要紙を含めて全てが、米国が仰天しただろう小沢会見の中核部分を報じなかった。私は記者クラブによる報道管制でもあったのかと思った。だが記者たちに尋ねるとフェスティンガーの「認知的不協和理論」が最も有効な説明になると判った。
■第一に、米国追従が自明化した意味空間ゆえに小沢発言の意味がつかめなかったこと。コロラリーだが国民に説明しても理解されないと感じたこと。第二に、福田・小沢合意の内容が、米国追従のみが現実的だとされる意味空間ゆえに発言が戯れ言に思えたこと。
■残念ながら、日本国の内政と外交に関する適切な自意識が、国民はおろか、政治記者の間にも共有されていない事実が示された。そのような意味空間では、政治家がマスメディア相手に重大な発言をしても、それが記者にもコメンテータにも受け止められない。
■内政と外交に関する適切な自意識と述べた。二点を紹介する。第一は、米国の伝統的な外交手法に関する認識。ジョセフ・ナイのソフトパワー論に象徴される通り、各国の国民が国益上の最適選択が米国追従だと思えるように下ごしらえするのが、米国の常だ。
■目下のリソース配置で米国追従が最適だとしても、そのリソース配置のままで良いかは別問題だ。政治哲学では「行為功利主義と規則功利主義とは別」と言う。「与えられたゲーム(規則)で何が最適プレイか/そもそもどのゲーム(規則)が最適か」の別だ。
■第二は、米国が日本の国益増進に与えるプライオリティが冷戦終焉後に変化したこと。最近、武部元幹事長を座長とする自民党の政策勉強会の第一回会合に呼ばれ、自民党の党勢凋落の根本原因を探れという要望に応じて、約一時間余り要点を話す機会があった。
■要点は単純だ。(1)党勢凋落とりわけ農村票の自民党離れは絶対得票率分析によれば90年代前半から生じた。(2)原因は、80年代末の牛肉オレンジ交渉と日米構造協議(の結果としての農産物自由化・大店法緩和・公共事業漬け化…)がもたらす農村空洞化にある。
■(3)当時も米国の行動原理は不変であり、冷戦体制終焉と日本による製造業グローバル化を踏まえて日本の位置づけが変わったのである。(4)[日本は意識したくないが]米国による日本の位置づけが変わった以上、米国追従と国土保全が両立しない選択になった。
■(5)国土保全を重要視するなら、米国追従を徐々にに中立化する必要がある。(6)それには軍事的安全保障がネックになるから「軽武装依存」から「重武装中立」にシフトする必要がある。(7)それにはアジア重視外交により、アジアの感情的回復を図る必要がある。
■勉強会に出席した数十人の議員から悲鳴とも溜息ともつかぬ声があがった。「もやもやしていたことに初めて言葉が与えられた」と発言する議員もいた。だが「対米追従と国土保全は今や両立しない」という認識が小沢発言の背景にあった、と私は睨んでいる。
■冷戦体制後、米国による日本の位置づけがシフトしたのに、日本による米国の位置づけが変わらない。片思い状態に近づいたのに、日米関係についての自意識が変わらない。小沢発言でこうした問題を議論する千載一遇の機会が与えられたのに、誰も利用しない。
■こうした問題の構造を理解したとしても、解決すべき課題は困難を極める。米国を敵に回さずに米国にノーと言えるようにするための戦略は? 重武装化に必要なアジアの感情的回復の戦略は? 重武装化(のための改憲)に必要な文民の資質向上のための戦略は?
■結論。判りやすく言えば「民度の低い国民・に媚びる水準の低いマスメディア・に媚びる理念なき政治家・のテレポリティクスに踊らされる国民の民度低下」という悪循環を、どう食い止めるのかだ。マスメディアが果たすべき責務は、もはや言うまでもなかろう。
(テープ起こしを「である」調にしました)
■私が亜細亜主義について語ろうと思った契機は二つある。1997年の日米安保共同声明と1999年のWTOシアトル総会だ。前者は冷戦終焉後「にもかかわらず」米国追従を続けることの意味、後者はグローバル化に歯止めをかけないことの意味が、問われる問題だった。
■だが国内では議論が盛り上がらなかった。援助交際や新興宗教や少年犯罪の取材を続けつつ、これはマズイと思った私は、「昔とった杵柄」で亜細亜主義や天皇制の今日的意味を積極的に語るようになった。因みに私は権力現象の数理的記述で博士号を取得している。
■オルターグローバライゼーションという概念がある。グローバル化に真向から抗うのが難しい以上--どの国も外貨を稼がねばならぬ以上はグローバル化に多少なりとも適応する以外ない--グローバル化に「棹さしつつ抗う」構えを奨励する、左翼ルーツの概念である。
■「棹さしつつ抗う」とは如何なる営みか。グローバル化はIT化や人口学的流動化と表裏一体だ。IT化や人口学的流動化は国境や民族や階級をぶち抜く連携を可能にする。とすればこうした連携を利用した脱国境的活動でグローバル化の後遺症を手当てせよ…云々。
■パブリックセクターを政府に独占させずに市民活動に割り当てるA・ネグリに代表されるかかる議論は、国の内外という違いがあるとはいえR・ベラーの市民宗教論と論理的に同型であり、C・ムフによって「補完が悪質な秩序を延命させる」として批判されてきた。
■ベラーは、統制派への皇道派の対抗に見られる天皇を軸としたオルターバブリックの樹立を以て、天皇教こそ市民宗教の機能的等価物とした。更に天皇教と関係浅からぬ亜細亜主義とはそもそも、列強の帝国主義化に「棹さしつつ抗う」オルタナティブな近代思想だ。
■国境を超えたオルタナティブな公共性を提案するために天皇を使い[矛盾1]、それを通じて「帝国主義化に抗うために棹さす=東洋原理を守るために西洋原理を使う」[矛盾2]、というアクロバティックな構想を描いた者こそが、まさに亜細亜主義者だったのだ。
────────────────────────
■オルターグローバリゼーションはS・ジョージの言葉だが、グローバル化が引き起こす国内の疲弊はかつて彼女が提示した構造的貧困問題--国内繁栄のための外貨獲得・のためのモノカルチャー化・による国際貿易での買叩き・による不可逆な貧困化--と似ている。
■今日グローバル化に棹さすことはオフショア化で労働分配率切下げ競争に乗り出すことを意味する。冷戦下では財界こそが革命や正当性喪失を恐れ社会保全に関心を持った。制度派経済学やケインズ派経済学がそうした時代の産物だ。だがグローバル化が全て変えた。
■労働分配率低下で国内が疲弊すればBRICs諸国にオフショア化し、BRICs諸国が疲弊すれば更に新興国にオフショア化する。いわば焼畑化。財界エリートが社会保全への関心を失うのは合理的だ。「エリートの反逆」の概念でそれを喝破したのがC・ラッシュだった。
■15年前頃から東大法学部の成績優秀者が霞が関に行かなくなってきた。彼らはこう言う。「腐った日本に貢献することのどこが公共的なのですか」「格差拡大と言うけど、BRICsなど国外との格差は縮まっていますよ。こうした事態を社会学で「公共性の危機」と呼ぶ。
■20世紀後半の人文社会諸科学は「境界線の恣意性」を主題化してきた。言語ゲーム論然り。システム理論然り。暗黙知の理論然り。「想像の共同体」論も然り。こうした主題化はコミットメントを相対化する所に目標があった。今世紀に入って流れが反転しつつある。
■即ち「境界線の恣意性」から「コミットメントの恣意性」へのシフトだ。このシフトは、コミットメントの相対化よりもむしろ調達を目標とする。とすると、俄然注目されるのが、20世紀前半のデューイ流のプラグマティズムと、パーソンズ流の社会システム理論なのだ。
■彼らは大恐慌を受けて功利主義が社会を滅ぼす可能性に直面した後、問題を克服すべく、ホッブズ流のゲバルト集中による秩序形成でなく、ロック流・エマソン流の内発性(内なる光!)による秩序形成を構想した。だが内なる光が人に生来宿ると考える訳に行かない。
■とすれば内なる光を埋め込むしかない。埋め込む営みをデューイは教育と呼び、彼の正統な後継を自称するR・ローティはルソーに倣い感情教育と呼ぶ。パーソンズはより科学的観点から、教育を含めた社会環境全体による埋込みを構想し、社会化=内面化と呼んだ。
■単純には「社会が人を作り、人が社会を作る」という交互的条件付けだが、両者ともこの循環への意識的参入を推奨する点、まさにニューディール政策のイデオロギーだ。人称性の消去を念頭に置くパーソンズのそれは「全体主義的リベラリズム」と呼ぶに相応しい。
■そのパーソンズの最重要概念の一つがコミットメント(熱心な関わり)だった。米国社会や日本社会へのコミットメントは、生来でもなければ合理的にも正当化できない。いわば「端的な意志」に過ぎぬ。端的な意志の埋込みを構想するのが彼流の「主意主義的理論」だった。
■周知の通り亜細亜主義者の謂う亜細亜は、名目上は地理的概念だが、線引は論者毎に恣意的で、内容的正当性も空虚だった。それは亜細亜主義が前述の如く列強支配への対抗思想だったからで、思想と呼ぶに値する「コミットメント調達機能」に傾斜していたからだ。
■パーソンズの「全体主義的リベラリズム」は、文化体系という概念が象徴するように文化防衛論的ニュアンスを含む。文化防衛論といえば三島由紀雄の十八番だが、近代主義的思想としては南洲翁と並ぶ亜細亜主義の祖岡倉天心の(力の文明ならぬ)美の文明に遡る。
■それが動員のための「意図を隠した方便」たる点で、亜細亜を--力の文明ならぬ美の文明を(天心)・欲望国家ならぬ道義国家を(莞爾)・二元論的文化ならぬ脱二元論的文化を(周明)--護持せよと主唱する亜細亜主義も亦「全体主義的リベラリズム」に近接する。
────────────────────────
■合意よりも合意形成の前提となるものの埋込みを画策するネオコンは、ニューヨークトロツキストを核としたニューディーラーの成れの果てである。リベラルな理想主義に燃えた(手段選択における)現実主義者である点で「全体主義的リベラリズム」に近接しよう。
■因みに
拙著(堀内進之介・鈴木弘輝との共著)『幸福論』で述べた通り私の立場はパーソンズのそれに連なるものだ。従って「全体主義的リベラリズム」やその変種たるジョセフ・ラズ流の「卓越主義的リベリスズム」を否定しない。だからこそ私はネオコンを軽々に否定できないと各所で述べてきた。
■帰結的には亜細亜主義もネオコンも失敗し、多くの犠牲を出した。ニューディーラー流の「全体主義的リベラリズム」は、理想主義とは裏腹に--否、理想主義的たるがゆえに--危険な思考なのだ。危険の在処と回避策を学ぶべく、私は亜細亜主義再考を提案してきた。
■こうした学習目標から見た場合、最も合理的なのは田中智學を代表とする国柱会が提唱した日蓮主義を学ぶことだ。日蓮主義は亜細亜主義の最晩期の形態であると同時に、極めて洗練された合理的思考に縁取られる。であるがゆえに長所も弱点も如実になるのである。
■石原莞爾が企てた満州事変(昭和6年9月18日〜)。日本青年同志会(重藤千春)が引鉄をひく上海事変(昭和7年1月28日〜)。井上日召が企てた血盟団事件(同年2月9日&3月5日)。梵語の旗のみはためく満州国建国会議(同年2月16日)。共通性は一体何だろうか。
■田中智學の日蓮主義に帰依する者が企てたということだ。因みに建国会議の2月16日は日蓮生誕日。むろん作為的だ。日蓮主義ではないものの、桜会の三月事件&十月事件、そして二二六の「背後」にいた北一輝は、周知の通り法華経が暗唱できると嘯く法華の信徒だ。
■これは何を意味するか。我々は(変な言葉だが)昭和ファシズムは国粋主義者や天皇主義者によってもたらされたと習った。だが実際には国策を主導したスーパーエリートらは、国粋主義者や天皇主義者というより--或いはそれ以前に--日蓮主義者だったということだ。
■昭和ファシズムは日蓮主義者らが国家神道(天皇制)を手段として利用することでもたらされた。目的は何か。世界革命だ。日蓮主義とは(1)仏教的政教一致を手段として日本を統一し、(2)統一された日本を手段として世界統一を達成することを目標とする宗教思想だ。
■仏教的政教一致とは日蓮の言う立正安国に向けた王仏冥合即ち国立戒壇樹立を意味する。国民全体の絶対的帰依の対象たる天皇が改宗することで国民全体を法華宗信徒となすこと。智學によれば日蓮は世界統一の元帥。日本人は世界統一の天兵。天皇は天兵を導く賢王だ。
■世界統一を日本書紀から文言を拾って八紘一宇と呼ぶ。そのスペシャルケースが日蓮主義者莞爾の言う満州国の五族協和だ。智學によれば賢王に率いられた天兵による侵略は最高の折伏だ。但し天皇が改宗することで日本が「事後的に」道義国家たることが証される。
────────────────────────
■思想的特徴は二つある。第一は独特の聖俗一致・聖軍一致思想。ネオコン的な聖戦思想(M・ウォルツァ)と似る。第二は日蓮の天皇相対主義(天照の釈迦牟尼への下属)を反転した天皇絶対主義。但しその意義は手段的で、ネオコンによる福音派の操縦と良く似る。
■即ちここにあるのは非合理な神秘主義というより近代合理主義的な改鋳である。その合理性を二面で指摘できる。第一は帝国憲法に於ける政教分離とのマッチング。第二は維新以降の所謂顕密体制とのマッチング。双方とも日蓮主義が戦略的な思考であることを示す。
■帝国憲法は独特の政教分離を敷いた。全ての宗教を私的領域に配当し、神道のみを公的領域に配当したのだ。神道は風俗習慣であって宗教ではないとのロジックが使われた。宗教に世直し宗教(現世信仰)と癒し宗教(来世信仰)があることを見抜いたガバナンスだ。
■一口で言えば維新政府は世直し宗教を禁圧して癒し宗教を奨励した。背景には岩倉使節団系が欧州視察で学んだローマ正統教会における双剣論的な政教分離がある。周知の通り法華系は現世信仰を、真宗系は来世信仰を、旨とする。当然法華宗には立つ瀬がなくなる。
■となれば法華宗信徒が正統に公的領域--世直しの営為--に参入するには論理的に考えて神道の上に宗教(法華経)を置くしかない。それが国立戒壇=天皇改宗という度肝を抜く観念であり、日蓮主義が日蓮絶対主義と天皇絶対主義の合理主義的な合体装置たる所以だ。
■次に合体装置の中身を見るに戦前的な顕密体制との同型性が際立つ。因より岩倉使節団系は元々天皇に帰依していない。「田吾作の言うことを聞かぬ田吾作」に対処すべく、田吾作の命令を天皇の命令であるかの如く扮技させる正統性装置として天皇が持ち出された。
■だからこそ十五年戦争期までは天皇機関説が圧倒的に主流であり、民権派の流れを汲む亜細亜主義者の間で「孝明天皇暗殺説」や「大室寅之祐替玉説」が語り伝えられて来た。因みに、内容の正しさを意味する正当性とは違い、正統性とは自発的服従契機を意味する。
■エリート層は自らは天皇機関説に立ちつつ国民には天皇への絶対的帰依を要求する。国民の絶対的帰依なくして天皇は機関として機能しない。こうした二重規範を用いたガバナンスストラテジーを顕教密教の別に擬え「顕密体制」と呼ぶ。まさに日蓮主義と同型的だ。
■日蓮主義に於ては、日蓮のアマテラス下属論即ち法華経絶対主義を密教としつつ、衆生には天皇絶対主義(的国粋主義)を顕教として説く。両者を止揚するのが国立戒壇論だが、そこで導入された時間軸--最終段階での天皇改宗--はエリートのみ知るところなのである。
────────────────────────
■天心や南洲翁(隆盛)から数えるにせよ、元来民権派右翼たる玄洋社から数えるにせよ、それなりに長い歴史を持つ亜細亜主義が、最終段階において日蓮主義へと流れ込むに至る(歴史的経緯というよりは)意味論的な合理性について、一瞥しておくべき段取りである。
■前述の通り宗教には「現世信仰=社会的救済=世直し宗教」の方向と「来世信仰=霊的救済=癒し宗教」の方向と二つある。因より教団や宗派を二分するものではない。どんな宗教にも両方向が混在するのが通例だが、宗教同士を較べる場合には傾向性を論じ得よう。
■それを踏まえれば(宗教学というより)宗教社会学的には霊的救済系・社会的救済系それぞれに生存戦略的ないし意味論的な合理性が認められる。霊的救済系の合理性は、独カトリックのナチ協力を反省したカール・バルトによる「利用被利用反転論」に如実である。
■たとえ世直しの企図に基づくにせよ世俗権力に肩入れした結果がこれだ。これでは宗教が生き延びることはできない。せいぜいがパウロが組織防衛論的な観点から顕揚した隣人愛(カリタス)の教説に従い、統治権力と無関係な社会的活動に勤しむより他に手はない。
■社会的救済系はこうした立場に断固反対する。霊的救済系は帰結として現世からの脱コミットメントを招き、問題ある統治権力を補完する。前述したムフの批判と同型だが、統治権力と無関係な社会的活動に勤しむ場合も、問題ある統治権力の瑕疵を補完してしまう。
■日蓮は念仏宗教は世を滅ぼすとして北条時頼を恫喝したが、法華経の神秘主義的解釈に基づくところが大きいとはいえ、念仏宗教が現世救済を放棄することで社会的害悪の放置を帰結する事態を念頭に置いていた可能性を否定できない。これはこれで十分に合理的だ。
────────────────────────
■続いて世直し宗教の中身を見るに必ずしも「一国の」世俗権力への対抗が必然的だとは言えない。伝統を一瞥すれば、(国という言葉を無定義で使うが)国内革命を企図するがゆえに反国家となる宗教と、世界革命を企図するがゆえに親国家となる宗教を識別できる。
■一般に世直し宗教と言えば前者だが、ナチスを翼賛した独カトリック、ネオコンを翼賛した米エヴァンジェリカルズ(福音諸派)、天皇主義的国粋主義を翼賛した日蓮主義など、道義国家を用いて非道義国家を打ち倒し、世直しを達成することを目指す宗教宗派もある。
■日蓮主義者や法華宗信徒に限らず大川周明や中野正剛のような亜細亜主義者もまた石原莞爾の「道義国家」に類する観念を用いた。少くとも「道義」の言葉を国家に用いた。国家による正義の体現と言えばやはりネオコンを髣髴させるが、そこに回答のヒントがある。
■イラク紛争に面した米国の国論は、脱二元論・脱因果論的なユダヤエリートたるネオコンが、二元論(善と悪!)・因果論(千年王国!)的な南部高卒白人(福音諸派)を扇動した疑惑を拭えないが、ことほどさように国家の大義を信仰が与えることがあり得るのだ。
■亜細亜主義者の特徴は、クニの範囲を--藩だろうが国家だろうが国家連合だろうが--恣意的だと見做したこと、それゆえ亜細亜という地域的参照が名目に過ぎなかったこと、それゆえ国家をすら手段的に理解した所にある。とすれば日蓮主義への流入は必定であった。
■但書を付せば、日蓮主義者(の一部)において日蓮主義が敢えて--ネタとして--選択されたと主張する者では因よりない。個人の主観において日蓮への帰依が絶対的であったとしても、認知的均衡理論が説明する通り道具的国家観のなせる業ということがあり得よう。
────────────────────────
■亜細亜主義者が口を揃える「西洋原理からの東洋原理の(西洋原理を用いた〕護持」を今日真に受けることは出来まい。亜細亜主義者の大きな影響を受けた我が師匠廣松渉においては明白に「西洋的実体主義から東洋的関係主義へ」は政治的動員戦略上のネタだった。
■だが、真に受けることができないことを以て単に排斥することはできない。どのみち、恣意的な境界線の内部に対する恣意的なコミットメントを調達することなくして--内なる光を埋め込むことなくして--、どのような範囲であれ世直しを正当化することはできない。
■「真に受けることができないのは単に計略が稚拙だからだ」「大方が真に受けるような、あるいはレイヤーごとに真に受け方を区分するような--人を見て法を説く--、周到な戦略が必要だ」。今日のニューディーラー=全体主義的リベラルは、そう考えるより他はない。
■今日の優秀な左翼(出自)の論者はラクラウ&ムフを含めてグラムシ流のヘゲモニー論を採用する。だがカルスタの如きとは全く動機が異なり、文化的文物の自明性批判に淫するより文化的文物の自明性を用いた政治闘争を推奨する。これまたパーソンズ的であろう。
■周知の通りルカーチは革命の主観的条件の非自明性をついた。誰もが所属組織や所属国家に関わる特殊利害と共同利害の二重性を生きる。だから「企業が(国家が)潰れれば困るのは労働者だぞ」といった恫喝には一定の合理性がある。廣松渉も繰り返し述べていた。
■だからルカーチは主観的条件の成熟にオルグ活動が不可欠と見做した。オルグが通用するのは特殊利害と共同利害の捩れが最も先鋭な者逹。それこそがプロレタリアートだと話を逆転した。グラムシは「オルグへ」を「(組織戦から)陣地戦へ」と戦略的に展開した。
■私は中学高校時代にヘゲモニー論--当時の言い方では構造改革派--の影響を強く受けた。現に構造改革派の松田政男(四トロ=第四トロキスト同盟、のちに映画批評家)を通じて廣松渉を知った(二人は無二の親友、そして私は二人をよく知る)。ブルセラ&援交に関わるメディア活動も主観的には構造改革派のプログラムに沿ったまでのことである。
■私の活動が何をもたらしたのか、私にもよく分からない。様々な批判を浴び、贖罪のためにロビイ活動もした。そのロビイングが何をもたらしたのかもよく分からない。そうした個人的経験を通じて私は「全体主義的リベラリズム」の危険をよく弁えているつもりだ。
────────────────────────
■そろそろ総括の段。最も合理的な世直し宗教の代表例として「世界革命のために国家を利用する」--その意味でネオコンと同型的な--日蓮主義を紹介した。亜細亜主義が近代合理主義的思考の一種であるのが分かる。だからこそ我々にとって極めて教訓的であるのだ。
■「世界革命のために国家を利用する」者はしかし実は(私を含めて)国家をよく知らない。だから計算違いを含めて様々な犠牲が生じる。だが翻って言えば全て世直しが構造的に孕む問題だ。だからこそM・ウェーバーは政治倫理の何たるかを説かざるを得なかった。
■ウェーバーの政治倫理は帰結主義的発想だとされる。だが彼の政治倫理=結果倫理を「終わり良ければ全て良し」と誤解する人が多い。彼の政治倫理は「帰結へのコミットメント」を推奨する。帰結を考えぬ者が偶々素晴らしい帰結を招いても政治倫理に悖るのだ。
■だが社会は偶発的な関係性の複合体である。因より誰であれ帰結の偶発性を操縦し切れない。だから帰結にコミットすることを推奨する帰結主義は論理的に決断主義の推奨を含意せざるを得ない。だからウェーバーの申し子としてカール・シュミットが生まれたのだ。
■境界線が恣意的であることに驚くどころか、恣意的な境界線の内側への恣意的なコミットメントを調達した上で決断主義的な意志決定をせずしては、世直しがままならないこと。このことが孕む危険に対処するための思想は、そもそも宗教において提示されてきている。
■今回は詳述できないが、ユダヤ教では、原罪譚を通じて脱二元論・脱因果論が推奨される。法華経では、述べ伝えてはいけない真理という概念が示される(方便品)。方便濫用に対処すべく大日経においては、細分された手段と目的の同型性(曼陀羅)が推奨される。
■ローマ教皇ベネディクト16世は、密かなエールを送りつつ世直し神父(怒れる神父)を破門する異端審問官を演じる。(因みに私がコミットするラディカルデモクラシーも「“みな友達”の禁止」「抹殺の禁止」という両立し難い2つの意味で「敵の抹消」を禁じる)
■こうした「処方箋」にどのような共通性や異質性があるのか。現在執筆中の宗教社会学の書物で詳しく展開する予定であるが、一言だけ謎めいたフレーズを残して置く。「不可能性の思考」。この言葉の意味を徹底して理解するところに辛うじて道が開けるであろう。
宮台発言から、さらにその一部を紹介します。
短くまとまって、構成もきちんと再構成したものが(むろん邦男さんとの対談形式で)次号の月刊『創』に掲載されます。
宮台 一水会の木村三浩さんたちが、右翼の人たち156人を集めて映画『靖国』の試写をした後、討論を行ないました。右翼が陽のあたる場所に出て発言できるので、すごくいいアイディアです。
────────────────────────
宮台 国際的には右翼の最前線は国際主義右翼。つまり民族自決主義の民族派です。一水会のように日本だけでなくイラクのナショナリズムも擁護します。日本には日本の、台湾には台湾のナショナリズムがあるとする『靖国』は、右翼国際主義的には反靖国じゃない。
…[その意味では映画の]狙いはいい。刀鍛冶に寄り添って感情移入を誘い、台湾原住民に寄り添って感情移入を誘う。どちらも人生をかけたリアリティだと分かる。ナショナリズムの争いを、ナショナリズムを否定するかわりに、むしろ肯定することで乗り越えよう。でも、狙いを外れない単調な画面の連続です。後半の資料映像も、資料的価値とは無関係に、余計です。…[その意味では]作品の出来ではなく(笑)勇気を褒めなきゃ。凄い奴を褒めるのが右翼です。
────────────────────────
宮台 助成の是非は議論するべきです。中立的作品への助成だけがOKか。多様な立場の映画に助成して全体のリストが偏ってなければOKか。放送法で定めた中立性をめぐる問題にも通じます。番組ごとに中立的ならばOKか。反論権確保も含めて編成全体で多様な立場を包摂していればOKか。国際的には後者です。個々の作品が価値観まみれなのは当然です。
────────────────────────
宮台 それにつけても右翼恐怖が悪循環になってます。怖いから遠ざける。遠ざけられてフラストレーションが溜まる。溜まるから先鋭な行動にでて怖がられる。この悪循環からの解放が邦男さんの処女作『腹腹時計と<狼>』以来の一貫した主張です。実は右翼の問題というより少数者をどう処遇するかという民主主義の問題です。
僕がブログに書いた内容は難しく見えて簡単です。巷では週刊誌や稲田議員や右翼や映画館を批判します。民主主義の社会だから批判していいけど、中身がくだらない。週刊誌も議員も右翼も興行も各々事情から「個人的最適化」を図っているに過ぎない。だから仕方ないんです。
でも仕方ないと言ってると社会全体として少数者の発言機会が排除される。これはマズイ。第一に民主主義の原則に悖る。第二に排除が先鋭化を生み出す危険がある。民主主義という市民社会の観点からも、治安維持という統治の観点からも、「多少迷惑でも包摂しよう」と言い合えることが重要です。包摂した上で「あんたは間違ってる」と言えばいい。「あんたは間違ってるが、あんたを抹殺しようとする者がいたら命がけであんたを守る」が大切です。
────────────────────────
宮台 そこ[=右翼の凱旋だけ取締りを要求するところ]に右翼差別がある。刀匠の刈谷さんが「取材の時に聞いていた話と違う」と言っています。自称リベラルは国際戦犯法廷問題で「放送されるという話だったのに放送されないとは何事か」と期待権を主張する。その理屈で戦犯法廷の主催側を応援するなら刈谷さんも応援しなきゃ。
自称リベラルは正論を語る恰好をしつつ、内容に依存した肩入れをしてるだけ。民主主義者ならば、内容の主義主張に関係なく平等に期待権を認めなきゃ。刈谷さんの話を聞いて本当はどうだったのか調査をしなきゃ。戦犯法廷側の抗議は聞いてあげて靖国側の抗議は「洗脳されたんだろ」と拒絶するのは卑怯です。こういう卑怯者はリベラルの名に値しない。単なる自称リベラルに過ぎません。
────────────────────────
宮台 政治は象徴闘争だから、世間が「反靖国だ」とラベル貼りした作品に抗議するのは、中身に関係なく「あり」です。少なくとも個人的最適化には適う。ただ中身については僕は揶揄だとは全然思いません。右翼のオーラにも正直かつ謙虚に感染しました。
────────────────────────
宮台 僕はそれ[=静かな普段の靖国を描くこと]でも映画になると思うから「駄作だ」と書いてるんです。靖国イメージも単調だけど、刈谷さんの描き方も台湾原住民の描き方も単調です。まるで「刀鍛冶としての人生が全て」「靖国に反対する人生が全て」みたいに描かれている。実際には人生は万華鏡です。靖国も万華鏡です。それを取り込めないなら駄作です。
先日も僕は靖国神社で夜桜能を最前列で観ました。心から堪能しました。靖国にも色んな季節があり、色んな日があり、色んな顔がある。その中の1コマとして「ああいう人もいる」って描かないと僕には退屈です。靖国神社を知る人から見ると外国人向けのオリエンタリズムみたいに感じられます。日本人を含めて靖国神社を全く知らない人の入り口としてはいいでしょうが。
…僕は、内容は駄作だけど上映を擁護します。あの映画を擁護する人が内容を褒めるでしょ。情けない。内容がいいから擁護するのか。そんな輩は民主主義者じゃない。
────────────────────────
宮台 「気に入らないから潰すこと」と「気に入るから擁護すること」とは表裏一体です。邦男さんが昔から言う通り「気に食おうが食うまいが喋らせてやれ」ってことだけですよ。…邦男さんと僕以外にそれを言う人がいない。それを言うのが民主主義者だしリベラルです。リベラルな言説だけ擁護して、それ以外を差別するのは、リベラルじゃないです。
────────────────────────
宮台 [批判されてもムキになるのはみっともないというのは]邦男さんの「経験からくる余裕」ですね。2ちゃんねる的ネット右翼がかなり萎みました。理由は簡単。トラックバックなど評判システム付きのブログが拡がって、頭のいい人と頭の悪い人の区別が明確になったからです。
日本以外の先進国に2ちゃんねる的掲示板はないのは「こういう書き込みをする奴はバカに決まってる」という期待の地平があるからです。日本ではバカが書き込んでもリアクションがもらえる「未熟な時代」が続いたけど、バカにとってのガス抜きという意味でそれなりに公共的でした。今ようやくバカな奴の書き込みがスルーされる成熟が訪れたけど、今度はバカがどこでガス抜きしてもらえるのかを考えなければならなくなった。その意味ではニート向け『正論』みたいなガス抜き用の活字メディアが需要されていて、それに呼応する動きもあります(笑)。
邦男さんのキーワードは「卑怯」だけど、卑怯なことはやめろ、浅ましいことはやめろ、という美学がネット右翼にない。その意味でネット右翼も自称リベラル同様に自称右翼でしかありません。「人工無脳」的チャットロボットでシミュレイトできる程度の言説が右翼と呼ばれてたんじゃ、本当の右翼が可愛相ですね。
…[ネット左翼に較べてネット右翼が目立つのは]旗とか神社とかシンボルをめぐる闘争が中心になるので誰でも参加できるからです。左翼にとって肖像や赤色旗は重要ではなくなって、むしろ象徴を否定するのが左翼になっています。…ポストモダンないし近代成熟期の先進社会における象徴闘争は「承認闘争」です。でも真性右翼からすれば、承認を求めて右往左往する者は右翼ではない。
────────────────────────
宮台 [稲田議員の行動に始まる社会的反応は]全体が金太郎飴です。自称右も自称左も行動原理が同じです。気に食うから擁護するとか気に食わないから擁護しないとか。邦男さんが主張してきた意味でのリベラルな態度が見られません。リベラルな態度とは玄洋社の頭山満みたいな御大尽的態度のことです。
ただし右翼は差別されてるから左翼と対等に扱えない。差別される者が色んな行動をとるのは仕方ない。「仕方ない」が僕のキーワードです。「仕方ある」ようにせよ。それがラディカルデモクラシー論など現代政治哲学の最前線の主張で、彼らも右と左をぶった切ります。でもこの国では邦男さん以外そうしたことを言う人がいない。
繰り返すけど、左翼は「観る前に抗議するとは何事か」と言うけど、政治は象徴闘争。左翼だって同じことをやってきたでしょ。見たものしか語るなと言うなら、月が地球の周りを回ることだって語れない。
────────────────────────
宮台 [右翼が今日のような形態をとるのはなぜかというと]大きな話をするとGHQの検閲が背後にありますね。自称右翼の多くは亜細亜主義など日本の右翼思想の膨大な蓄積を知らない。北一輝が、大川周明が、石原莞爾が、田中智學が、どんなに凄いことを言ってるのか知らない。でも自称右翼のせいじゃありません。思想の蓄積を見聞する機会を奪われたのです。右翼が賢くなれないように操縦されています。これはマズイ。
倫理社会の教科書も、戦前には傍流だった福沢諭吉を含めた脱亜入欧派や啓蒙派ばかり紹介されている。でも大川周明や石原莞爾や中野正剛が何を言っていたのかを知る機会が奪われています。「東洋原理を守るために西洋原理を使え」「列強の帝国主義に棹さすことで抗え」と主張する「オルタナティブな近代思想」たる亜細亜主義者の思考の方が、啓蒙派よりも思想的に深いのです。右翼の方が左翼よりも思想的に深いのに、それを知ることができないから右翼が浅くなり、そのぶん左翼も浅くなるんです。
────────────────────────
宮台 元はといえば昨年末に『週刊新潮』が記事を書いたのが発端だけど、それに触発された稲田議員が疑義を呈して以降の一連の展開は、「終わり良ければ全て良し」じゃないが千載一遇の問題提起になっていて、様々な立場の人々の学習チャンスを提供しています。「表現の自由の危機」といった紋切型の物言いで済ませるべきじゃない。
…[表現の自由を保証せよというのは]その通りですが、「表現の自由」という言葉がミスリーディングです。憲法規定としての「表現の自由」は統治権力に対する命令です。統治権力が侵害してはいけない行為可能性領域を権利と言います。その意味で今回の問題は「表現の自由」という「権利の問題」でなく、実際に表現するチャンスがあるかという「機会の問題」です。人々が「怖いのは嫌だ」とか「客に迷惑かけられない」という理由で個人的な最適化を図る結果、実際に意見表明できなくなる人が出て来るのです。
それが良くないというのは「表現の自由」を主張する自由主義の問題でなく、「誰もが意見を言える」という民主主義の問題です。統治権力(国家)の問題でなく、市民社会(国民)の問題なんですよ。
────────────────────────
宮台 僕は邦男さんの処女作から読んできたけど、30年経ってようやく現代政治学の最前線が邦男さんに追いつきました。シャンタル・ムフによれば、ラディカルデモクラシーは二つの意味で「敵の抹消」に抗います。
一つは「みんな仲良し」とか「対立がないのが良い社会」といった意味での「敵の抹消」。そんな社会じゃ誰も政治に参加しなくなります。もう一つは「民主制を認めない奴は抹殺する」という意味での「敵の抹消」。民主制を認めない奴でも、当座は暴力を振るわないというなら存分に喋らせる。それが民主主義だと。民主制は統治の問題ですが、民主主義は市民の覚悟の問題です。邦男さんと瓜二つでしょ。
…日本では「一宿一飯」って言います。恐いと思ってる奴と一緒に飯を食うとか、一緒に喋るっていうだけで「意外にもイイヤツだな」「信頼できる奴じゃん」みたいになる。プラトンのいうミメーシス(感染的摸倣)です。意見が一致するかどうかはどうでもいい。それが「変わる」ってことです。そうしないと幼稚な硬直状態から永久に逃れられません。
────────────────────────
宮台 それ[=極めて意義のある右翼向け上映会の開催ができたのは]は平野悠という支配人がいるからです。僕が「テレクラ道」を教えた相手ですけど(笑)。ああいう個人がどれだけいるかということが、その社会が色んな人を包摂できるかどうかを--民主主義社会であるかどうかを--決めるんです。
…表現の自由というと「国や政治家は何やってんだ」という要求話ですが、民主主義は「意見の違う相手を守るために何ができるか」という覚悟話です。その意味で、責任という邦男さんのキーワードは重要です。ラディカルデモクラシーの言い方は「敵を敵のまま包摂せよ、それが責任だ」です。敵が味方に変わったから包摂するんじゃない。敵がいるのはいいことです。敵がいるから頑張るし、敵がいるから賢くなる。「敵だから排除しろ」だと、いずれは自分が排除されます。邦男さんがずっと主張してこられたことです。
────────────────────────
宮台 言論戦は経験を積めば積むほど強くなります。邦男さんは経験を積んで強くなられたんです。強くなる前は弱かった。でも弱いからって言論戦に尻込みしてちゃ永久に強くなれない。言論戦に踏み出し、少し強くなったことに自信を持ち、更に言論戦に踏み出す。そうした良循環を回さない限り、自分が望む社会は永久に訪れません。人を怖がらせているだけじゃ社会を変えられない。人の心を変えられないなら単なる自己満足に過ぎません。
────────────────────────
宮台 [映画館が表現の場なのかといえば]一般には違います。単なる娯楽施設ですよ。ただ、こういう事件が起こるとわかるように、時としてそれが「表現の場」になるんですね。最近のハリウッド映画のように、社会派的な表現だからこそ一級の娯楽になるということもあります。
…[社会派映画やドキュメンタリー映画が上映されるときだけが表現の場になるのかというと]そうとは限りません。最近の日本でも「ニュースバラエティ」という言い方があるようにニュースが娯楽になりました。「目から鱗」という体験は、社会的に意味があるだけでなく、それ自体エンジョイヤブルです(=楽しめる)。人を笑わせる番組だけが面白いわけじゃない。
米国では9・11が大きなきっかけで「そうか、世界はそうなっているのか」という発見とともに喜怒哀楽を提供する作品に価値があるというふうになってきました。背景にはお金の問題もあります。ハリウッドだと、フィクションの制作に5年かかりますが、ドキュメンタリーは2年間。人員やコストが安く済み、回転率も上がって、リスクが小さい。しかも昨今では社会の不透明性が上がっているので、「そうか、世界はそうなっているのか」と「目から鱗」をもたらすドキュメンタリーや社会派の方が観客の食いつきがいい。邦男さんの言われた「毒にも薬にもならない恋愛ドラマ」が激減しました。
────────────────────────
宮台 僕が鈴木邦男さんとご一緒したロフトプラスワンのイベントで言ったのは「[映画館も]武装しろ」ってことです。色んなことを言いました。スクリーンを斬られても大丈夫なように興行側が相互会社を作って積立金を払えるようにせよ。日頃から警察と仲良くして「こういうケースはああ、ああいうケースはこう」とボタンを押せるようにせよ。右翼団体に口をきける有力者に事前に根回しせよ。ことあるごとに「みんなで支える民主主義」みたいな説得を観客や近隣社会にせよ。むろん何をしたって防げないことはありますが、問題じゃない。何かあっても観客や近隣社会への言い訳が立つようにしておくことが肝心です。
────────────────────────
宮台 そこ[映画館がびびることについて]は「仕方ない」がキーワード。恐いのは仕方ない。観客だって恐いし、映画館も恐い。それを責めるならば自分の所で上映すべきです。
加えてマスコミの責務は「上映すればいい」じゃ済まない。次のステップがあります。市民相互のコミュニケーションを通じて「何であれ上映機会が奪われるのはよくない。怖いかもしれない。迷惑かもしれない。でも何かあったら警察が必ず動くように手筈が整っている。多少のことは我慢せよ」と言わなければなりません。それが民主主義社会のマスコミの責任です。恐いということでマスコミが安全パイをとれば、様々な人々が表現機会を奪われます。それでは民主主義の社会じゃない。
…映画館は娯楽施設ですが時として「天下の公器」になるんですね。少数者が表現する場になる。普段は娯楽施設でも、それが映画館の特殊性です。それを巷間理解してもらっておくべきです。日本の興行の世界はそのあたり自覚がありません。表現者が興行側に「自覚せよ」と言わなきゃいけないのに、毒にも薬にもならないような映画ばかり作ってるから、映画館側も「映画ってこんなもの」と思っちゃってる。
────────────────────────
宮台 [自民党の稲田議員らが試写会を求めたことについて]僕は構わないと思いますよ。…上映するなとか言い出したら事前検閲だけど、そんなこと言ってないですから。…[議員が動くと結果として上映しにくくなるという効果があるのなら]それを払拭するのがメディアの責務です。メディアが稲田議員たちのところに行って「文化庁の助成が妥当かどうかについて政府に抗議するだけなのか」を確認し、それを逸脱すれば徹底批判して潰せばいい。メディアがキャンペーンをはれば簡単に潰せます。でも国会議員も稲田議員だけじゃない。「別にいいじゃないか」という議員が上映会を要求して「国民よ、観ろ」と戦えば、メディアが動くまでもなく、つり合いがとれるはずです。
────────────────────────
宮台 そうした[=メディアを相手にきちんとしたことを言わないと誤解されたままだという]危機感を持つ右翼の方々が一同に会するのは珍しいことです。その意味ではイベントの開催はすごく良かったと思います。何事も「瓢箪から駒」だし「人間万事塞翁が馬」です。色んなものを利用して成熟に向かって経験を積むしかありません。
「思考停止の条件反射」がどの方面にも多すぎます。個人的最適化もいいけど、社会的最適化も大切です。プラットフォームを前提とした行為の最適化もいいけど、プラットフォーム自体の最適化も大切です。自分の意見を言うのも大切だけど、気にくわない意見を言う相手の存在を認める社会を守り抜くことも大切です。右よりもむしろ左にそれを分かっていない人が多すぎる。
商業映画も含めた中で、自主制作の『国道20号線』が最高でした。
その『国道20号線』の富田克也監督と、渋谷でトークをいたします。
場所:
アップリンクファクトリー
時間:
18:30会場
19:00「国道20号線」上映スタート
20:30頃よりトーク
『靖国 YASUKUNI』騒動を巡る巷の議論は、本質を全く捉えていない
──靖国議員も自称右翼も映画館も悪くない、であれば何が問題か──
■李纓(リ・イン)監督監督の映画『靖国 YASUKUNI』を巡る混乱が続いている。昨年の話だが、この映画については寺脇研氏・荒井晴彦氏らとの座談会で、私も内容的な論評をしたことがある。今回は内容的な論評ではなく、この騒動を巡る議論を検証したい。
■議論の前提となる限りで内容に触れる。1960年代から周知となったドキュメンタリー技法を用いた佳作だと感じる。その手法とは、Aという立場に寄り添って感情移入やミメーシス(感染的摸倣)を招き、次にアンチAの立場に寄り添って同じことを試みる。
■パレスチナ・サイドに立つドキュメンタリーを見て涙したり激怒したりした直後に、ユダヤ・サイドに立つドキュメンタリーを見て涙したり激怒したりする、という複合的体験を与える手法だ。手法の狙いは「今日的な真実性」を明らかにするところにあろう。
■真実性という言い方は言葉の綾だ。今日ではW・リップマンやD・ブーアスチンの時代とは違う。疑似現実が現実を覆い隠すという図式は採れない。立場-文字通りカメラの立ち位置--に依存する複数のリアリティがあるだけ。それが60年代に明らかになった。
■社会学者P・バーガーはこれを「多元的現実」と称した。J・ボードリヤールはオリジナル/コピーの二元図式が崩れ「シュミラクル」の乱舞が覆うようになったと述べた。抽象的には、誰もが乗っかる共通前提を当てにできなくなったポストモダンに対応する。
────────────────────────
■60年代に明らかになったと述べた。昔は隠されていた多元的現実やシミュラクルの乱舞が突如明らかになったのではない。そうでなく60年代から70年代への変わり目あたりで、近代社会がモダン(近代過渡期)からポストモダン(近代成熟期)に変化したのだ。
■要は「期待の地平が変わった」のだ。自明な〈生活世界〉を生きる者達が「我々」の便益のために〈システム〉を利用するようになる--これを「近代化」という。やがて〈システム〉が全域化して〈生活世界〉が空洞化する--これを「ポストモダン化」と呼ぶ。
■ポストモダン化すれば、自明な「我々」の輪郭が崩れ、誰もがそう思う筈だ(と皆が思う筈)という期待の地平が縮む。すると「そういう見方もあるが、ああいう見方もある」という風になる。相対「主義」者になるのではない。事物が相対的になるのである。
■だがそうなれば、複数の立ち位置によって分岐する多元的現実の束を提示することで、緩やかな「メタ真実」を示唆できる。分かりやすく言えば「そのような多元的現実に分岐した社会」「そのようなシミュラクルの乱舞がある社会」を示唆できるということだ。
────────────────────────
■誤解を塞ぐと、複数の立ち位置とそこからの見え方を精査して多元的現実を正確に記述すれば「メタ真実」が得られる訳ではない。そうした「メタ真実」の抽出が可能であれば、そもそも社会は、ボードリヤールのいう「シミュラクルの乱舞」には当たらない。
■彼の議論は真実がメタであれオブジェクトであれ基底を持たなくなったことに照準する。全てが文脈に依存する部分的真実でしかあり得ない。ベンヤミンの言葉を借りれば、「真実」がシンボル水準なのに対し、「メタ真実」はアレゴリー水準にしかあり得ない。
■アレゴリー(寓意)とは「〈世界〉(ありとあらゆる全体)は確かに“そう”なっている」という納得だ。“そう”が“どう”なのかを明示できない。明示した途端、全体性が部分化するからだ。だからベンヤミンはアレゴリーを「瓦礫が一瞬形づくる星座」と述べた。
■李纓監督の狙いアレゴリーにある。身を清めて居合抜きをする刀匠・刈谷直治に寄り添ってミメーシスを起し、祖霊を返せと宮司に詰め寄る台湾原住民チワス・アリ(漢名・高金素梅)にミメーシスを起す。そこでは言葉より空気感と歴史感が立ちこめている。
────────────────────────
■巷間誤解されがちだが、Aという立場を紹介し、続いてアンチAの立場を紹介することで「どちらにも尤もな言い分がある」と中和すること。そこに李纓監督の狙いはない。「ああ、〈世界〉は確かにそうなっているのだ」と思わせるところにだけ、狙いがある。
■そこに醸し出されるアレゴリカルな効果は、刀匠や台湾原住民の個別性を越え、〈世界〉の全体性に関わる印象--「人のなすナショナリズムの営為が、儚くも尊きもの、尊くも儚きものだ」という感慨--を与えよう。従ってそこには明確な政治性が存在している。
■社会システム理論の枠組では、政治とは、集合的決定--社会成員全員を拘束する決定--をもたらす機能である。それに影響を与えようとする動員の試みは、直ちに政治的である。李纓の映画『靖国』に明確な政治的メッセージが存在することを忘れてはならない。
■映画には固有の主張がある。「ナショナリズムがもたらす悲劇を越えるには、いずれかの立場からのナショナリズムにコミットするだけでは解決しないにせよ、ナショナリステックなコミットメントを単に相対化するだけも解決しない」とパラフレーズできる。
■そこには、ナショナリズムの営為が「儚くも尊きもの、尊くも儚きもの」であることを弁えねば--「当事者を承認しつつも距離をとり、距離をとりながらも深く承認する」という態度なくして--ナショナリスティックな紛争を超克できない、とのメッセージがある。
────────────────────────
■「ナショナリスティックな紛争を超克するには、ナショナリズムの否定でなく、むしろ肯定から始めよ」という明晰なメッセージは、日本の自称左翼への批判になっている。そのことを自称右翼はもとより自称左翼すら掴めずに左翼的に礼賛するのは滑稽千万だ。
■こうしたメッセージは国内的には右翼国際主義(民族派右翼)を標榜する一水会の元代表鈴木邦男氏の持論に近い。因みに私自身の立場にも極く近い。国際的にはC・ムフのラディカルデモクラシーやJ・ラズの卓越主義的リベラリズム等、政治哲学の最前線の思考に近い。
■自称右翼・自称左翼の別を問わず、こうした政治性に適切に反応できないところに、はからずも民度の低さが露呈している。だがそれはそれとして、この映画はさして質が高いものでもない(せいぜい佳作)という「実際の問題」もしっかり見据えておきたい。
■自称左翼は刀匠のシーンが長すぎると揶揄し、自称右翼は台湾原住民や境内での紛争のシーンが長すぎると揶揄する。だが逆である。もっと長くて良い。その分、後半のどうでも良い資料映像を--自称右翼が問題視する映像も含め--大幅に刈り込むべきである。
■なぜ長くするべきなのか。刀匠や原住民の政治的立場の伝達よりもミメーシス(感染的摸倣)が狙いだからだ。刀匠にも原住民にも単一の側面からのみ密着するから、ダラダラして退屈だ。刀匠にも原住民にも存在するだろう万華鏡ぶりを掬い取るべきなのだ。
────────────────────────
■『靖国 YASUKUNI』(以下『靖国』)を巡る昨今のマスメディア報道に根本的な誤りがある。そのことが本来あり得ない筈の「混乱」をもたらしているだろう。「混乱」と記した。映画に対する抗議も映画館の自粛も混乱ではない。それが私の議論の出発点だ。
■問題がどう把握されるべきで、どこに問題があるか。それが連載第一回の主題である。「何を言うか、表現の自由の問題じゃないか」と憤激する向きもあろう。間違いだ。表現の自由は憲法規定で、憲法規定は国民ではなく国家(統治権力)への命令だからだ。
■交際を申し込まれた女が創価学会員は嫌いだと断った。憲法違反か。否。女は働かずに嫁に行けと父親が娘を諭す。憲法違反か。否だ。信教の自由や両性の平等という憲法規定の名宛人(命令の宛先)は国民ではないからだ。これを分かっていない者達が多い。
■であれば、かつての顕密体制ではないが、日本は末端では立憲国家とは言えない。立憲国家とは憲法が法律に優越する政治体制だ。憲法が法律に優越するとは、国民から国家への命令の枠内で国家は国民に命令できるということ。法治(法の支配)の一類型だ。
────────────────────────
■今回は文科省が『靖国』に750万円の助成金を出していた。むしろ国家は『靖国』を支援していたのだ。いや、稲田朋美議員が公開前の段階で自分に映画を見せろ(試写せよ)というのは事前検閲、まさに表現の自由への侵害だ、と憤慨する向きもあるだろう。
■残念だが間違いだ。私もしばしば御世話になる外国人特派員協会の会見「映画『靖国』をめぐる問題点」(3月28日)での稲田議員の言い分は合理的だ。映画の中立性ならびに日本映画であるか否かに疑義があるので、国会議員の責務として問題視したと語る。
■二つの疑義が妥当か否かは本質ではない。疑義があれば行政官僚の行為を問題視するのが議員の責務だからだ。いや、それが目に見えない圧力になる、或いは自称右翼を刺激するのだ、とする反論もあろう。だがそれは、統治権力でなく、市民社会の問題だ。
■だから、たとえ公開前に試写せよとの要求があったにせよ、要求された試写の対象が稲田議員とシンパに限定されていたにせよ、そこには糾弾に値する瑕疵はない。真の問題は「なぜそれを圧力だと感じるか、感じたとしてなぜはね除けられないのか」にある。
■ちなみに配給宣伝のアルゴピクチャーズが全国会議員と議員秘書に試写の範囲を拡げたのは妥当だ。だが稲田側の要求が理不尽だからではなく、試写を特定の立場の議員達に限るより多様な立場の議員達に拡げた方が助成の妥当性論議が適正化するからである。
■その適正性とは憲法規定(表現の自由)に従うか否かという統治権力側の正しさの問題でなく、政治的決定(助成)の是非に関する議論により多くの立場の者達が参加できる[ことを要求する]か否かという市民社会側の正しさの問題だ。ここにヒントがある。
────────────────────────
■3月22日以降「銀座シネパトス」で自称右翼(複数)の街宣や来訪や電話があり、3月26日にシネパトス側が公開中止を決めた。続いて31日に「渋谷Q-AXシネマ」「シネマート六本木」「シネマート心斎橋」が自称右翼からの抗議がないのに同様に決定した。
■報じられた限りでは『靖国』を見ていない段階で抗議をしたとされる。巷間そのことが問題視される。見る前に文句を言うとは何事か。皆で見てから議論せよ云々。むろん、市民間でかかる応酬があるのは民主主義(民主制ではない)の観点から極めて望ましい。
■だがそれも市民社会の健全性を巡る相対的な問題だ。かかる批判は自称右翼に対する決定的な異議申立にはならない。彼らの行動前提が『週刊新潮』(昨年12月20日号)が「反日映画『靖国』は日本の助成金750万円で作られた」と報じたことにあるからだ。
■同誌報道と、この報道を前提とする稲田議員の行動(に関する報道)が、自称右翼を促した。「見る前に抗議するな」との批判は尤もだが、「巷間反日映画とされる作品の公開を黙視すれば右翼の名が廃る」という立場にも合理性がある。つまりは、仕方ない。
────────────────────────
■政治家の行動も自称右翼の行動も決定的批判の対象にならないとすれば、批判されるべきは映画館ないし興行側の対応か。巷間「暴力に到らない抗議で中止するとは何ごとか」「まして抗議もないのに自粛するとは何ごとか」という映画館側への批判が溢れる。
■むろん市民間でこうした応酬があるのは、先程と同じく、民主主義すなわち「社会的な決め事には多様な市民の参加が望ましい」とする市民社会側の(あるべき)価値観からして望ましい。だが映画館批判の内容が妥当かどうかは別だ。私は妥当でないと思う。
■無頼漢の侵入を完全抑止はできない。来場客の持物チェックは未だ常識化していない。客に被害が出れば民事訴訟の対象になり得る。かつてのようにスクリーンを斬られれば百万円を超える損害が出る。抗議団体の街宣行動が近隣住民に迷惑になる可能性もある。
■映画館側の決定には合理性がある。プリンスホテルが日教組への大会会場提供をキャンセルした問題と同型的だ。公開告知を信じた客や一旦契約した客への信義違反だとの批判は尤もだが、対処しきれないと判断するホテルや映画館が出てくるのは、仕方ない。
────────────────────────
■「仕方ない」がキーワードだ。映画の見方は人それぞれ。『靖国』を反日的だと感じる者もいる。そうした記事が出るのは仕方ない。靖国を看板にする議員が記事を読んで『靖国』助成金に疑念を持ち、未見だから映画を見せろと要求するとしても、仕方ない。
■世の中的に反日映画ということになっていれば、そんな映画を公開するのかと抗議する自称右翼が出てくるのも仕方ない。たとえ自分で見てそれ程でもないと感じたにせよ、反日映画だという予期の地平が既成化していれば、抗議は象徴闘争として合理的なのだ。
■そうした抗議があれば、抗議対象となったイベントをホテルや映画館がキャンセルするのも合理的だ。自館に抗議がなくても他館に抗議がある以上仕方ない。組織成員はいざしらず、触発されたメンヘル男(頭のおかしな奴)が電波を受けて暴れるかもしれぬ。
■近隣住民が、抗議団体の街宣活動を怖がったりウルサがったりするのも仕方ない。病気の老親がいるから、妊婦や乳幼児がいるから、少しでもトラブルの可能性があれば回避したい。回避してほしいと願う。責める資格がある者がいるのか。やはり、仕方ない。
────────────────────────
■そう。何もかも仕方ない。とすれば指をくわえて成行に任せる他ないのか。実はそこにだけ論じられべきポイントがあるのだ。先程、これは統治権力を批判すべき表現の自由の問題でも、映画館や興行側を批判すべき信義違反や腰抜けの問題でもないと述べた。
■結論的にはこれは市民社会の成熟の問題だ。19世紀半ば『悪の華』が風紀紊乱だと起訴され、若くして夭折した悲劇の詩人ボードレールの(鈴木邦男氏も好む)台詞がある。「僕は君の思想は気に入らぬが、誰かが君を脅かすなら、僕は命をかけて君を守る」。
■仕方なさにかまければ、映画『靖国』のように、特定の感じ方や考え方をする人間たちの意見表明の機会が奪われる。仕方なさは個人的な行為合理性の問題だが、多様な感性や思想を持つ人々を包摂できるか否かは個人の個別行為を越えた社会の正しさである。
■社会学的な言い方では「行為へのコミットメントではなく行為を支えるプラットフォームへのコミットメントの問題だ」ということだ。倫理学的な言い方では「自由の基底性より正義の基底性が優越するという問題だ」(井上達夫)ということになるだろう。
■政治哲学者ジョン・グレイならば「古典的自由主義から価値多元主義へ」と言う。条件付で功利主義的にも記述できる。与えられたゲームを等閑視したままどんなプレイが得かを追求するのでなく、そもそもそのゲームを続けるのが得かを追求するべきなのだ。
────────────────────────
■最後に紹介した功利主義の枠組を「行為功利主義から規則功利主義へ」と言う。市民倫理(正義だ!)を持ち出すより功利主義(得だ!)を持ち出す方が間口が広い。社会的な価値観にコミットするより、快不快のあり方にコミットする方が敷居が低いからだ。
■この功利主義的な言い方を私は十年程前から日米関係に用いてきた。産経新聞ないし『正論』的な「与えられたリソースの配置においては日本はアメリカについていくのが国益上一番だ」という物言いがある。政治哲学の基礎中の基礎を知らぬ馬鹿な物言いだ。
■米国の外交には建国神話に依存する三つの原則がある。第一は「俺も放って置くから、俺を放っておいてくれ」という孤立主義。第二は「敵の結束を恐れる」がゆえの二国間外交への分断主義。第三は「米国についていくのが一番」と思わせる非軍事化的な戦略。
■単なる説得主義ではない。日頃からプラットフォームを手入れし、相手国が合理的(利己的)なプレイをした場合、自動的に米国の利益になるようセットアップする。プレイの鍔迫合いに先立ってゲームを御膳立する。ジョセフ・ナイはソフトパワーと呼ぶ。
■この第三の原則が、領土支配(領域化)による資源還流を目指す旧帝国主義と異なる、脱領域的なルール支配(デファクト)によるドル還流を目指す米国流グローバル化をもたらした。ローマ帝国の属州統治に見られる「自発性の操縦」の、最高度の洗練形態だ。
■ゲームの非自明性に鈍感なままプレイにかまける傾向を丸山真男は「作為の契機の不在」と呼ぶ。ゲームのプラットフォームを山川の配置のように自然な与件だと見做すので戦略音痴になる。でもそれが日本的美風だとして江藤淳はアンビバレンスに苦しんだ。
────────────────────────
■外交軍事音痴をもたらす「作為の契機の不在」≒「規則功利主義の不在」が、内政において映画『靖国』の問題をもたらす。各個別行為の仕方なさを超えて、個別行為の模索自体を可能にするプラットフォームを意識してコミットすることが、できないのである。
■具体的な処方箋は如何。4月3日のロフトプラスワンにおける『靖国』公開記念イベント改メ上映中止イベントで述べたことを繰返す。靖国議員や自称右翼や映画館や近隣住民や…の行為は仕方ない。仕方ないものを叱っても可愛相だろう。別の手を考えよう。
■戦略的に言えばこういうことだ。仕方ない以上、似た振舞いは今までも頻発したし、将来も反復される。だったら事前に備えておくのである。具体的に述べよう。スクリーンが斬られるのが損害なら、保険をかけたり、映画館団体で相互会社的な積立をする。
■嫌がらせ電話については、番号通知サービスを利用し、通話を録音して法的措置をとる。街宣についても、映画館団体で機器を融通、警察官の前で騒音計測する。警察とは映画館団体として日頃から協議し(仲良くして!)、局面ごとの対応措置を決めておく。
■自称右翼組織が暴力団のフロントならば、組幹部と事前に話をつけておく。その場合、映画館として有力者に頼んで組と交渉するのが批判を浴びやすいというなら、批判を浴びても構わないコネ持ちの個人が興行を代理して映画館を借りられるようにすればいい。
■何よりも先の「市民社会の原則」「人倫の原則」を観客や住民に納得して貰うことだ。“興行は日頃は娯楽を担うが、時として少数者の表現媒体となる。かかる媒体は「民主主義社会」において不可欠の「公噐」となる。多少の迷惑は忍んでくれ”。そう呼び掛ける。
■かつて、唐十郎率いる状況劇場のテント芝居が、機動隊が取り囲む中、花園神社で強行されたことがある。麻布中学時代も、機動隊の装甲車が取り囲む中、学園祭を開催した。どちらも主催者側「を」危険視しての警備だったが(笑)、本当の「祭り」を味わえた。
■いいじゃないか、祭りだ、祭り。ただ、何事かを祭るためには、日頃から共通前提の醸成が必要になる。だったら共通前提を醸成するための仕掛けを日頃から工夫しておく。仕方ないものを批判したり、仕方ないと単に黙っているのは、愚か者の振る舞いなのだ。
«Prev
||
1 |
2 |
3 |...|
104 |
105 |
106 ||
Next»